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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第26回

「東北アジア歴史財団」主催の「東海独島古地図展」について

 

 この3月2日から9日にかけ、韓国政府の研究機関である「東北アジア歴史財団」主催による「東海独島古地図展」が韓国の国会図書館二階で開催された。会場には写真パネルがあるだけで、実物の古地図が展示されておらず、羊頭狗肉の感を否めなかった。会場で配布されていたパンフレットと会場の説明文によると、今回の古地図展では、次のような主張をしたかったようである。

 「東海の古地図で注目される事はドイツ、イギリス、ロシア等で制作された西洋の地図では、韓国の古地図よりも早い時期に東海の海域に東海の地名が表記されている点だ。これは当時、西洋では東海の地名がユーラシア大陸の東側と言う意味で、使用していたということを意味している」。

 竹島については、韓国では「過去に独島を于山島、三峯島、可支島、石島などと呼」び、「西洋の古地図にはTchian-chan-tao、LiancoutRocks、HormetRocks、Menelia、orOlivutsa等の名称で表され」ており、日本海は東海の表記が正しく、竹島(韓国名、独島)は歴史的に韓国領であった、ということのようである。

 だが今回の「東海独島古地図展」でも、竹島を韓国領とし、日本海を東海とすることのできる論拠は展示されていなかった。パンフレット等では、「東海の海域に東海の地名が表記されている」としているが、朝鮮時代を通じて、東海に該当する海域は黄海及び渤海と朝鮮半島東岸の沿海部を指しており、今日の日本海とは重複しないからだ。古地図展を企画した「東北アジア歴史財団」は、この事実をどのように受け止めているのであろうか。

 東海に対する「東北アジア歴史財団」の理解は、パンフレットに記載された説明文によって判断がつく。パンフレットでは『新増東国輿地勝覧』(1531年)の「八道総図」を掲げ、次のように解釈しているからだ。

 「八道総図は『新増東国輿地勝覧』の最初に収録されている朝鮮全図である。国家の機密を守るため、誰でも知っている重要な山と河川、島、道と海の名称など、簡単な情報だけが収録されている」。

 だが「八道総図」に対するこの説明文は、文献批判を等閑にした恣意的解釈に過ぎない。『新増東国輿地勝覧』の跋文には「総図は則ち祀典載す所」と記され、「八道総図」には国家が祀る自然の神々の対象が描かれている、としているからだ。「八道総図」の東海は、朝鮮半島東岸の海濤を祀る神祠の所在を示しており、海の名称を記したものなどではない。

 現に、同じ『新増東国輿地勝覧』に挿入された「江原道図」等でも、遠洋部分については「東抵大海」(東、大海に抵(至)る)、「東北抵大海」(東北、大海に抵(至)る)と明記して大海とし、沿海部とは明確に区別しているからだ。つまり日本海の大部分は、大海として、認識されていたのである。

 さらに『祀典』に規定された東海は、高麗時代に編纂された『三国史記』(「雑志」)でも確認ができ、新羅時代、高麗時代、朝鮮時代を通じ、朝鮮半島東岸の沿海部を指している。それを「東北アジア歴史財団」では、「八道総図」に東海の文字があることから今日的な感覚で日本海と読み替え、日本海を東海と称した証拠としたのである。しかし日本海を東海と呼称することが一般的となるのは近代以後のことで、朝鮮時代までの東海は、朝鮮半島東岸の沿海部と黄海や渤海を指していたのである。

 これと同様、東海を日本海にまで拡大解釈する例は、「AMapofMarcoPolo'sVoyages」の解説でも見られる。同地図はイギリスのエマニエル・ボーエンが1744年に制作し、日本海の部分に「EASTANSEA」とあることから、パンフレットでは西洋社会が日本海を東海とした証拠としている。だが東海は、朝鮮半島東岸の沿海部を指しており、日本海に該当する「EASTANSEA」とは重複しない。それも「EASTANSEA」は、「AMapofMarcoPolo'sVoyages」に記載されている点からしても、マルコポーロの『東方見聞録』(別名、「東方紀行」・「マルコポーロ旅行記」)に倣い、「東方の海」とでも解釈したほうがよい。

 それをパンフレットや会場の説明文では、「東海の古地図で注目される事は、ドイツ、イギリス、ロシア等で制作された西洋の地図では、韓国の古地図よりも早い時期に、東海の海域に東海の地名が表記されている点だ」としているが、その事実もない。西洋地図では当該海域を「日本海」、「高麗海」、「朝鮮海」とするものが圧倒的に多いからだ。

 従って、今回の「東海独島古地図展」は、日本海を東海に改めるべきとする韓国側の思惑とは裏腹に、韓国側の主張する東海が日本海と重複しない事実を実証してしまったことになる。偽りの歴史を捏造し、国内外を欺瞞し続けることは、日韓関係をいたずらに複雑にするだけである。この種の政治的宣伝は、韓国に対する国際的な信頼度を下げ、歴史に汚点を残すことはあっても、良好な結果を後世に残すことはない。

 これは1877年に日本陸軍参謀局が制作した「大日本全図」を展示し、現在の竹島が描かれていない事実から、「1905年以前にも日本が竹島を領有していたとする日本政府の主張は虚偽である」とするのも、後述するように歴史事実を無視した詭弁でしかない。

 歴史問題としての竹島問題を論ずる際は、竹島の歴史的権原が日韓のいずれに属すかを明確にすることが必要となる。そこで「東海独島古地図展」のパンフレットでは、「過去に独島を于山島、三峯島、可支島、石島などと呼」び、「西洋の古地図にはTchian-chan-tao、LiancoutRocks、HormetRocks、MeneliaorOlivutsa等の名称で表され」ているとし、あたかも歴史的根拠が存在するかのように装っている。だが残念なことに、この中に、竹島が韓国領であったことを証明するものは何もない。

 韓国側では、今日の竹島を「于山島、三峯島、可支島、石島などと呼」んだとするが、その主張が事実無根であることは、すでに拙稿「独島呼称考」で実証済みだからだ。従って、明治38年(1905年)の竹島の島根県編入以前、韓国側が竹島を領有していた歴史的事実を実証できていない現状では、韓国側に日本を非難する資格はないのである。それを「東海独島古地図展」まで開催し、「1905年以前にも日本が竹島を領有していたとする日本政府の主張は虚偽である」とするのは、竹島問題の歴史的経緯を理解していない証拠である。

 竹島問題の発端は1952年1月18日、韓国政府が公海上に「李承晩ライン」を設定し、竹島をその中に含めたことにある。その後、1960年代まで両国政府は覚書を交換し、形式的な論争を繰り返すが、韓国側は「日韓の間には領土問題は存在しない」と嘯くだけで、竹島が歴史的に韓国領であったとする証明ができなかった。日本側が、韓国側による1954年の竹島占拠を不法占拠とする理由がここにある。

 その中で、韓国側の竹島研究は「独島はわが領土(竹島は韓国領)」とする前提で進められ、実証能力のない文献や古地図を恣意的に解釈しては、竹島を韓国領とする証拠としてきた。今回の「東海独島古地図展」もその範疇に属しており、この種のイベントが繰り返し開催される背景には、従来の日韓の竹島論争が変則的だったことに起因する。

 歴史的に見て、竹島が韓国領でなかった事実はすでに実証されているが、現在、竹島問題に対する日本側の研究には、島根県の竹島問題研究会と日本政府(外務省)の二つの見解が存在する。竹島問題の論点整理をした島根県の竹島問題研究会では、明治38年(1905年)、明治政府が無主の地であったリアンクール岩礁を竹島と命名し、国際法に準拠して日本領に編入した事実を根拠に、竹島を日本領とした。これに対し、外務省では、これまでの日韓の覚書の交換による論争の経緯から、竹島は江戸時代から日本領であったとしてきたのである。

 そこで何としても日本側の主張を論破したい韓国側は、島根県の竹島問題研究会の見解を無視し、竹島は江戸時代から日本領であったとする外務省の見解を問題としたのである。今回、その論拠とされたのが、日本陸軍参謀局が1877年に制作した「大日本全図」である。そこには現在の竹島が描かれていないことを口実に、「1905年以前にも日本が竹島を領有していたとする日本政府の主張は虚偽である」としたのである。

 だが1905年に日本領となった竹島が、1905年以前に制作された日本地図に存在しないのは当然である。この「大日本全図」に類する地図をどんなに収集しても、竹島が韓国領であった証拠にはならない。竹島を韓国領とする実証ができない韓国側が、「日本政府の主張は虚偽である」とするのは、竹島の不法占拠を正当化するための宣伝工作でしかないのである。虚偽の主張というのであれば、「日本政府の主張は虚偽である」とする韓国側こそ、虚偽の主張をしているのである。

 事実、パンフレットでは、竹島は「西洋の古地図にはTchian-chan-tao、LiancoutRocks、HormetRocks、MeneliaorOlivutsa等の名称で表され」ているとするが、ここには韓国側の欺瞞が隠されている。竹島を「LiancoutRocks」(リアンクール岩礁)と呼ぶのは1849年、フランスの捕鯨船リアンクール号の発見に由来し、「HormetRocks」(ホーネット岩礁)は1855年、イギリスの軍艦ホーネット号によって確認され、海図に書き込まれたことによる。「MeneliaorOlivutsa」もロシアの軍艦パルラダ号が1854年に竹島を認知し、「MenalaiandOlivutsaRocks」(メナレー・オリヴーツェ岩礁)と名付けたものである。従って、西洋の古地図に、竹島がLiancoutRocks、HormetRocks、MeneliaorOlivutsaと表記されたのには理由がある。

 問題は、「Tchian-chan-tao」(千山島の中国語音)を現在の竹島としてよいのかどうか、ということにある。西洋地図に登場する「Tchian-chan-tao」は、『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」等に由来し、正しくは于山島を指している。しかし「八道総図」に描かれた于山島は、欝陵島とは同島異名の島で、日韓の係争の地となっている竹島とは関係がない。『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」に描かれた于山島は、欝陵島と朝鮮半島の間に位置しており、『新増東国輿地勝覧』に引用された『太宗実録』の記事等によって、欝陵島の別称であった事実が確認できるからだ。

 問題となるのは、「八道総図」の誤った地理的知識が西洋地図に踏襲され、欝陵島と同島異名の于山島が千山島(「Tchian-chan-tao」)として、伝えられたことである。今回、展示されたダンヴィルの「朝鮮王国全図」(1737年)はその一つで、西洋地図を混乱させる元凶となっているのである。

 そのため『ベルリ提督日本遠征記』の挿絵画家として著名なウィルヘルム・ハイネの「日本海図」(1858年)では、竹島(アルゴノート島、所在不明の島)・松島(欝陵島・ダジュレート島)・ホーネット・ロックス(現、竹島)の三島と、朝鮮半島の東海岸近くには欝陵島を意味する「Pan-ling-tao」と、千山島に由来する「Tchian-chan-tao」の二島が描かれている。これはペリー提督の『日本遠征記』の折り込み地図(1855年)も同様で、ダジュレート島(欝陵島・別名松島)と欝陵島を意味する「Pan-ling-tao」の二つの欝陵島が描かれ、ダンヴィルの「朝鮮王国全図」の地理的知識がそのまま踏襲されている。

 今回の「東海独島古地図展」では、ダンヴィルの「朝鮮王国全図」(1737年)に描かれた「Tchian-chan-tao」を現在の竹島と決め付けているが、その「Tchian-chan-tao」は「八道総図」の誤謬を踏襲したもので、竹島が韓国領であった根拠にはならないのである。韓国側では、文献批判を怠ったまま文献や古地図を恣意的に解釈し、竹島を韓国領とするが、公正な歴史研究の手法を欠いた主張は妄言でしかない。

 この4月1日、嶺南大学校の独島研究所が公開した「日露清韓明細新図」も、その例外ではない。この「日露清韓明細新図」は1903年に帝国陸海測量部によって編纂されたもので、そこでは日本と韓国の間に境界線が引かれ、韓国側に竹島と松島が描かれている。そこで嶺南大学校の独島研究所は、地図には「日本側で称する竹島(欝陵島)と松島(独島)を朝鮮界に属すと表記している」とし、独島研究所の金和経所長も「日本側は自ら国境線を分け、独島を韓国領土と認定した証拠がある状況で、独島の領有権の主張は中止せねばならない」とするのである。

 しかし「日露清韓明細新図」に描かれた竹島と松島は、その経度から見ても幻の島、アルゴノート島を意味する竹島と、欝陵島に該当する松島とすべきである。なぜなら、日本では明治16年(1883年)前後から欝陵島を松島と認識していたからである。その遠因は、シーボルトが西洋に伝えた「日本図」にある。シーボルトの「日本図」(1840年)では、所在不明のアルゴノート島(東経129度50分)を竹島として表記し、東経130度56分の欝陵島(ダジュレート島)を松島として伝えたからである。そのためシーボルトの「日本図」以後、西洋の海図や地図には、所在不明の竹島(アルゴノート島)と、松島(ダジュレート島)と呼ばれるようになった欝陵島が描かれ、日本でもそれを踏襲したからである。今日、韓国側に不法占拠されている竹島は東経131度55分に位置する。シーボルトの「日本図」が伝えた東経129度50分の竹島と、東経130度56分の欝陵島(松島)とは、当然、関係がないのである。

 従って、1903年に帝国陸海測量部が編纂した「日露清韓明細新図」の竹島と松島は、緯度や経度から見てもアルゴノート島とダジュレート島である。それを独島研究所の金和経所長が、「日本側は自ら国境線を分け、独島を韓国領土と認定した証拠」とするのは、歴史の事実を無視した僻説である。江戸時代、松島と呼ばれていた現在の竹島(リアンクール岩礁)は、シーボルトの地図で欝陵島が松島とされたため、1905年、日本領に編入された際、呼称が入れ替わって、欝陵島を意味した竹島と命名されたのである。

 韓国側がしきりに問題とする太政官指令(「竹島外一島の儀、本邦関係之無し」)の竹島と松島も、所在不明の竹島と欝陵島の別名となった松島を日本の領土と関係がないとしたまでで、今日の竹島を日本の領土外とした訳ではない。韓国側では、文献や古地図を軽々に解釈し、竹島は韓国領であったとしたいのであろうが、もともと韓国領でなかった竹島を自国の領土とするところに無理がある。

 今回の「東海独島古地図展」といい、嶺南大学校の独島研究所といい、文献や古地図の一部を恣意的に解釈し、偽りの歴史を捏造することは、日韓関係に取り返しのつかない瑕疵を残すことになる。敢えて苦言を呈する所以である。

(下條正男)


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