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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第53回

慶尚北道独島史料研究会編『竹島問題100問100答批判2』に対する批判

批判(3)

 柳美林氏の「韓国の文献の『于山島』がすべて独島を指しているというわけではないが、かといって日本の『欝陵島=于山島=松島』説が成立することでもない」に対する批判


 

 柳美林氏による下條批判の論点は、冒頭の書き出し部分で示されている。それは「下條が最も重点的に批判する韓国側の主張は、『于山島は独島である』とする主張に対して」とする一文である。拙稿に対して批判がなされたのは、韓国側では『東国文献備考』の分註に依拠して「于山島は独島である」としてきたが、その論拠は改竄されたもので、証拠能力がないとしたからである。

 そこで柳美林氏がした反論は、「これを批判するために彼(下條)は史料を無理に結びつけ解釈している」とする牽強付会?の説である。だがこの下條批判は、正鵠を得ていない。柳美林氏は、本来の争点である『東国文献備考』の分註の改竄という事実に対して、反証ができておらず、事実上黙認しているからだ。

 拙稿で明らかにしたのは、『東国文献備考』の分註(輿地志に云う、欝陵島と于山島は于山国の地で、于山島は倭の所謂松島である)が、『東国文献備考』が編纂される過程で書き換えられていたとする事実である。

 それは現存する「輿地志」(『東国輿地志』)を見れば確認ができる。『東国輿地志』には『新増東国輿地勝覧』から引用した「一説、于山欝陵本一島」があるだけで、『東国文献備考』の分註にあるような「欝陵島と于山島は于山国の地で、于山島は倭の所謂松島である」とした記述がないからである。

 この事実は、『東国文献備考』の分註に依拠して、「于山島は独島である」とする韓国側には致命的であったはずである。韓国側ではこの分註を論拠に、『三国史記』(「新羅本紀」)の「智証王十三年(512年)夏六月条」に「于山国、帰服す」とあると、それを512年に独島が新羅に帰属した証拠とし、六世紀以来、独島は韓国領としてきたからだ。

 だがその分註が改竄されていたとすれば、独島は六世紀以来韓国領であるとした論拠がなくなってしまう。そこで柳美林氏は、その不都合な事実には触れず、下條は「地図上の于山島と文献上の于山島の不一致を強調」し、「史料を無理に結びつけ解釈」したとする牽強付会説を掲げ、それを下條による自家撞着としたのである。その柳美林氏が挙げた自家撞着の論拠は、次の五点である。

 

  1, 下條は粛宗37年(1711)、朴錫昌の『欝陵島図形』で欝陵島横の島に「所謂于山島」と注記したことから、それ以後、欝陵島地図に描かれた于山島は竹島(日本の竹嶼の呼称)を指すようになったとした。

  2, 下條は、安龍福が「松島は于山島だ。これもまた我が朝鮮の領土だ」と供述した于山島を竹嶼としている。

  3, 下條は、安龍福が「松島は于山島だ。これもまた我が朝鮮の領土だ」としたのは、『新増東国輿地勝覧』の于山島に由来するとした。

  4, 下條は、安龍福が日本に持参した地図の于山島も『新増東国輿地勝覧』の于山島に由来するという。

  5, だが下條は、『新増東国輿地勝覧』の于山島は、欝陵島だとしている。下條がいう于山島とは竹嶼なのか、欝陵島なのか、その実態は模糊としている。

 

 だがこれはためにする議論である。『東国文献備考』の分註が改竄されたとする事実から逃げ、論鋒を変えただけだからである。それも柳美林氏の論理は、拙稿で検証した于山島を繋いで、「欝陵島=于山島=松島」説は成立しない、とするものであった。

 その柳美林氏が論拠としたのは、 1, 朴錫昌が『欝陵島図形』で「所謂于山島」と表記した于山島。 2, 安龍福が「日本の所謂松島」と供述した于山島。 3, 安龍福が日本に持参した地図に描かれていたとする于山島。 4, それに『新増東国輿地勝覧』の中の于山島である。

 確かに于山島という点では、共通している。だが前後、全く関係のない于山島を繋ぎ、「欝陵島=于山島=松島」説は成立しないとするのは、「舟に刻みて剣を求む」の類である。

 柳美林氏の論理は、剣はここから落ちたとして「于山島は独島である」と舟に刻みつけ、その刻印を論拠に『欝陵島図形』や『新増東国輿地勝覧』、「安龍福が持参した地図」の中の于山島を独島とするものだからである。

 だが柳美林氏がすべきことは、舟から剣が落ちた場所(『東国文献備考』の分註)を特定することで、「于山島は独島である」とする前提で文献や古地図を解釈することではない。

 事実、拙稿で『欝陵島図形』の「所謂于山島」を竹嶼とし、安龍福が「松島は于山島。これも我が朝鮮の領土」と供述した于山島は竹嶼である。それに『新増東国輿地勝覧』の于山島が欝陵島であったことも事実である。それは個々の文献にあたって、文献批判を経て得た結論だからである。

 それを文献批判もせずに、于山島という共通点を結んで、「欝陵島=于山島=松島」説は成立しないとしたのは、文献を恣意的に解釈するからである。

 ここで確認しておきたいことは、朴錫昌の『欝陵島図形』に描かれた「所謂于山島」には、「海長竹田」の注記があることである。なぜなら「海長竹」は竹嶼には自生するが、岩礁に過ぎない竹島(独島)には叢生していないからである。そのため「所謂于山島」を現在の独島(竹島)に比定することは、できないのである。

 それに柳美林氏は、「朴錫昌の地図(1711)と安龍福の于山島云々(1686)は、時期的に因果関係がない」との理由で、その証拠能力を疑っている。だが朴錫昌は、捜討使として欝陵島に派遣され、欝陵島の踏査を目的としていた。その復命のために作成された『欝陵島図形』で、于山島だけが「所謂于山島」と注記されたのは、于山島の存在が意識されていたことの証左である。

 さらに柳美林氏は、安龍福は「二度にわたり、欝陵島から独島を経て日本に渡った安龍福が独島を知らなかったということはない」と反論した。これは「安龍福は実際の竹島(独島)を知らなかった」とした、拙稿に対する柳美林氏の批判である。

 だが柳美林氏は、その論拠を示していない。柳美林氏は、安龍福が日本海を渡ったので、竹島を見ていたはずだと、憶測しただけのことである。

 安龍福が日本に渡るのは、越境侵犯の証拠として朴於屯と共に米子に連れ去られた元禄六年(1693年)が最初である。その際、朴於屯は船酔いが酷く船倉で横になっていたが、安龍福だけが「一夜を経て、翌日の晩食後、一島の海中に在るを見る。竹島(欝陵島)に比して頗る大」きな島を「見た」と供述している。この島には、朝鮮政府も関心があったようで、朴於屯に確認すると、朴於屯は「此島(欝陵島)の前後、更に他島なし」と証言している。この安龍福が見た「頗る大」きな島は、竹島(独島)ではない。竹島(独島)は、欝陵島よりも頗る小さな岩礁だからである。

 この時、安龍福が「頗る大」きな島に関心を持ったのには理由がある。欝陵島で漁撈活動をしていた際、安龍福は、欝陵島の「北東に当り大きなる嶋これあり」として、その島を「漸く二度」目撃し、欝陵島からの距離を「おおかた一日」と目測していた。安龍福によると、その島を知る者は「于山島」と称したという。

 安龍福は、欝陵島を出帆し、「一夜を経て、翌日の晩食後」、「頗る大」きな島を見ていた。それは欝陵島から「おおかた一日」と目測した距離とも近いものがあった。安龍福はその島を于山島としたのであろう。この時、安龍福が見た島は、竹島(独島)ではない。

 安龍福の一件で欝陵島に関心を持った朝鮮政府に対し、捜討使の朴錫昌が『欝陵島図形』で「所謂于山島」と注記したのは、于山島には特別な関心があったからである。だがその于山島は、竹嶼であった。

 では安龍福が鳥取藩に密航した元禄九年(1696年)の場合は、どうだろうか。日本に密航し、鳥取藩によって追放された安龍福は、帰還後の取調に対して、次のように語っている。

 欝陵島で日本の漁民に遭遇し、「欝陵島は朝鮮の領土だ」というと、倭人は「もともと松島(当時の竹島の呼称)に住んでいて、たまたま漁採で来たが、今ちょうど本所(松島)に往こうとしているところだ」と答えた。そこで安龍福は「松島は即ち子山島だ。これも我が国の領土である。お前ら、どうしてそこに住めるのか」と叱責したという。その翌暁、安龍福は舟を曳いて子山島に入った。倭人たちはちょうど大釜を並べ、魚膏を煮ているところだったので、安龍福はそれを撞き破り、大声で叱りつけると、倭人は大釜等をまとめて逃げ帰った。そこで安龍福は、倭人を追いかけたが、途中、大風に遭って隠岐島に漂着したという。

 だがこの時、安龍福は「朝欝両島監税将臣安同知騎」と墨書した旗を準備し、青帖裏、黒衣笠、皮鞋等を所持していた。安龍福は偶発的に隠岐島に来たのではなく、計画的な密航だったのである。

 これら安龍福の証言からは、安龍福の于山島像を窺い知ることができる。安龍福のいう于山島は、欝陵島の北東に位置し、欝陵島からはおおかた一日の距離にあった。その大きさは欝陵島よりも頗る大きく、人が住み、倭人らは大釜で魚膏を煮ている。于山島には舟を曳いて、入島することができる。

 安龍福が語った于山島は、現実の竹島(独島)とは全く違う。竹島は欝陵島の北東ではなく、南東にあって、欝陵島より頗る小さな岩礁である。そのため竹島には、舟を曳いて上陸できる場所はない。そこでどうやって大釜を並べて、魚膏を煮るのだろうか。拙稿で、安龍福は実際の竹島を知らなかったとした理由は、ここにある。

 柳美林氏は、安龍福の供述には「若干の虚偽」があるとしているが、偽証したという事実以外は、十中八九が虚言である。安龍福が「欝陵子山両島監税」と称したとしたのも、その一つである。

 柳美林氏はその「欝陵子山両島監税」について、拙稿で「安龍福が『欝陵子山両島監税』と称したのは、于山島には人が住めると見ていた」としたことに対して、次のような意味不明の反論をしている。

 「これは下條が、于山島には人が住めば税金を賦課することができると見ているからだ。だが税金を賦課できる島は有人島なのか」。

 では無人島の場合は、誰に課税するのだろうか。だが安龍福は、于山島には倭人が住んでいると見ている。それが鳥取藩に密航した際、「朝欝両島監税将臣安同知騎」と墨書した旗を艫に立て、「欝陵子山両島監税」と称した理由である。

 これらはいずれも于山島の実態を知らない安龍福が、于山島は松島(現在の竹島)と思い込んでいたということである。その根拠は、安龍福が持参した「朝鮮八道之図」にある。そこには欝陵島の傍らに于山島が描かれているからである。

 だがその「朝鮮八道之図」に描かれた于山島は、竹島(独島)ではない。朴錫昌の『欝陵島図形』によって、「所謂于山島」と表記される以前の于山島は、『世宗実録』「地理志」や『新増東国輿地勝覧』に由来する于山島だからである。

 柳美林氏はその『世宗実録』「地理志」や『新増東国輿地勝覧』に記された于山島を、無批判に竹島(独島)としたが、それは文献批判を怠った恣意的解釈である。

 『新増東国輿地勝覧』の分註を見ると、そこには「一説、于山欝陵本一島地方百里」として、于山島と欝陵島を同島とした記述がある。これは『新増東国輿地勝覧』が編纂された段階では、于山島と欝陵島の区別ができなかったことを示しているのである。

 それは同時代に編纂された『高麗史』「地理志」を見れば明らかで、その本文では「欝陵島」一島のみを挙げ、分註では「一云、于山武陵本二島相距不遠」として、『新増東国輿地勝覧』とは逆に、于山島と武陵島を別個の島としているからだ。

 さらに『新増東国輿地勝覧』に収載された「八道総図」と「江原道図」で確認すると、そこの于山島は、欝陵島と朝鮮半島の間にほぼ同じ大きさで描かれている。このような島は存在しない。その存在しない島が、于山島として「八道総図」と「江原道図」に描かれたのは、『新増東国輿地勝覧』の分註で「一説、于山欝陵本一島」としたように、于山島の所在が明確でなかったからである。その于山島を文献批判もせずに竹島(独島)とするのは、独断である。

 その事実は、『新増東国輿地勝覧』で確認ができる。『新増東国輿地勝覧』(「蔚珍縣条」)を見ると、その本文では「于山島欝陵島」と二島とし、分註には于山島と欝陵島に関連する記事が収録されているからである。

 これは于山島の典拠となった記事を分註で確認すれば、本文では「于山島欝陵島」と二島とし、分註で「一説、于山欝陵本一島」とした理由も明らかにできる、いうことである。

 それは〔批判2〕でも明らかにしたが、于山島に関する記述は『太宗実録』の「太宗十七年二月壬戌条」に由来している。同条では按撫使の金麟雨が、「于山島より還る」と復命しているからである。その『太宗実録』(「太宗十七年二月壬戌条」)が、「蔚珍縣条」の本文に「于山島」と表記した典拠だということである。さらに『太宗実録』(「太宗十六年八月庚寅条」)を確認してみると、その于山島には「十五家」が居住している。この「十五家」は、同じ『太宗実録』の「太宗十七年二月壬戌条」で、欝陵島に「十五戸」が住むとした記述と一致する。「太宗十七年二月壬戌条」と「太宗十六年八月庚寅条」とでは、于山島と欝陵島の違いを区別することはできない。そのため分註で「一説、于山欝陵本一島」として、後世の判断を俟ったのである。

 事実、『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』の于山島は、韓百謙の『東国地理誌』では欝陵島のこととされ、李孟休の『春官志』では于山島と欝陵島を同島異名と見ている。さらに時代が下り、『輿地図書』と金正浩の『大東地志』では于山島そのものが削除された。

 それに代わって、朴錫昌の『欝陵島図形』で「所謂于山島」とされると、以後、于山島は竹嶼のこととされたのである。于山島は竹島(独島)ではなかったのである。

 

 さて以上、縷々述べてきたが、柳美林氏は「欝陵島=于山島=松島」とする図式を夢想し、それを下條批判の論拠としたが、拙稿で『欝陵島図形』の「所謂于山島」を竹嶼とし、安龍福が「松島は于山島。これも我が朝鮮の領土」とした于山島を、欝陵島の北東にある竹嶼としたのは事実である。それに『新増東国輿地勝覧』の于山島が欝陵島であったことも事実である。それは個々の文献にあたって、文献批判を経て得た結論だからである。

 柳美林氏による下條批判の特徴は、証拠を示さずに反論することである。それは「舟に刻みて剣を求む」の類である。文献批判を等閑にした柳美林氏の下條批判は、「于山島は独島である」とする前提で「牽強付会の説」とし、自家撞着説を唱えただけである。柳美林氏の下條批判は、歴史研究とは無縁のプロパガンダでしかなかったのである。(了)

 

(下條正男)


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