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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第10号

石島=独島説の誤謬

 

 韓国海洋水産開発院の『海洋水産動向』(Vol.1256)は2008年4月3日、「石島は独島だ‐日本の‘石島=独島'説否認に対する反駁‐」と題した柳美林氏の論文を掲載した。これは『山陰中央新報』(2月22日付)が、欝島郡の管轄範囲を「東西六十里、南北四十里、合せて二百余里(韓国の1里は0.4キロ)」とした『皇城新聞』(1906年7月13日付)の記事を根拠に、「石島=独島説否定の記述見つかる」と報じ、欝陵島から92キロも離れた独島が「勅令第41号」の石島であるはずはない、としたからである。

 柳美林氏はこれに対し、独島が「勅令第41号」で石島と表記されたのは、「全羅南道の沿海民が欝陵島を往来する途中」で目撃し、わかめ採りや漁労で流された島を全羅道地方の訛で「トク島ないしトル島」としたためで、「東西六十里、南北四十里、合せて二百余里」は欝島郡の管轄範囲ではなく、欝陵島の広さを示したものであるとした。

 だがこれでは反駁になっていない。石島と独島の音韻関係を論ずる前に、独島の呼称はいつから始まるのか、実証せねばならないからだ。それも「勅令第41号」が発布される1900年以前でなければ、意味がない。だが文献上に独島の名が登場するのは1904年、日本人に雇われた欝陵島の韓人がリャンコ島で海驢猟に従事してからで、独島の前身は石島ではなかった。石島と独島の音韻関係を論ずることと竹島問題は、全く関係がないのである。

 そのため『皇城新聞』が、欝島郡の管轄範囲を「東西六十里、南北四十里、合せて二百余里」としたことは意味がある。従って柳美林氏がこれを論破するには、1900年6月、欝陵島を視察して欝陵島の郡昇格を提言し、「勅令第41号」の発布に繋がった内部視察官禹用鼎の欝島郡認識を明確にする必要があった。だが禹用鼎の視察範囲は「周廻また一百四五十里たるべし」と、欝陵島一島に限られていた。これは「勅令第41号」が裁可される前日、内部大臣李乾夏が提出した請願書に「該島地方は縦八十里、横五十里たるべし」とあるように、その中に竹島(竹嶼)と石島も含まれていたということである。それに禹用鼎が欝陵島を「周廻また一百四五十里たるべし」としたのは、1882年、高宗の命で欝陵島踏査に赴いた李奎遠が、欝陵島を「周廻百四五十里」(『啓本草』)としたのを踏襲したと見てよい。その欝陵島の地理的認識は、高宗から詳細な欝陵島の図形を描くよう命ぜられた李奎遠の『欝陵島外図』の中に反映している。その『欝陵島外図』には竹島(竹嶼)と島項(観音島)の二島が描かれ、「周廻百四五十里」とされた欝陵島の範囲が明確になっていた。

 その時、李奎遠は欝陵島の生業を「造船・採■(わかめ採り)・採鰒」、「採薬」と伝え、禹用鼎も「本島■税を主と為す」と報告している。「勅令第41号」が発布された1900年、欝陵島の韓人が従事した漁業は採■(わかめ採り)であった。その欝陵島の韓人が独島に渡るようになったのは1904年、アシカ猟をする日本人に雇われたのがきっかけである。欝陵島の漁師が独島で漁労活動をし、それが石島となったとする韓国側の主張は、想像に過ぎない。まして石島と独島の関係を全羅道訛に求める説には根拠がない。いずれも牽強付会の説である。

 韓国海洋水産開発院の『海洋水産動向』は、またもや日本側に有利な竹島問題解決の糸口を提供し、みずから墓穴を掘ってしまったのである。

※■は「くさかんむり」に「霍」

(下條正男)


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