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中井養三郎の千島行

はじめに

 

 中井養三郎が明治37(1904)年「りゃんこ島領土編入並ニ貸下願」を外務省、内務省、農商務省に提出、翌年には仲間と「竹島漁猟合資会社」を設立し竹島でのアシカ猟を展開したのは有名である。しかし、短期間で竹島での事業は長男中井養一にバトンタッチし、自らは千島列島で海驢(あしか)や猟虎(らっこ)、膃●(左:月、右:肉)臍(おっとせい)捕獲の事業に転換することは知られていたが、その実態は明白ではなかった。

 今回、いずれも養三郎の次男中井甚二郎が作成したものであるが、妹の飼牛(かいご)ミツに送った手紙や、「父の履歴書」としてまとめた資料が隠岐の島町において発見されたので、それを以下に紹介してみたい。

 

1.中井養三郎と千島列島

 

 中井養三郎を千島列島に向かわせた原因は、農商務省の勧業計画にあったと思われる。大正4(1915)年4月、中井養三郎が島根県知事折原己一郎へ宛てた長男養一に竹島での事業を譲渡するとした「上申書」には、「今回農商務省水産局ノ計画ニ属スル千島列島ノ経営ニ従事致度候ニヨリ」と記されている。そして自らが明治43(1910)年隠岐島庁に提出した「履歴書」には「明治41年北海道千島国新知島(しむしるとう)外8島ニ於テ総地積拾弐万八千百八十四坪有料使用ノ許可ヲ北海道庁根室支庁ニ願出テ許可ヲ受ク」と記載している。中井甚二郎が「父の履歴書」として記したものにはその8島は中部千島に属する島で、期間は五ヶ年だったとしている。千島列島は択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島を南千島、磨勘留(まかんる)島、新知島、得撫(うるっぷ)島までの18島を中部千島、カムチャツカ半島に近い阿頼度(あらいど)島、占守(しゅむしゅ)島等4島を北千島と呼んでいる。現在ロシア連邦が色丹島、歯舞群島も含めてこれらの地域を支配しているが、旧ソ連はサンフランシスコ平和条約に調印しておらず、日本は択捉島以南のいわゆる北方領土の領有権を主張すると共に、他の全島も国際法上領有権は未定という立場をとっている。

 

2.中井養三郎の『千島遠征略記附沙那湾頭之夢』について

 

 中井甚二郎は妹に手紙や履歴書と共に父の千島での行動として、明治44(1911)年の択捉島沙那湾までの遠征と父が描いていた夢を「沙那湾頭之夢」として書き綴っている。

 千島遠征は明治44年8月31日中部竹島の状況確認の為に石油発動機付西洋型遠洋漁船大西丸(総トン数三十三トン、四十七馬力)に乗船して西郷を出発した。養三郎自らが描いた地図によると境港、美保関、三国港、佐渡を経て坂田港に入った。ここで故障がちの機械の修理をし北海道の沿岸を北進して積丹半島まで到達したが、強風に遭遇したため引き返して津軽海峡へ入り、襟裳岬、釧路、根室に立ち寄ってから国後水道を通って択捉島の沙那湾に9月27日に入った。ここでも暴風雨に遭遇したことや海獣捕獲の時期が過ぎていたので、再挙を期して引き揚げることにしたとある。「沙那湾頭之夢」は到着した沙那の船の中で現地の漁師と意見を交わす形をとり、養三郎が自分の夢を語る内容である。千島列島がオホーツク還流、アリューシャン群島、アラスカの富源につながる北門の要塞であること、猟虎、オットセイ、てん、狐等を乱獲しなければ持続的な捕獲事業に十分な資源であること等を述べている。なお、養三郎はいったん隠岐へ帰り明治45(1912)年から隠岐水産組合長、西郷町会議員を務めるが、大正3(1914)年から大正5(1916)年にかけては大日本水産会からアシカ漁業の監督、指導を委嘱され千島列島に出張することも度々あった。また、大正5年から6年にかけては、農商務省からオットセイの保護、繁殖に関する仕事を委嘱され一年のほとんどを千島列島で過ごしている。

 中井養三郎が竹島漁猟合資会社を設立した直後から会社員として竹島でアシカ猟に従事し現場責任者のような地位にあった人物に中渡瀬仁助という者がいる。彼の晩年の口述書に「竹島のアシカは沿海州方面に棲息する種に属し、千島列島方面のものとは異なる。」という部分があるが、中渡瀬も中井養三郎に同行して千島方面に赴いた可能性がある。

 大正6(1917)年7月、東宮殿下(裕仁皇太子、後の昭和天皇)の島根県訪問があった。軍艦「香取(かとり)」で美保関に到着され、出雲大社参拝、松江の歩兵三十六連隊の閲兵等をされた後「香取」で隠岐に向かわれ、島前の海士村に上陸し後鳥羽上皇の行在所跡、火葬塚等を見学された。皇太子には各所で献上品が差し出されているが、隠岐では中井養三郎がアシカ2頭を献上している。当時の隠岐島司村上壽夫が提出した中井養三郎に関する「調査書」には「献上者中井養三郎ハ資質朴直、志操堅実、進取ノ気質ニ富ミ事業経営ノ力アリ。夙ニ竹島ノ海驢群集地タルコトヲ知リ、特ニ海驢ノ漁業権ヲ興シ以テ專ラ竹島ノ経営ニ當リ獣皮ノ販路ヲ開拓スル等其地斯業ノ攻究ニ尽シ以テ大ニ奮励努力スル所アリ」とある。

 

3.中井甚二郎が公表した父の写真

 

 少し話が横道にそれるが、中井甚二郎は昭和28(1953)年8月刊行の雑誌『水産界』と10月7日付け「朝日新聞」に、父中井養三郎が明治38(1905)年3月に島根県知事松永武吉等と竹島へ渡った時の写真だとして1葉の写真を公表している。

 昭和28年には前年の韓国大統領李承晩による海洋主権宣言で李承晩ラインが設定され、日本、韓国間で激しい抗議や批判の応酬が続いており、同年6月には隠岐高校練習船「鵬丸」が竹島渡航を強行した。7月には日本の海上保安庁の巡視船「へくら」が韓国側から銃撃を受ける等の緊迫した時期であり、竹島が古くから日本領であることを父等の行動で証明したいとする意図が感じられる。

 中井甚二郎は水産庁の職員であり、当時52歳で職業や年齢からも信頼すべき立場の人物であるが、集団写真の中で中井養三郎は、はっきり確認できるが他の16人の中に松永知事らしい人物は見出せない。さらに明治38年3月の知事の行動を行政関係文書や新聞記事等で調べても東京出張や高等女学校の卒業式に臨席はあっても竹島渡航の事実は見出せない。松永知事の竹島渡航は従来同年8月18日に藤田、佐藤、大塚という3名の随行員との実施が一度だけと言われてきた。現段階で考えられるのは、翌明治39年3月中井養三郎を含む島根県の45名が竹島、鬱陵島を訪れた時の写真を誤って明治38年撮影と公表したということである。この時は松永知事は参加しておらず島根県庁第3部長神西由太郎が調査団長であった。ただこの時写真撮影をまかされた写真技師大野政助が残した竹島での中井養三郎の写真は、現在この1枚しか存在せず貴重なものである。

 

4.中井養三郎の千島経営の挫折

 

 中井養三郎の娘で小学校校長飼牛勝壽に嫁いだミツは隠岐の新聞に「父を語る」という手記を書き「漁業の先駆者として父は盛んに資金を持ち出したため、生家には多大の損失をかけましたが、ウラジオストック、樺太、千島列島の水産の珍しい話の中で私達は育ちました」と養三郎から千島列島の話も聞いたことを記憶している。しかし中井養三郎が新しい事業と期待していた千島列島でのアシカ猟は思いがけないことで挫折することになった。

 大正3(1914)年1月13日付けの「東京朝日新聞」が「北千島海猟禁止」と題して、農商務省が省令で今回東経149度以東北緯45度以北の場所において、官庁以外海驢(あしか)及び海豹(あざらし)猟を禁止することになった。理由は明治44(1911)年日英米ロ四国間で「おっとせい保護条約」が結ばれ、おっとせいの漁獲は公的な官庁だけですることになった。おっとせいが一匹千円以上で取引きされるのに対しあしか、あざらしはわずか四円内外であるので、民間の海猟者があしか、あざらしの漁猟と称しておっとせいを漁獲するためであるとしている。

 

おわりに

 

 中井甚二郎は妹の飼牛ミツへの手紙で父の千島での事業は失敗に終わったが、自分の信念にそって果敢に行動した父の行為は、私達にとって名誉なことに思えると記している。中井養三郎は再び隠岐での生活にかえった。前述のように隠岐の漁業者として隠岐水産組合長、西郷町会議員を務めた後、昭和4(1929)年4月から昭和7(1932)年4月まで西郷町長の重責を担い、町の発展に尽くしている。現在隠岐の島町西郷には中井養三郎、養一、甚二郎の名前を刻んだ中井家の墓がある。

(前島根県竹島問題研究顧問杉原隆)

 

中井養三郎の子供たち

【写真1】中井養三郎の子供たち

(左端:長男中井養一右端:次男中井甚二郎後部の幼児:三女中井(飼牛)ミツ)

 

千島列島への航路

【写真2】中井養三郎が描いた千島列島への航路

 

沙那湾

【写真3】中井養三郎が留まった沙那湾

 

父の草稿

【写真4】中井甚二郎が保存していた父の草稿

 

「水産界」掲載集合写真での中井養三郎(後方赤枠)

【写真5】「水産界」に載る竹島の中井養三郎

 


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