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「隠岐公論」、「隠岐タイムス」が記す戦後の竹島問題

はじめに

 

 かつて研究レポートとして明治37年1月から隠岐で発刊されていた「隠岐新報」を紹介した。そこには明治期の隠岐地方の政治、経済、文化等の幅広い紹介や竹島問題に関係する隠岐島司東文輔、水産業者中井養三郎のこと、日露戦争の前半の緊迫した状況等が綴られていた。

 同様の刊行物が太平洋戦争後の昭和20年代後半2種類隠岐で発行され、隠岐の島町立図書館がかなりの号をあつめられていることを知り、渡島してこの度閲覧させてもらった。

 「隠岐公論」、「隠岐タイムス」という表題で新聞の形態で刊行されているが、戦後の竹島問題を中心に紙面を追ってみたい。

 

1.「隠岐公論」と竹島問題

 

 「隠岐公論」は原好武等が隠岐公論社を設立し、昭和29年6月10日第1号を刊行している。当初は毎月1回の発行だったが、途中から月3回の発行に変更している。第1号の巻頭に原が「創立並に創刊の辞」を書き、隠岐支庁長鈴木正男や西郷町長中西幹愛が祝辞を述べている。第1号で注目されるのは、第一面に掲載されている「竹島に戦後初の出漁-久見漁協脇田組合長等で-」の記事である。これは李承晩ラインを設定した韓国に抗議して島根県が歴史的に度々竹島渡島を行った人々の住む五箇村久見(くみ)漁協組合員に竹島での漁業権行使を依頼して昭和29年6月3日に行われた行動の報告である。このことについては組合員10人を率いて竹島へ渡った組合長脇田敏が「竹島漁業権行使の経過」と題して記録を残していることは、すでに研究レポート「隠岐の漁師脇田敏、河原春夫が語る昭和期の竹島」で紹介したことがある。

 「隠岐公論」の記事では組合長脇田敏と「往年の竹島出漁者」前田峯太郎の名を記し、ワカメやアワビ等の具体的な漁獲と接岸時アシカが30頭位岩場から海に飛び込むのを見たとして、繁殖期でもあり竹島には数百頭は生息するだろうとの談話を載せている。また村民に極秘で出漁したのは「韓国側に情報がもれないようにするため」としている。

 昭和31年1月26日付けでは「韓国船漂流2件」を記し、在日韓国代表部大阪事務所へ送り届けたとしている。漂流に関しては、西ノ島町の国賀灘へ3人の朝鮮人が死体で漂着したので埋葬するとともに昭和34年地元民と在日韓国人の有志で1周忌の慰霊式をしたことも記している(2月16日付け)。

昭和28年隠岐高校水産科の実習船「鵬丸」で教職員に竹島の状況を調査させ、翌年隠岐水産高校が独立開校するとその初代校長になった市川忠雄が昭和33年1月6日の第117号に「水産教育は国立でやれ」と題する一文を寄稿している。市川はマッカーサー・ラインや李承晩ラインにふれながら、国家を意識した国際感覚にあふれた水産教育の必要を主張している。

 市川は昭和39年に定年退職しているが、3月6日付けの第323号は竹島の重要性を主張し続けた市川の退職に惜別の言葉をおくっている。

 昭和38年2月6日付け第286号には、西ノ島町長村尾誠一郎が「竹島領土権の復帰について」と題する一文を寄稿している。「竹島の領土権の問題は、一点も疑う余地のない固有の領土であり、我が隠岐島の一環であります」と冒頭に書き、大野自民党副総裁が竹島の日韓共有論を唱えたことに憤慨を示し、隠岐4万人の意思を結集し県、政府を動かす強力な運動を展開しようと呼びかけている。

 昭和39年6月6日付け第332号は中国五県町村議会議長会が竹島問題の陳情を協議し、陳情書を作成、池田総理大臣、衆参両院議長等へ送ったことを記し、「竹島が日本国の領土であり、島根県隠岐島五箇村に属する事は歴史的にも極めて明白であって漁業に生きる隠岐島民の操業区域であった事は周知の事実であります。(中略)現に同島付近海域で操業している兵庫、鳥取、島根、山口、各県の漁業者は勿論、遠くは日本海鮭鱒漁業にも及ぼす影響は非常に大きい問題であります。政府はこの点特に認識せられて、竹島の領土権を確保するため万全の措置を講ぜられるよう茲に強く要望する。右決議する。」と陳情書の内容も書き上げている。

 昭和40年5月26日付けの第366号には「日本海々戦60周年記念に際し、今日の日本の姿」と題する寄稿文を匿名のK・A生が載せているが、そこでは日韓会談、日米安保条約のことが語られている。昭和40年6月22日に日韓基本条約が締結されるので、この直後の記事に関心があるが、目下欠号が多く7月6日付けで、『女性自身』を発行している光文社から特集を組むから竹島の写真を借用したいとの依頼があったので、それに応じたとの記事を見出すのみである。その後昭和59年4月6日付けの第999号まで「隠岐公論」は発行されていたことが確認出来る。

 

2.「隠岐タイムス」と竹島問題

 

 「隠岐タイムス」は、西郷町の吉岡三芳が発行人となり、昭和26年1月1日に創刊された毎月1号ずつの月刊紙である。創刊は「隠岐公論」より早いが、初期の号が目下未発見でわかっている最も古い号は昭和30年9月30日付けの第51号である。

 地元の動向、文化、教育等に関する記事が中心で竹島問題にふれたものは少ない。昭和39年2月18日付け第164号は「竹島の帰属問題、第3国の調停か」と題し、1月30日の衆議院予算総会で社会党の横路節男の質問に大平外相が「竹島の帰属問題については我が国は国際司法裁判所への提起を主張しているが、韓国側は第3国の調停にゆだねることを提案している。第3国はアメリカと考えられる。」と回答したことを報じ、関係資料は日本に数多く存在するのでいずれの方式でも竹島帰属は日本に有利であり、島根県や直接利害を持つ議会関係筋では楽観している状況があると分析している。昭和40年6月22日、日韓基本条約が締結された。その直後の7月20日付け第175号は「竹島のタナ上に地元は痛く失望」と題し、島民の失望を伝えるとともに、佐藤首相が「取るに足らぬ2つの岩礁であるとして帰属問題にあまり熱意をみせなかった」ことを問題視している。しかし一方で同号に「近海の宝庫、県で調査に乗り出す」の記事を載せ、「日韓交渉が批准されたら、李ラインも撤廃されるので県水商部では竹島近海の漁場を調査しようと準備を進めている。」と希望のあることにもふれている。

 日韓基本条約はそれぞれの国で批准する必要があった。そうした時期の昭和40年8月30日付け第176号は「竹島の帰属、批准国会までには納得いく資料で、社党の猛追に政府答う」の見出しで8月4日の衆議院予算委員会での社会党野原覚議員と椎名外相のやりとりを具体的に報じている。

野原「条約文書に竹島の名が見えないのはどういうことか」、外相「とくに竹島を表示する必要はないから、未解決の懸案に含めて処理方法を協定した」野原「竹島を紛争処理の交換公文で処理することに韓国も同意したのか」、外相「交換公文の一字一句完全に同意している。私どもとしては韓国も了解していると了承している」、野原「韓国に交渉調停に応じさせる保証はあるか、韓国がきかぬ時はどうする」、外相「条約を結ぶ時、相手がきかぬ時の罰をどうするというような不信感をもっていては出来ない。竹島だけでなくすべてを誠意で実行しなければならない」、野原「3月19日、韓国政府が公表した『韓日会談白書』でも竹島を懸案として取り上げぬことになったと明言している」、外相「韓国の内政批判は避けたい。だが懸案解決の文書は天に誓って間違いない」等のやりとりが続いている。その後「隠岐タイムス」は未発見の欠号が続き、いつまで発行されたかも不明である。

 

 

隠岐公論

写真:『隠岐公論』

 

隠岐タイムス

写真:『隠岐タイムス』

 

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