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【講演】日本の領土問題について

下條正男

下條正男(しもじょうまさお)
(拓殖大学国際開発学部教授)

●講師プロフィール
昭和25年、長野県生まれ。國學院大学大学院文学研究科博士後期課程修了。同56年に韓国へ渡り、祥明女子師範大学講師、三星綜合研修院主任講師、韓南大学講師、市立仁川大学客員教授を経て平成10年12月に帰国。平成11年4月より拓殖大学国際開発研究所教授。現在、拓殖大学国際開発学部教授。
*著書:『ある日本人の発想』(三星電子家電営業本部)、『日韓・歴史克服への道』(展転社)『竹島は日韓どちらのものか』(文春新書)ほか。

 拓殖大学の下條と申します。日頃はもっと若い学生が座っているものですから、今日はちょっと緊張しています。自分の父親に見つめられているようなそんな感じがいたします。
私は、韓国に十五年滞在しておりました。竹島との関わりも、滞在中からです。一九九六年、韓国が竹島に接岸施設を造ったことに対して、日本が抗議をしたことが、向こうのマスコミでは大きく取り上げられました。最近の韓国と同じような雰囲気が家のまわりにもあったわけです。私の娘も非常に怖がり、「日本は悪いことをしたの」と聞くので、娘に答えるために竹島問題を調べ始めたのです。そして韓国側の歴史認識に問題があることを発見したのです。ですから今日は一人の父親として、皆様にお話しさせて頂きたいと思っています。領土問題の観点というより、そこにある問題点は何かというところを皆さんとご一緒に考えていきたいと思っています。

 


1.「日韓友情の年」と竹島問題

 今、韓流ブームというものがありまして、日韓関係が非常に良くなっているような感覚を日本人も韓国人も持っています。今年は「日韓友情の年」として、国交正常化四十周年を日本政府および韓国政府両方がお祝いをすることになっていました。ところが、突然「竹島の日制定」というのが降って湧いたわけです。外務省としても処理に困ってしまいました。もっと困ったのは韓国側です。「どうするのだ」ということになりました。一般的な論調としまして、「今ごろになって、なぜ」というお話しが出てきたと思います。こういう発想をされる方は、過去の歴史を全て忘れてしまった人たちです。「竹島の日」、竹島問題というのは日韓国交正常化と密接な関係があることが忘れられているのです。
それにも関わらず、先般、外務省の首脳が、「実効的には何の意味のないことを県民感情だけで決めるものは率直に言っていかがなものかと思う」、「議決までしなくてもいいのではないか」という発言をしました。韓国側の方はどうなのかというと、「竹島に北朝鮮のミサイル基地を造って韓国が支援しろ」という小説家まで現れてくるような状況です。まるで宣戦布告です。そのような状況になっています。なぜそうなるのか、それは先ほどお話ししましたように、歴史というものを本当に理解していないところにあります。このことがいかに日韓関係を不幸にしてきたのか、そのことを我々は考えていかなくてはいけないと思います。
まず国交正常化交渉ついて振り返ってみます。
今年は、国交正常化四十周年ということで、四十周年を記念するわけですが、この日韓国交正常化交渉は十三年の歳月をかけて行われました。
竹島問題は、日韓国交正常化交渉の前後どちらだと思いますか。日韓国交正常化交渉の前なのです。日韓国交正常化交渉の始まる前に、韓国側が李承晩ラインを引いて竹島を自国の領土であると宣言してしまいました。これから外交交渉をするというときに島が人質になってしまったのです。それから国交正常化交渉がはじまっていくのです。こういう外交交渉はうまくいくのでしょうか。日韓が国交正常化して四十年が経ちました。日韓仲良くしていきましょう。それはいいことです。しかし、そのとき外交カードとされ、未解決のままの竹島問題が全然表に出てこないという現実は、正常ではありません。そういう歴史理解が、日韓双方にあるとしたら、歴史不在の歴史認識としかいえません。
李承晩ラインが引かれるのは、一九五二年一月十八日です。島根県の方はよくご存じと思いますが、李承晩ラインというのは、公海上に引かれたラインなのです。竹島を自分の中に入れるための線です。それを越えると日本の漁船はどうなるのでしょうか。捕まってしまうのです。どのくらいの人が抑留されたかというと、二千人とも三千人ともいわれています。その実数を確認するため海上保安庁とか内閣府とか外務省に問い合わせましたが、「わかりました、調べておきます」と言われ、すでに一年以上も返事がありません。抑留された人たちは、どうなったのでしょうか。人質になったのです。日本側は国交正常化交渉をするなかでこの人たちを返してくれというのですが、相手は返さない。こういう外交交渉というのはいかかでしょう。島を取られ、人を捕らえられた状態で結ばれたのが日韓基本条約なのです。我々はそれを忘れているのです。「竹島カード」というものが外交交渉の中で使われていたのです。それが使われた日韓国交正常化四十周年なのです。それはおかしいです。忘れてしまっているのです。李承晩ラインの結果、日韓関係がどうなったのか、日本側としては韓国側に対して不信感が強くなりました。
韓国側はどうかといいますと、竹島が島根県に編入されたのが一九〇五年、しかし韓国側は一九〇〇年に韓国に編入したと主張しています。日本より五年前に編入していたのに、一九〇五年に取られてしまったから、日本の侵略の最初の犠牲の地が独島(竹島)だという認識をもっています。日本が竹島問題を表に出すと韓国・北朝鮮が口をそろえて「日本はまた再侵略を考えている」といいます。再侵略の意味は一九〇五年竹島が編入された時を起点としています。
一九〇五年には統監政治が始まり、一九一〇年には日本に併合されて総督府政治が始まり、一九四五年まで続きます。そういう歴史があるので、韓国側には、今回「竹島の日」が制定されたことについて、日本政府ではなく、まず島根県が我々を侵略しようとしている、という笑えない論調がたくさん出ています。インターネットでよく見かけます。そういう意味で竹島問題は、戦後の日韓関係のボタンの掛け違いの最初なのです。竹島問題は戦前の問題ではなくて、戦後生まれた新しい問題なのです。
日韓友情の年に、竹島問題を蒸し返すようなことはやるな。これは話になりません。日韓関係はこれでよいのか、ということを考える。竹島カードを使って日韓関係をもう一度本当に仲のよい関係にしていくには、何が必要で何が問題だったのか、ということを天下に晒した。浮き彫りにした。これが、「竹島の日」を制定した意義なのです。
実際に、日本政府の対応、韓国側の反応、それからいろいろなマスコミさまざまな意見があります。しかし歴史的事実を踏まえながら、今回の現象を見ていきますと、日本の問題、膿(病根)が見えてきたのではないか。そういう意味では、「日韓友情の年」と「竹島の日」はコインの裏表と考えていかなければならないと思うのです。


2.竹島問題に対する歴的理解?妄言と問題の先送り

 日韓関係が今始まるという意識でも良いと思います。友情をもつ仲間であれば、このような領土問題が起こってきたら「妄言」と言って席を立っていくのはどうでしょう。「妄言」という言い方だけで終わってしまいます。今日のお話しのテーマは「妄言」といってもいいと思います。何が「妄言」なのか。そのことを明らかにしていかなければなりません。今年は日韓国交正常化四十周年の節目の年です。今回の「竹島の日」の制定をきっかけとして、もう一度日本がアジアの中でどのような生き方をしたらよいのか、同時に隣国とどうお付き合いをしていけばよいのか、を考えるきっかけにしなければと思います。それこそが、「日韓友情の年」であるべきなのです。幕末、中央政府である江戸幕府は攘夷論を唱えながら、何もできませんでした。そのとき長州藩は具体的な行動を起こすのですが、島根県は、現代の長州藩かもしれません。外交ではないけれど、今回の一件は、外交的な効果があったと思います。
竹島は、今も韓国の海岸警備隊(軍隊ではなく、警察官)によって占拠されたままです。戦後の問題だと先ほどいいました。そういう観点で日本の領土問題を見ていきますと、竹島問題だけでなく、北方領土問題があります。最近になって尖閣列島の問題も出てきています。共通していることは当然ながら、近隣諸国との外交問題です。日本は積極的に対応しているでしょうか。全て相手待ちです。日本側が主張すると、歴史がどうだったと相手は出てくるのです。
日本側はそれに対して歴史の勉強をしているのでしょうか。日本の場合は一九六五年前後を境にして、竹島に関連する研究というのは終わってしまっています。政府だけではなく、我々日本人一人ひとりが過去の問題も含めて外交問題をなおざりにしてきたのではないでしょうか。未だに領土問題が相手国の外交カードとして使われています。外交をしていないのと同じことです。それが「竹島の日」を制定することによって、一変したわけです。
韓国側が竹島問題、北方領土問題に対して、どのように反応するのでしょうか。必ず出てくるのが、領土的野心ということです。日本人には野心がある、日本の社会が右傾化している、日本は再侵略する、そういうことをいっています。「北方領土と竹島は、戦前から日本の領土だったのです。侵略されたのは日本です」と我々が主張すると、再侵略だといわれるのはどういうことでしょうか。このことを日本側(外務省)が説明をして外交カードとして使わなくてはいけないのですが、そういうことがなかった。韓国ではインターネットが日本より遙かに進んでいます。ソウル大学の元教授が、「竹島の日」が制定されたということに対して、「日本は再武装をし、軍事大国になる。アジア全部を日本の勢力圏にするのが目的だ」と言っています。小説家の一人は、「北朝鮮と一緒にミサイル基地をつくれ」と叫んでいます。こういうことがインターネットでやりとりされているのです。それを見て日本側が反論しますか。ただ黙っています。どうしていいのかわからない。それが現状です。


3.北方領土問題

 戦後の領土問題といえば、北方領土問題もあります。北方領土問題はどういうものか皆さん正確に認識なさっているでしょうか
北方領土がソビエトに奪われたのはいつでしょうか。一九四五年八月二十九日です。日本が戦争に負け、無条件降服したのは八月十五日です。八月十五日が終わってからソ連軍が入ってきたのです。逃げようにも、島ですから逃げられません。家の中にソ連軍が「ここは俺のところ」と、どんどん入って来たのです。島の人たちは樺太に送られ、軍人たちはシベリアに送られました。そういう歴史があります。
一九四一年、日本とソ連との間には日ソ中立条約が結ばれました。中立条約というのは、お互いに戦争はしない、第三国との間で戦争をした場合は中立を守るということです。領土も保全をし、中立の立場に立つということなのです。条約の期間は五年間。一九四一年に条約を結んで五年というと一九四六年です。ソ連が入ってくるのは四五年です。条約違反なのです。国際法上の違反を犯しているのです。そういうことを日本の人たちは知っているのでしょうか。
ソビエトは一九四五年四月五日に日ソ中立条約廃棄の宣言を出すのですが、条約は一年前でないと破棄を通告できません。ところがソ連は、四月五日に破棄をする宣言をしておいて、八月八日には対日宣戦布告。これは中立宣言の中で行われた戦闘行為です。本来は戦闘をしてはいけないわけです。そういった歴史的事実を我々がどれだけ認識しているのか。
一八七五年の「樺太・千島交換条約」から中立条約が一方的に破棄されるまで、千島諸島全体も本来日本領土でした。それが今では北方四島だけに集約されています。この部分も歴史を理解しておかないといけません。ソ連・ロシアと日本の間では、平和条約が締結されておりませんので、平和条約を締結する際は必ず領土の確定をしなければいけません。そのときには北方領土だけでなく、千島諸島を含めて考えなければならない。そういう知識を日本人は持っているでしょうか。色丹島・歯舞島だけ返ってくればいい、半分にすればいいと言う人がいますが、これは歴史を知らない人です。私たちが過去の歴史を知るということがどれだけ大事なのか、ということを我々は考えていかなくてはいけないと思います。
北方領土には「北方領土の日」というのがあります。「竹島の日」ってありますか。これまではありませんでしたが、今はあるのです。北方領土の問題が国民的な問題であれば、竹島も同様です。「竹島の日」があって当然のことなのです。二月二十二日が「竹島の日」。これは島根県に編入された百年前を一つの記念としてつくられたものです。「北方領土の日」というのは一八五五年の日魯通好条約を署名した二月七日に基づいています。一九八一年につくられています。竹島の日が遅すぎたわけです。


4.竹島問題

 「竹島の日」制定が二〇〇五年になりましたが、竹島が日本領になったのが、一九〇五年一月二十八日の「内閣決議」においてです。竹島は元々「リャンコ島」と呼ばれていました。フランスの捕鯨船「リアンクール号」が竹島を発見したのが一八四九年。米子の村川・大屋家の人たちが通っていたずっと後のことです。内閣決議において日本は、国際法上日本の領土であるということを宣言しています。国際法というものを基準にしていました。そして島根県告示第四〇号によって島根県に編入されました。
ところが一九五一年、サンフランシスコ講和条約よって、日本が植民地支配をしていた朝鮮と離れていくことになります。領土の確定をするわけですが、その時に問題になってくるのが竹島です。李承晩ラインの前にマッカーサーラインという暫定的なものがあり、このとき竹島は朝鮮領の中に入っていました。ところがサンフランシスコ講話条約の第二条のa項では当初、朝鮮に属する島として、鬱陵島、竹島、済州島とあったのですが、最終的には竹島は日本領になり、巨文島が朝鮮領土として確定することになりました。
一九五二年四月二十八日、サンフランシスコ講和条約が発効すると竹島は日本の領土になるということが確定していたわけです。ところが、そうなっては困る、ということで李承晩ラインが引かれるのです。サンフランシスコ講和条約が発効する三カ月前の一月十八日のことです。日韓国交正常化交渉の本会談がはじまるのが、二月十五日。外交交渉がはじまる直前になって、竹島は韓国領ということに一方的にされてしまった。ここから長い外交交渉がはじまるのです。
拿捕した船、抑留された漁船員たちは人質です。これを韓国側は外交カードとして使っていきます。一九五三年十二月十二日に韓国で制定された漁業資源保護法は、三年以下の懲役、禁錮または五十万ウォンの罰金というものです。五十万ウォンは、当時で五百万円くらいでしょうか。日本の漁船を拿捕し、抑留し、船もすべて没収されてしまうという状況でした。
そのとき日本側が竹島の返還を求めると、韓国側は一九〇〇年に自分たちのものにしたと反論するのです。日本が占領した最初の地が竹島なので、また再侵略するのか、ということが韓国側から主張されます。過去の問題を話し合う国交正常化交渉で日本側が竹島問題を出せば出すほど、自分の首を絞める、そういう状況がありました。しかも一九五四年九月二日に韓国の国会が竹島の武力占拠を決定します。日本側は九月二十五日に国際司法裁判所へ付託し、「国際的な紛争地として処理して欲しい」と提議をし、韓国側に提案したが、拒絶されます。その後、話し合いは行われていません。


5.韓国側の論拠

 韓国側の歴史的・国際法上も韓国の領土という論拠はどのようなものでしょう。
韓国側が常に言うのは、竹島は五一二年に朝鮮半島の領土になったということがあります。五一二年というと、今から千五百年ほど前、竹島が日本の領土となったのが、一九〇五年ですから、はるかに韓国の方が先です。韓国側がそれを主張する論拠はどこにあるのでしょうか。資料1の<3>『増補文献備考』に、「輿地志に云う、鬱陵于山皆于山国の地、于山はすなわち倭のいわゆる松島なり」と書かれてあります。『輿地志』、これは一六五〇年代に書かれた韓国の本ですが、それを引用して、鬱陵島と于山、韓国側は于山島を今日の竹島のこととしています。つまり「于山はすなわち日本でいう松島のことである」というのです。この文章を根拠に、かつて于山国と呼ばれていた鬱陵島が新羅に編入されたのが五一二年なので、于山国の属島である于山島は、この時朝鮮の領土になっていたに違いない、というのです。
資料1『世宗実録地理志』の画像もう一つ于山島という名前が出てくるのは資料<1>と<2>です。『世宗実録地理志』は、一四五四年に完成しています。『東国輿地勝覧』は一四八一年に完成したものです。そうしますと、竹島が島根県に編入されたときよりも早いことになります。ですから韓国側からしてみれば、「絶対俺たちのものに違いない」という主張をすることになるのです。
しかし、よく調べていきますとその文献解釈にはおかしな点があることにに気がつきます。
例えば、資料の<1><2>に于山とか于山島という名前が出てきます。それは分かりますか。<1>の『世宗実録地理志』に「于山武陵二島」とあります。これは于山島と鬱陵島のことです。于山島、鬱陵島の二つは縣の正東の海中にあり、とあります。縣とは管轄している蔚珍縣のことです(竹島関連地図参照)。于山島と鬱陵島は蔚珍縣の正東、東側にあるということを示しています。そして、于山島と鬱陵島を説明して「二島相去ること遠からず」と書いてあります。二島、于山島と武陵島は離れているが遠くない。
それでは実際の鬱陵島と竹島とはどうでしょうか。遠くないといえますか。九十二キロも離れています。江戸時代でしたらどうでしょう。船で一日の距離です。ちょっと表現がおかしいと思い

竹島関連地図ませんか。ですが韓国側は、離れていない、ここに出ている于山島は竹島にちがいないと言うのです。
そしてもう一つ、<2>の『東国輿地勝覧』にも于山島が登場してきます。「三峯岌業」として、三つの大きな山がニョキニョキ立っている。空を支えているようであるという島の様子や、南の方がやや低くなっていて、よく晴れた日には峯々の樹木であるとか、島の下の波際とかそういったものがよく見えると書かれているのです。「木がある?」、竹島に木がありますか。韓国側は、鬱陵島から竹島を見たものだといっています。木については、今はないが昔はあったと言う。だから今、一生懸命植林しています。しかし竹島は火山の頂上ですから、木が生えるかどうか、峯々の樹木ということはあり得ないと思います。
次に問題となるのは、輿地志にいう鬱陵島と于山島はみな于山国の地で、日本でいう松島であるという、先ほどの『増補文献備考』です。韓国側の論拠の前提となっているこの本が書かれたのが、実は一七七〇年。一七七〇年に書かれた文献を利用してさらに古い文献を、十五世紀や五一二年のことを証明できますか。本来歴史の研究では、ある出来事がな鬱陵島拡大図ぜ起こったのかを考えていく際は、過去から今にどうつながっていくのかを明らかにしていきます。ですが韓国的な歴史認識では逆なのです。今という時点から過去に遡って、「ああだこうだ」という主張があるのです。
ところが日本側では、これまで韓国が主張する論拠を崩すことができませんでした。それは<3>の『増補文献備考』(『東国文献備考』ともいう)に登場する輿地志の記事がどのようにして記述されたのか、文献批判をしてこなかったからです。問題は<3>の『増補文献備考』が、いろんな人の文章を集めて作ったものであったという事実です。そのオリジナルの一つになっているのが、<4>の『彊界考』あるいは、『彊界志』といわれる本です。そこでは、「按ずるに輿地志にいう。一説に于山鬱陵本一島」と書かれています。本一島とは、于山と鬱陵島は同じ島であったということです。
しかし『増補文献備考』の方では、于山島と鬱陵島は別々の島で、于山島を松島にしているのです。これはどうしてなのか。その答は、こういうことです。『彊界考』の著者が、于山島と鬱陵島が同じ島だと書かれている『輿地志』の説を引用したのは、自分はそうではないと思ったからです。いろいろな地図とか書かれたものを見ると、二つの島なのだ、という自分の考えを展開するために引用したのです。それが、「いわゆる松島」に象徴的に表れています。
なぜ「いわゆる」と表現され、それはどういう意味なのか。それには次の事柄が関係しているのです。
一六九六年、安龍福という人物が日本に密航してきます。隠岐島に来て、鳥取の赤崎、青谷、湖山池などを通って賀露へ行き鳥取藩と談判した、という証言記録が残っています。韓国側の記録には、そのとき安龍福が于山島は日本の松島であると証言したことが残されています。その証言が後に一般に流布していったのです。ですから「いわゆる」なのです。安龍福がそう言ったというだけのことなのです。そして<4>の『彊界考』の著者は、新たに「ともに于山国の地」という。自分の説を加えるわけです。ところが、実は<4>の『彊界考』にもオリジナルがあります。<5>の『春官志』というものです。この中のゴシックの部分を書き換えているのです。つまり、<5>の『春官志』が書き換えられて<4>の『彊界考』となり、そして現在の韓国側の論拠の前提である<3>の『増補文献備考』につながっていくのです。于山国は松島であるという記述ですが、これは後に改ざんされたものなのです。松島は于山国であるという思いこみが生まれ、それを書いただけのことだからです。ですから松島は、朝鮮半島の于山島とは全く関係がありません。文献批判を通じて、竹島を韓国領として主張してきた韓国側の論拠が、後世書き換えられていた事実を実証することができるのです。
さて次に、国際法的にはどうなのでしょうか。

竹島関連地図一九〇〇年と一九〇五年では、竹島の領土編入がどちらが先なのか、という問題が次に出てきます。韓国側は、一九〇〇年十月二十五日、「勅令四十一号」で、鬱陵島が郡に昇格したことを理由にしています。その時の行政区域は、「鬱陵島本島、竹島、石島」です。韓国側は石島と書いてあるのが独島であると主張するのです。韓国側で「石」というのは「トル」と発音し、独島の独と発音が少し似ているので、独島とは表現しないで、「石島と書いてこれが独島で、この島が日本でいう竹島である」と言うのです。
この「勅令四十一号」を論拠にして、竹島は韓国領であるという日本の学者もいます。なぜなら石島は独島であるというのです。しかしそれは、おかしな論議です。韓国側の文献を含めて、独島という名が登場するのは、一九〇四年からです。一九〇〇年には独島の呼称は使われていません。つまり、歴史的観点から見ると石島というのは、独島とは全く関係がないのです。むろん竹島とも関係がありません。
鬱陵島はもともと農業中心でした。鬱陵島で漁業が始まるのは一九〇三年以降です。それ以前から、確かに島根や隠岐島の人々が鬱陵島に渡っていました。鬱陵島では何をしていたと思いますか。木を切っていたのです。ケヤキの木です。良い木があるのです。隠岐の福浦には弁財天が鎮座しています。江戸時代に米子の大谷家、村川家が鬱陵島に渡るときに風待ちをしたところです。弁財天は水の神様ですからお祈りをしていくのですが、この弁財天は鬱陵島の木で造ってあるのです。ところが日本人だけでなく、ロシアも入ってきて乱伐したのです。そのため鬱陵島の森林資源が枯渇して、他の産業が求められていました。一九〇三年の時点になり、イカの好漁場が発鬱陵島検察日記見され、それ以後、イカを捕るようになるのです。
一九〇四年には竹島(リャンコ島)でアシカ漁が始まります。そのときは、日本人だけが行ったのではなく、鬱陵島に住んでいる朝鮮(当時は大韓帝国)の人を雇って、島に行っていました。日本人も韓国人も、まだリャンコ島といっていました。一緒に仕事をしていたころから、韓国側ではリヤンコ島を「独島」と呼ぶようになります。ですから、石島と独島は全く関係がありません。
朝鮮政府では、一八八二年の時点で鬱陵島の調査を行っています。そのときの記録が残っています。
上図の『鬱陵島検察日記』によると、四月三十日から五月十一日の間に、百名ほどで鬱陵島の調査をしました。最初は内陸部を調査し、後は、船で鬱陵島を一周して帰ってくる。鬱陵島で一番高い聖人峰(九〇〇m)という山にも登っています。調査隊は、竹島(竹嶼)や鳥項(観音島)以外に「周りに島がない」ことを報告しています。一八八二年の時点では、竹島を発見していませんでした。
一九〇〇年に禹用鼎も鬱陵島を調査しています。『鬱島記』という本が韓国の高麗大学に残されています。この時、問題になっていたのは、日本人が木を切るということでした。伐採を止めさせようということで、官吏を派遣する。そのためには郡に昇格しなくてはいけないので、そのための調査だったのです。このときも竹島には行っていません。そういう意味では郡に昇格して石島とあっても、それが竹島であるということはあり得ないのです。


6.韓国側の問題点

 先ほど、「二島相去ること遠からず」について、鬱陵島から干山島が「見える」と解釈してよいのかどうかというお話をしましたが、それは『世宗実録地理志』には「歴々見える、二島相去ること遠からず、天気の良い日には望み見ることができる」とあるからです。これを韓国側はどう読んだか。「鬱陵島から竹島が見える」と読んで、竹島は韓国領であると主張しました。同じように鬱陵島・于山島の『東国輿地勝覧』でも、天気の良い日には山の樹木・波打ち際がよく見えるとあるので、それを鬱陵島から竹島が見えると解釈しました。

そのことから日本を代表した川上健三先生と、韓国側と論争がありました。川上先生は、鬱陵島から果たして竹島が見えるかどうか計算しました。鬱陵島の低地からは見えないというので、「見える」というのは竹島ではないと結論づけたのです。ところが山の上の方へ行くと見えるのです。そこで韓国側は見えるではないかと、見えるから干山島は竹島で韓国領だと主張することになります。今日、韓国は鬱陵島に独島展望台というものを造り、「竹島が見える」ことを誇示しています。しかし竹島が見えるのは年三・四回だそうです。それもやっと見える。私は目も悪いせいかその展望台から竹島の方を見たのですが、見えませんでした。近くの売店の方に聞くと、「ほとんど見えないよ」の返事でした。しかし論争はこれで終わっていました。
ところがこの「見える、見えない」に関連した事件が今から三百年前に起こっていました。その時は竹島ではなく、鬱陵島の領有権問題が起こっていました。朝鮮政府は自国の領土であるという理由に、この文献を使ったのです。「朝鮮半島の蔚珍縣から鬱陵島がよく見える」と解釈したのです。お分かりですか。ところが、竹島問題が起こると、『東国輿地勝覧』と『世宗実録地理志』の「歴々見える」をどう読んだか。「鬱陵島から于山島(竹島)が見える」と読んだ。だが今から三百年前は、朝鮮半島の蔚珍から鬱陵島が見えると読んでいるのです。これはおかしいです。どちらが正しいか。
鬱陵島問題のときには、外交を担当した対馬藩と朝鮮政府が争い、日本側も朝鮮政府の読み方が正しいと認め、鬱陵島は朝鮮の島であるとしました。その同じ文献を根拠にして、竹島(独島)は、韓国の領土であることを認めることができますか。同じ文献が異なる島の領有権を主張する根拠にされているのです。おかしいと思いませんか。
朝鮮半島というのは、中央集権の国家です。日本は、松江にも城がありました。地方分権なのです。地方分権というのは、自分の領域だけを治めていればよい。ところが中央集権の国家というのは、どんな地域なのか知る必要があります。そこで、地誌、地方の様子を書いた本が必要でした。日本の歴史でいうと、風土記に相当するものです。国の名前の由来・山地・特産品がどうか、そんなことが書かれています。中央政府が地方を管轄するときに参考にするのです。方向・距離などは全部中央政府を中心に線を延ばしていきます。だから、海の正東というのは、管轄している官庁から東にあるということです。
では、鬱陵島を管轄しているのはどこでしょうか。蔚珍県です。蔚珍から見たら鬱陵島は東にある。鬱陵島と蔚珍というのは離れていますから、何キロとは書けません。ですから、「見える距離にある」というふうになります。『東国輿地勝覧』とか『世宗実録地理志』を編纂するときは、全部調べるわけにいかないので、地方のお役人さんに頼んで、「こういう基本的な方針でこれを書いて下さい」と頼むのです。地方の役人はそれを参考にして、島の場合は、この島を管轄している地域からどの方向で、どのくらいの距離にあるかを報告することになります。鬱陵島の場合は遠いわけですから、「どちらの方向で、どのくらいに見える距離にある、こういうものが見える」ということになります。ですから「相去ること遠からず」となる島は、鬱陵島の近くの島でなくてはならないのです。
問題は、「于山島はどこか」です。松島(竹島)が于山島だと言っているのは、安龍福という人物です。安龍福が日本に連れて来られるときに島を見ていて、「ああ、大きな島がある。鬱陵島より大きな島がある」といっています。鬱陵島と隠岐の島の間に鬱陵島より大きな島がありますか、竹島は大きいですか。それはあり得ないことです。朝鮮の船はゆっくり走っているものですから、一日の航行距離は非常に短い。日本の船は速かったので、一日で隠岐の島近くまで来ていたので、彼は多分夕方この島を見ています。それを于山島だと間違えたかもしれません。間違えたと思います。なぜなら彼自身、鬱陵島で漁をしていたときに、島の東北に于山島があることを周りの人々から聞いています。ちょうど一日くらいの距離だということで、于山島は松島だという認識を持ってしまったのでしょう。ところで、竹島は鬱陵島のどの方向にあるでしょうか。東北にありますか。東南ですね。そういう意味では安龍福が証言したように干山島が松島(竹島)だったということはあり得ないことなのです。
韓国側が国際法的にというのですが、実は一九〇〇年の時点でも、竹島を認識していないのです。それは韓国側の文献で確認することができます。竹島は無主の地だったのです。誰も所有していない島なのです。一九〇五年、日本の内閣決議でここを無人島として誰も占拠していない島であるが、島の上には中井養三郎さんが漁業の会社をつくり、小屋を建てている。これを占拠占領として認定し、「島根県告示第四〇号」で島根県隠岐島司の所管としたのが、「竹島の日」となる一九〇五年の二月二十二日なのです。
日本は一時、「竹島は日本の領土ではない」と一八七七年に宣言をしているのですが、たとえそうだとしてもそれは韓国側とは全然関係がないことでした。韓国側はその時も竹島を認識していなかったからです。韓国側も知らない無主の地を編入したわけですから、韓国側から侵略と言われる理由がないのです。ですがこれまで日本側はその事実を証明できなかった。なぜなら、韓国側の文献を使って反論してこなかったからです。韓国側の文献を読み、日本の文献と合わせていかないと歴史の事実は明らかにはなりません。その意味では、竹島はどちらの領土かということより、文献を正確に読んで客観的な事実がどうであったのか、ということを明らかにしなくてはいけなかったのです。


林子平の図一つの良い例として、韓国が領有権を主張するときによく使う文献なのですが、日本の江戸時代の林子平という人が描いた地図があります。竹嶋と書いてあり「朝鮮ノ持也」と、朝鮮のものだと書いてある。韓国の人は、今も竹島問題が出ると、「日本の地図にも竹島は朝鮮のもの」と書いてあるから、朝鮮のものであると繰り返し主張するのです。
しかし、問題が二点あります。一点目は、竹島といわれるようになったのはいつからなのかということです。一九〇五年です。この地図は天明年間のものですから、一七八五年ころです。一七八五年に竹嶋と言っていたのはどの島ですか。鬱陵島なのです。ところがこの地図には、半島の近くに鬱陵島が描かれているので、「朝鮮の持也」と書いてある島が、竹島の位置のように見えるのです。そして「朝鮮の持也」とあるので、朝鮮の領土のように理解し、インターネットや新聞等を使って、「日本の江戸時代の地図にもこう出ている」と主張するのです。
二点目は、林子平がなぜこの地図を作ったのかということです。そのころロシアが南下してくるのです。異国船がたくさん来るのに、日本近海の地図がないのです。日本と周辺諸国がどういう位置関係にあるのかを知らなければならない。そこで林子平はこの地図を作るために、いろいろな地図を合わせて作りました。林子平は鬱陵島がどこにあるのか知りません。「朝鮮ノ持也」と付記した地図の基になったのは、『日本輿地路程全図』という地図です。そこには確かに鬱陵島が出てくる。だから他の地図と合わせるときに、二つの鬱陵島を描いてしまったのです。そして朝鮮側との交渉の結果、日本側は鬱陵島は朝鮮の領土であることを認めていました。そのため林子平の地図では、鬱陵島のところに「朝鮮の持也」と表記したのです。
そしてこの竹嶋が鬱陵島であったことは、「この島より隠州を望むまた朝鮮をも見る」との一文が付記されている事実からも明らかです。これは、松江藩の齋藤豊仙という人が、隠岐の代官として寛文年間に鬱陵島に渡ります。そのとき隠岐の地誌『隠州視聴合記』に、この文章を書いているのです。つまり齋藤豊仙は鬱陵島(当時、竹嶋)というのは、そこから「朝鮮が見えることは、隠岐の島から出雲を見るのと同じなのだ」として鬱陵島を日本領として認識していたのです。林子平の地図の原図は、その『隠州視聴合記』からの引用文を記した長久保赤水の『日本與地路程全図』であるため、当然その「朝鮮ノ持也」とある島は鬱陵島でなければならないのです。地図がある、描いてある、ということだけで韓国の領土だといっているのですが、日本側はそれすら反論してこなかったのです。


7.日韓関係のこれから

 この四十年間何もなかったのに、急に「竹島の日」ということになったので韓国も驚いたと思います。
もともと韓国は、「東方礼儀の国」です。「礼儀の国」、儒教的な立派な国であるという自負心を持っています。その人たちが、「妄言」だと言うのは、韓国の本来の姿ではありません。江戸時代、韓国側が求めていた日韓関係の理想があります。その姿勢は、お互いに信頼し、誠意を尽くす「誠信の道」です。「誠信の道」というのは、朝鮮側の基本的な外交姿勢でした。今はそういう感じではありません。やたらと交流を断っている。断絶してしまったら次はどうするのでしょう。知事がおっしゃっておられますが、竹島の問題と交流は別であると。我々としては、こういう機会を利用して、韓国側がいろいろ言ってきたら、それに対して誠意をもって客観的な事実を伝えていくことが必要ではないでしょうか。
怖い顔をして演説し、「竹島の日を制定したのは、日本に領土的野心があるからだ」と発言している韓国の人々に対しても、どんな人がどんな発言をしたかをきちんと調べておき、その方々に「あなたはここでこういう発言をしていますが、その真意はどこにありますか、そしてその根拠はどこにありますか」ということを、我々は反論していく必要があります。これは外交問題ではありません。これは文化交流です。我々が誠意を示すことによって、韓国も東方礼儀の国です、文化の国ですので、応えないはずがない。そうすることによって、お互いの文化の違い、歴史の違いを認識していくことができるのではないでしょうか。どちらの領土ということよりも、これからの交流は澄田知事もおっしゃっておられるように、政府とは全く関係なく、地方自治体がやっていること、島根県だけではなく、鳥取県であるとか、山口県であるとか、ほかの県も一緒にやればいいのではないでしょうか。そして、韓国側が求めている誠信の道で誠信誠意相手に応えていくということをこれからしていけば、韓国側もわからないわけではないと思います。
戦前、境港から鬱陵島に定期船が走っていました。鬱陵島がまだ貧弱な島で、朝鮮半島から全然船が来ないときに、日本の船が行き、衣料品・食料品を届け、鬱陵島で採れた大豆などを購入することで、島の生活を支えていました。日本人が支えていたのです。そのような時期もありました。できることならば、韓国の鬱陵島と隠岐島との間の交流をし、竹島を通ってみて、「ここが竹島か」と行ったり来たりするのはどうでしょう。私自身、鬱陵島にも行ってみました。隠岐島も見る機会がありました。島の様子が全く違うのですね。鬱陵島はとてもきれいです。一周しても一時間くらい、もう少しあるかもしれません。南国的な雰囲気があるのです。隠岐島というのは落ち着いた北国的な感じがあります。こういう交流ができればいいと思います。歴史的な故地もたくさんあります。先ほど話した福浦の弁天さん。これは鬱陵島の木で造ったものです。かつて日本が鬱陵島に渡り、どういうところに行ったのか。安龍福さんが日本に密航して来たときどういうコースだったのかなど、お互いにコースを辿りながら、どんな歴史があったのかということを、学べるようにしておく。そこで起こったトラブルは何が原因だったのか、お互いに見ていく。と同時に、日本海をみんなで守っていくには、どうしたらよいのか、そんなことを考える交流もあってもよいのではないでしょうか。
今回「竹島の日」のことで、島根県というのは日本全国だけでなく、韓国中に知られました。この宣伝効果というのは、大変なものです。だから、使節団を派遣して、「本県にお越しください」と、「こちらにはおいしいカニもあります。お城もまだ残っています」と、文化交流をし続けていく必要があると思います。そのためには相手側が何か発言していたら、それに対して反論ができるいろいろな準備をしておく。そうすることによって地域が活性化する文化的エネルギーが蓄積していくことになります。そうすることがこれからの日韓関係には不可欠ですし、それが実現できたときにはじめて本当の、「日韓友情の年」の一年目となるのではないでしょうか。
「竹島の日」を制定したということは、我々が誠信の道、お互いに性根をすえて交流をしていく第一歩であるという宣言です。これは、政府がする仕事ではありません。地方自治体でなければ、できない仕事です。それを通じて私たち自身が、韓国側と通じてさまざまな産業を振興していく機会にも恵まれるのではないでしょうか。どんどん観光客に来てもらい、また観光のため韓国に渡るのです。負の遺産をプラスの遺産に変えていけることが文化国家の第一歩なのかもしれません。韓国側も文化を求めています。
「竹島の日」の制定というのは、日本の外務省にはどう映ったか知りませんが、知事さんは大変ご苦労なさったと思います。高杉晋作が騎兵隊をつくったようなものです。明治維新、平成維新とは言いたくないのですが、明治維新の第二段が島根から始まったのです。島根県議会三十五名の議員の中には、吉田松陰がいたり坂本龍馬がいたり、たくさんの志士がいるのです。鳥取を含めて、山陰地方を新しい韓国との交流の窓口にしていく。あるいはロシアや北朝鮮も含めて、そういうふうに転換していくことが重要なのです。そういう意味では、慶尚北道の方々ともそういうお話をしていただく、と同時に学問研究をしていく場所がなんとしても島根の中に欲しいです。言われたら、すぐ返す。言われたら、黙っていて、こんなに溜まってからどうしようではなく、来た時点でおそくても即日とはいかなくても、おかしいよというクレームだけは出せる体制が必要です。言うべきことをきちんと言う。韓国人が一番嫌いなのは、黙ってこそこそすること。どんどん発言して日本側の主張をしてください。
ところで皆さんのお手元にある『「竹島」その歴史と領土問題』という本は、「竹島の日」を制定するから、本が必要だということで、急に作ることになったものです。この本は一生懸命にまとめたものですが、十分な時間が無く、いろいろな間違いがあると思います。著者校正を全然しておりません。私は見るのが恐ろしいです。怖いです。皆さんこれをぜひ読んで文章を添削していただき、ここはこう書けばいいというように使っていただけるとありがたいです。亡くなられた島根の田村清三郎先生が書かれた竹島の本(『島根県竹島の新研究』)があります。それは島根県を中心とした歴史です。私の本は、韓国側の主張と日本側の主張がどう違っているのか、なぜ竹島問題が起こったのか、歴史がどう変化してきたのか、そういう観点で書きました。
この本は、実際の歴史を知っていただくために、どういう流れがあったのか、どこでつまずいたのか、ということを気づいていただくために書いたものです。特に最後のところをお読みいただいて、「竹島の日制定」の意義をしみじみと味わっていただきたいと思います。


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