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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第2回

金正浩以前の『朝鮮図』

 

 2007年12月26日付けの韓国の聯合ニュース(電子版)は、国立中央博物館が刊行した『朝鮮図』について、金正浩以前にも于山島を独島としていたとし、「欝陵島の横の独島が、于山島の名で記載されている」と報じた。それが京郷新聞やニューシス、ニュースワイヤー、CNBニュース等、インターネット上で拡散する頃には、『朝鮮図』は、1531年に刊行された『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」を継承するものとされてしまった。確かに『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」には于山島が描かれ、『朝鮮図』(「欝陵島」)にも于山が描かれている。だがその于山島が今日の独島(竹島)であったとする実証がなされていない現状では、それは事実無根の虚報と言わざるをえない。

 現に「八道総図」の于山島は、『新増東国輿地勝覧』の「蔚珍県条」に記された『太宗実録』の記事を基に描かれており、その于山島には「十五口、男女併せて八十六人」が住んでいた。それに于山島の居住者数は、「十五家」が入居する欝陵島に派遣された按撫使金麟雨が復命したもので、金麟雨は欝陵島を于山島として報告していたからである。

 そのため于山島と欝陵島を同じ島と見なした『東国輿地勝覧』の編者も、分註に「一説に于山欝陵本一島」の一文を加え、「縣の正東の海中にあり」とする以外、何も記述していないのである。そこで韓百謙の『東国地理誌』(1615年)や李孟休の『春官志』(1745年)等は、欝陵島と于山島を同じ島とする同島異名説を採っている。

 その同島異名説に変化が現れたのは1696年、日本に密航した安龍福が、帰還後、「松島(現、竹島)は即ち于山島、此れまた我国の地」と供述したからである。その後、朝鮮側では地図上に于山島が描かれることになるが、それは独島(竹島)ではなかった。

 その典型となったのが、1711年、捜討官朴錫昌による『欝陵島図形』である。『欝陵島図形』には六個の属島が描かれ、欝陵島の東約2キロの竹嶼に「所謂于山島」と注記がなされたからだ。以後、竹嶼を「所謂于山島」とする欝陵島像は、十八世紀に成立した『廣輿図』、『輿地図』、『海東地図』、『地乗』、『八道輿地図』等に継承され、1899年に皇城新聞が「付属する小六島中、最も顕著な島は、于山島と竹島」と報じた際も踏襲されている。

 従って今回の『朝鮮図』や金正浩の「欝陵島」に六個の属島が描かれ、その一つに于山の注記があればそれは竹嶼のことで、独島(竹島)とは関係がない。それを独島が描かれているとするのは、于山島を独島とする前提で地図を読むからである。

 だがその前提は成り立たない。韓国側が典拠とする『東国文献備考』(1770年刊)の分註(「輿地志に云う、欝陵于山皆于山国の地、于山島は倭の所謂松島(現在の竹島)なり」)は、編者の申景濬が柳馨遠の『東国輿地志』の記事を改竄し、捏造したものだからである。

 韓国側では、于山島を独島とする前提で竹島問題を論ずるが、その論拠はすでに崩れている。それを敢えて于山島を独島とする理由はどこにあるか。文献批判を怠り、文献を恣意的に解釈する態度は、歴史的に韓国側が求め続けた「誠信の交わり」とは程遠い。

 今回の聯合ニュース・京郷新聞・ニューシス・ニュースワイヤー・CNBニュース等の報道は、明らかに事実無根の誤報である。速やかな是正を求めたい。

(下條正男)


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