• 背景色 
  • 文字サイズ 

実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第31回

『独島、欝陵島では見える』を刊行した東北アジア歴史財団の歴史歪曲

 

 東北関東大震災以後、韓国内では竹島問題に対して様々な憶測がなされている。今春の教科書検定で、日本の中学校の教科書に竹島問題がどう記載されるのか、関心があるからだ。「韓国は日本に人道支援をしている。日本は竹島の記述を遠慮するだろうか」。「震災による人道支援と竹島問題は別だ」といった異見がネット上で錯綜している。韓国側では竹島は韓国領とする先入見があるため、それを基準に日韓関係を考える傾向があるからだ。

 そんな中、韓国では竹島問題に関する著書が刊行された。2月22日付の韓国の聯合ニュースの電子版によると、韓国の政府機関である「東北アジア歴史財団」(独島研究所)が『独島、欝陵島では見える』を刊行し、「独島が日本領であるとする日本側の論拠を全面的に反駁した」と報じていた。その中で聯合ニュースは、「独島が日本領であると主張する日本の研究者川上健三が、その有力な根拠の一つとしたのが、独島は欝陵島では肉眼で観察できない」であったとして、東北アジア歴史財団が欝陵島での現地観測を一年半実施し、「肉眼で観察できる」ことを立証したというのである。

 だがその現地観測は、独島(以下、竹島)が韓国領であることを立証する根拠にはならない。なぜなら川上氏は、「独島は欝陵島では肉眼で観察できない」とは言っていないからだ。竹島問題が起こった1950年代、日韓は『世宗実録地理志』(1454年成立)の「見える」の解釈を巡って論争し、外務省調査官の川上健三氏は、計算によって欝陵島から「竹島の最頂部の一点が見えるは一三〇メートル」、「これを島として認め得るためには二〇〇メートル以上のぼる必要」(『竹島の歴史地理学的研究』281頁)があるとした。

 これは1952年1月18日、韓国政府が「李承晩ライン」を宣言し、日本領の竹島をその中に含めたことに起因する。抗議した日本政府に対し、韓国政府は『世宗実録地理志』の「見える」を根拠に、竹島は韓国領としたのである。その際、韓国政府は、『世宗実録地理志』に記された「于山・武陵二島。在県正東海中。二島相去不遠。風日清明則可望見(于山・武陵の二島、県の正東の海中に在り。二島、相去ること遠からず。風日清明なれば則ち望み見るべし)」の「見るべし(見える)」を、欝陵島から見た于山島の記述と解釈した。欝陵島から竹島が「見える」ので、『世宗実録地理志』に記された于山島は竹島に違いないとし、竹島の不法占拠を正当化する論拠としたのである。1950年代、日韓が竹島の領有権を争った際の争点は、『世宗実録地理志』に記された于山島が竹島であるかどうかにあった。

 それを東北アジア歴史財団では、川上健三氏自身、欝陵島の「二〇〇メートル以上」では島としての竹島が確認できる、と明言しているにもかかわらず、「独島は欝陵島では肉眼で観察できない」と主張したと独断し、欝陵島で実際に現地観測して、「見えた」から竹島は韓国領であるとしたのである。だが1950年代、「見える」が争点となったのは、『世宗実録地理志』に記載された于山島が、係争中の竹島かどうかであった。それを東北アジア歴史財団では、争点を欝陵島では竹島が「見える」のかどうかにすり替え、「見える」から竹島は韓国領であると、自国民をも欺く妄説を捏造したのである。

 この『世宗実録地理志』の「見える」に由来する論争の問題点は、すでに2004年、拙著『竹島は日韓どちらのものか』(文春新書)で明らかにした。『世宗実録地理志』の「見える」は、朝鮮半島から見た欝陵島と解釈しなければならないのである。

 事実、『世宗実録地理志』に記された于山島は、1696年の安龍福による密航事件以後、朴錫昌の『欝陵島図形』(1711年)によって欝陵島の東2キロほどにある竹嶼(所謂于山島と表記)のこととされ、于山島の名もその後、学術的評価の高い地誌からは消えている。

 その一つ、英祖40年代(1760年代)に編纂された『輿地図書』(国史編纂委員会1973年刊)の当該記事には于山島が記載されず、「欝陵島。一羽陵。島在府東南海中。三峯岌●(ヤマヘンに業)●(テヘンに掌)空、南峯稍卑。風日清明則峯頭樹木山根沙渚歴々可見(欝陵島。一つに羽陵と言い。欝陵島は府の東南の海中に在る。三つの峯は岌●(ヤマヘンに業)として空を●(テヘンに掌)(ささ)え、南峯がやや低い。よく晴れていれば峯頭の樹木や山根の沙渚が歴々と見える)」と記されている。一方、『世宗実録地理志』の記述に由来する「見える」は、『輿地図書』でも、「よく晴れていれば峯頭の樹木や山根の沙渚が歴々と見える」と踏襲され、欝陵島を説明する記述として「見える」が使われている。「見える」は、朝鮮半島から欝陵島が「見える」としているのである。

 これをより明確に、朝鮮半島から欝陵島が「見える」としているのは、金正浩の『大東地志』(1864年成立)である。『大東地志』では、『世宗実録地理志』で「よく晴れた日には見える」と記述されていた部分が、「自本県天晴而登高望見則如雲気」(本県より、晴れて、高所に登って望み見ると、あたかも雲気のようである)と記されているからだ。本県とは欝陵島を管轄する蔚珍県のことで、その蔚珍県の高所から望み見ているのは欝陵島である。

 韓国の東北アジア歴史財団では、文献批判を怠ったまま文献を恣意的に解釈し、欝陵島で現地観測をするといった前代未聞の行動に出た。だが『世宗実録地理志』に記された「見える」は、陸地から欝陵島が「見える」と解釈しなければならない。それは拙著でも明らかにしたように、『世宗実録地理志』が編纂された際は規式(調査基準)に準拠して編修されており、島嶼の場合は所轄官庁からの距離と方向を示すことになっていたからだ。『世宗実録地理志』の「在県正東海中」の一節は、蔚珍県の正東の海中に欝陵島が在ることを示し、「風日清明則可望見」は所管する蔚珍県から「見える」距離にある、と解釈するのが規式に沿った読み方である。現に于山島の名が消えた後世の地誌でも「見える」の表現は踏襲され、欝陵島を説明する文章として使われている事実が証左となる。

 それを韓国側では、『世宗実録地理志』の「見える」を欝陵島から見た于山島の記述と曲解し、欝陵島から「見える」のは竹島だけなので、于山島は竹島に違いないとしてきた。

 だが今回、その「見える」を科学的に実証しようと、一年半に及ぶ現地観測まで実施したが、それは文献批判を疎かにした非科学的手法であった。東北アジア歴史財団は『独島、欝陵島では見える』を刊行したことで、于山島が、今日の竹島とは無縁であった事実までも立証してしまったのである。これは必然的に、韓国側が竹島を不法占拠している事実が歴々と「見えて」しまったということである。韓国政府傘下の東北アジア歴史財団は、虚偽の歴史を捏造して自国民を欺き、国際社会をも欺瞞しようとしているのである。

(下條正男)


お問い合わせ先

総務課

〒690-8501 島根県松江市殿町1番地
TEL:0852-22-5012
FAX:0852-22-5911
soumu@pref.shimane.lg.jp