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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第54回

李炳銑氏の『独島(日本名竹島)の領有権問題』に対する苦言(前)

 最近、島根県知事宛に、李炳銑氏(釜山大学名誉教授)の小冊子『独島(日本名竹島)の領有権問題』が送られてきた。

 そこには韓国側の歴史認識が一方的に書き連ねられており、プロパガンダのために作られた小冊子というのが実感である。その『独島(日本名竹島)の領有権問題』について、「実事求是」コーナーで取り上げることにしたのは、この小冊子が日本の国会議員や国内の研究機関にも相当数が配布されていることから、その根拠のない主張が日韓関係を混乱させる虞があるからである。

 事実、李炳銑氏の『独島(日本名竹島)の領有権問題』には、次のような不可思議な「歴史認識」が記されている。

 

「現在、韓国は南北が対峙している状態なので、いろいろ不利な状況にある。日本政府は韓国のこの弱点に付け込んで、いつまたこの問題を持ち出すかわからない。これを警戒すべきである。日本は排他的な2百海里経済水域設定と共に、独島を日本の領土に編入し、海洋資源の獲得など多くの利益を得ようとしている。しかし韓国にはそのような経済的利益以上の民族的自尊心の掛かった問題である」(5頁)

 

 李炳銑氏の小冊子では、竹島問題を「民族的自尊心の掛かった問題」としながら、何故、竹島(独島)が日韓の係争の地となったのか、その歴史的な経緯には触れていない。それは「独島は韓国領」とする前提で竹島問題を論じているからであろう。そのため日本に対しては「独島を日本の領土に編入し、海洋資源の獲得など多くの利益を得ようとしている」として、一方的な批判ができるのである。

 だが竹島問題の発端は、1952年1月18日、韓国の李承晩大統領が公海上に「李承晩ライン」を宣言して、その中に竹島を含めたことにある。それも敗戦国日本が国際社会に復帰する三か月前のことで、「いろいろ不利な状況」にあった日本政府の「弱点に付け込んで」、独島(竹島)の領有権を主張したというのが真相である。それを李炳銑氏は、竹島問題を「民族的自尊心の掛かった問題」としているが、それは竹島を侵奪した韓国政府に対して、日本政府が抗議したことで醸成された民族的感情である。

 それも韓国政府が「李承晩ライン」を設定したのは、日韓の「国交正常化交渉」の本会談が始まるのを前に、外交交渉を優位に進めるためであった。実際に韓国政府は、国交正常化交渉の最中に三千名近い日本人漁船員を拿捕抑留し、解放を求める日本政府に対して、「人質外交」を行なっている。李炳銑氏が小冊子で述べている論理は、竹島を侵奪した韓国側が、その正当性を主張するために創り上げた歴史認識で、「民族的自尊心」もその中の一つである。

 李炳銑氏がこの『独島(日本名竹島)の領有権問題』を著述したのは、1994年に国連海洋法条約が発効したことと関係している。新たな「日韓漁業協定」を締結する必要に迫られた韓国政府が、1996年2月、竹島に接岸施設を建設すると公表したことが端緒となった。李炳銑氏が、「日本は排他的な二百海里経済水域を設定と共に、独島を日本の領土に編入し、海洋資源の獲得など多くの利益を得ようとしている」と憶測したのはそのためである。国連海洋法条約では、日韓の間に中間線を画定して、互いに排他的経済水域を設定し、その水域の海洋資源を保護することになっていた。その際に問題となるのは、中間線の基点をどこに置くかであった。そこで韓国政府は、竹島の占拠を確実にするため、竹島に接岸施設を建設することにしたのである。その接岸施設に対して、日本政府が抗議したことから韓国側では「民族的感情」を昂らせ、竹島問題が再燃したことから、李炳銑氏が『独島(日本名竹島)の領有権問題』を執筆することになったのである。

 だが日本が竹島の領有権を主張するのは、1954年以来、韓国政府によって竹島を占拠され、日本の国家主権が侵されているからである。李炳銑氏が「海洋資源の獲得など多くの利益を得ようとしている」としたのは、竹島の占拠を正当化するための論理である。それに李炳銑氏が小冊子で述べている論理は1990年代のもので、現在では通用しない。にもかかわらず『独島(日本名竹島)の領有権問題』を今も日本側に送り続けるのは、「独島は我が領土」とする前提で文献を解釈しているからである。事実、その演繹的な李炳銑氏の論理は、冒頭の次の一文でも示されている。

 

「この島(独島)は欝陵島から望める可視的距離にある。欝陵島と独島は大島と小島、すなわち母島と子島の関係にあり、独島は欝陵島の属島である。新羅時代、この二つの島を合わせて于山国といった。(中略)独島は新羅智証王13年(512)に新羅の領土に編入されて以来、韓国固有の領土である」(2頁)

 

 李炳銑氏によると、独島は、欝陵島とは母島と子島の関係にあって、欝陵島から「可視的距離」にある欝陵島の属島で、それは智証王13年(512)に新羅に編入された于山国に属している。そのため独島は、「韓国固有の領土」だと言いたいのであろう。

 李炳銑氏はその論拠を示していないが、独島(竹島)をこのように認識したのは、『東国文献備考』(「輿地考」)の分註に次のような記述があるからである。

 

「輿地志に云う。欝陵、于山皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」。

 

 そこで李炳銑氏は、その于山島を「倭の所謂松島(現在の竹島)」とし、「欝陵、于山皆于山国の地」に依拠して、欝陵島と独島を母島と子島の関係にある欝陵島の属島としたのである。

 しかし『東国文献備考』が編纂されたのは、はるか後代の1770年である。文献批判もせず、後世の文献を根拠に、「独島は新羅智証王13年(512)に新羅の領土に編入されて以来、韓国固有の領土である」とするのは、この小冊子が歴史研究とは無縁の次元で執筆されていることを示している。

 それに于山島を「倭の所謂松島(現在の竹島)」とし、「欝陵、于山皆于山国の地」とした『東国文献備考』の分註は、その編纂時に、改竄されていたことが証明されている。事実、「輿地志に云う」とした「輿地志」(『東国輿地志』)の原典には、「欝陵、于山皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」とした文言はなく、「一説に于山欝陵本一島」として、欝陵島と于山島を同島異名としていたからである。これは『東国輿地志』には「一説に于山欝陵本一島」とあったが、『東国文献備考』が編纂される過程で、「欝陵、于山皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」と書き換えられた、ということである。この改竄の事実は、竹島を韓国領とする韓国側にとって、極めて不都合である。なぜなら『東国文献備考』の分註は、これまで韓国側が于山島を独島(竹島)とし、独島を欝陵島の属島とする際の唯一の文献だったからである。その分註が改竄されていれば、于山島を独島とし、それを韓国領とする論拠が存在しないことになる。これは今後、韓国側が于山島を独島とする際は、必ず文献批判を行って、于山島が独島であることを論証しなければならないということで、従来のように、于山島を機械的に独島と読み換えることはできなくなったということである。

 それを李炳銑氏は、『東国文献備考』(輿地考)の分註に対する文献批判も行わず、「独島は欝陵島の属島である。新羅時代、この二つの島を合わせて于山国といった」としていたのである。李炳銑氏の『独島(日本名竹島)の領有権問題』をプロパガンダのための小冊子とする理由はここにある。

 李炳銑氏は、改竄された『東国文献備考』の分註を根拠に、「独島は欝陵島の属島」とし、「韓国固有の領土」としていたのである。

 歴史研究には不可欠な文献批判を怠って文献を解釈する李炳銑氏は、これと同じ過ちを「独島は新羅智証王13年(512)に新羅の領土に編入」されたとする際も犯している。李炳銑氏は、『三国史記』「新羅本紀」の「智証王十三年夏六月条」を根拠に、独島は欝陵島の属島とするが、『三国史記』には、「于山国、帰服す」とあるだけで、独島(竹島)に関する記述がないからである。

 それどころか『三国史記』の「智証王十三年夏六月条」には、韓国側にとって不都合な記述があるのである。

 『三国史記』の「智証王十三年夏六月条」では、于山国の疆域を「地方一百里」としているからである。それに李炳銑氏が根拠とした『三国遺事』でも、于山国の疆域については「周回二万六千七百三十歩」と、明記している。『三国史記』の「地方一百里」は、于山国の広さが郡県一つほどだったことを示し、『三国遺事』の「周回二万六千七百三十歩」では于山国の周囲が「周回二万六千七百三十歩」だったとしているからである。これらはいずれも于山国の疆域を欝陵島一島としていたということで、于山国の疆域に独島が含まれていなかったことは明白なのである。

 その『三国史記』(「智証王十三年夏六月条」)を根拠に、李炳銑氏が「欝陵島と独島は大島と小島、すなわち母島と子島の関係にあり、独島は欝陵島の属島である」とするのは、「独島は韓国の領土」とする前提で、文献を解釈しているからである。

 これは李炳銑氏が、「この島(独島)は欝陵島から望める可視的距離にある」として、『世宗実録』「地理志」(蔚珍県条)の「于山武陵二島、在県東海中、〔分註〕二島相距不遠、風日清明則可望見」を論拠とした際も、同様の過ちを犯している。

 李炳銑氏は、「于山武陵二島、在県東海中、〔分註〕二島相距不遠、風日清明則可望見」を、次のように解釈したからである。

 

「于山と武陵の二つの島は県(蔚珍県)の正東の海の中の方にあって、この二つの島は距離が遠く隔たらず、晴れた日には眺められる。(中略)このように、官撰地理誌である『世宗実録』(地理誌、1432年)でも、于山島(独島)と武陵島(欝陵島)の二つの島は朝鮮王朝が統治する領土であることを明白にした」

 

 ここでも文献批判を怠った李炳銑氏は、『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)にある「于山武陵二島」の内、于山島を独島(竹島)と決め付けていたのである。これは李炳銑氏が、『東国文献備考』の分註(「于山倭ノ所謂松島ナリ」)に無批判に従って、『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)に記された于山島を機械的に独島と解釈したからである。

 だが『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)の分註には、本文に「于山武陵二島」として、于山島と武陵島(欝陵島)を併記することになった典拠が、収載されているのである。

 それが分註に「我 太祖時、聞流民逃入其島者甚多、再命三陟人金麟雨為安撫使、刷出空其地。麟雨言、土地沃饒、竹大如柱、鼠大如猫。桃核大於升。凡物称是」と引用された部分である。この「我 太祖時」の太祖は、太宗の誤記だが、『太宗実録』の「太宗十七年丁酉二月壬戌条」と『太宗実録』の「太宗十六年丙申九月庚寅条」に由来している。

 その内、「太宗十七年丁酉二月壬戌条」では、按撫使の金麟雨が于山島から還り、于山島には「十五口、男女并八十六」人が居住すると復命している。さらに「太宗十六年丙申九月庚寅条」では、武陵等處按撫使に任命された金麟雨が、武陵島には「十五家入居」したとしている。『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)の段階では、同じ戸数が居住する于山島と武陵島の区別ができなかったのである。そのため『新増東国輿地勝覧』の分註では、欝陵島と于山島を同島異名として、「一説に于山欝陵本一島」としたのである。

 この事実は、李炳銑氏のように、『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)の本文にある于山島を現在の独島とし、「風日清明則可望見」の「望み見える」を欝陵島から独島が「望み見える」と解釈することはできない、ということである。

 それを端的に示しているのが、李炳銑氏が論拠とした『新増東国輿地勝覧』(「蔚珍県条」)の記述である。そこでは『世宗実録』「地理志」の「風日清明則」に続いて、「峰頭樹木及山根沙渚歴々可見」と記されているからだ。『新増東国輿地勝覧』(「蔚珍県条」)では、その「可見(見える)」の先に、「峰頭樹木及山根沙渚」があるとしていたのである。「峰頭樹木及山根沙渚」が見える島は、岩礁の独島ではない。この「見える」は、朝鮮時代の地誌編纂の方針(「規式」)に従って解釈すると、欝陵島を管轄する蔚珍県から欝陵島が「見える」と解釈しなければならないのである。欝陵島には樹木が鬱蒼としていたからである。

 その「見える」を蔚珍県から欝陵島が見えると読まねばならないことは、金正浩が編纂した『大東地志』(「巻十六」)の「蔚珍」条で確認することができる。『大東地志』の「蔚珍」条では、『世宗実録』「地理志」や『新増東国輿地勝覧』を踏襲して、次のように記されているからである。

 

「欝陵島〔分註〕在本県正東海中(中略)、自本県天晴而登高望見則如雲気」

 

 この中で、「自本県天晴而登高望見則如雲気」(本県(蔚珍県)より、天晴れて、高きに登り、望み見れば則ち雲気の如し)は、蔚珍県からはよく晴れた日、高所に登って「望み見る」と、欝陵島は雲気のようだ、という意味である。

 金正浩はその「見える」を、陸地(蔚珍県)から欝陵島が「見える」と読んでいたのである。これは『世宗実録』「地理志」の「可望見」も同様に、蔚珍県から欝陵島が「見える」と解釈しなければならないということである。そのため『輿地図書』と金正浩の『大東地志』では、『新増東国輿地勝覧』の記事を踏襲しながら、「一説に于山欝陵本一島」とされた于山島を本文から削除しているのである。これは『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』の于山島が、「太宗実録」に由来するもう一つの欝陵島であったことからすれば、当然であった。李炳銑氏は、『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』の于山島を独島としているが、それは文献批判を怠り、文献を恣意的に解釈していたからである。『世宗実録』「地理志」(蔚珍県条)の「見える」を根拠に、その于山島を独島とした李炳銑氏は、事実無根の主張をしていたのである。李炳銑氏の『独島(日本名竹島)の領有権問題』を、プロパガンダのための小冊子とするもう一つの理由がここにある。

 これと同じことは、『粛宗実録』(「粛宗二十二年丙子九月戊寅条」)に収録された安龍福の供述を歴史の事実とする李炳銑氏の「歴史認識」でも繰り返されている。次回は、文献批判もせず、独島は「韓国固有の領土である」とする前提で竹島問題を論ずる李炳銑氏の誤りを指摘することにする。(次回に続く)

 

 

(下條正男)


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