実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~

第83回

朴世堂の『西溪雑録』(欝陵島)と韓国側の見解


 Web竹島問題研究所の『実事求是』は、2007年12月25日掲載の第1回「朴世堂の『欝陵島』」から始まった。それは柳美林氏による『西溪雑録』(「欝陵島」)の解釈の問題点についてであった。2012年9月、嶺南大学校独島研究所編『研究結果報告書』(「独島領土権のため研究」)ではその拙稿に対し、金和経氏が「日本の独島領有権偽証に関する研究下條正男の史料歪曲を中心にした考察─」と題して次のように批判した。

 金和経氏は、「研究概要」で「島根県のWeb竹島問題研究所と第2期竹島問題研究会の座長である下條正男がどのような論理で日本の独島領有権を主張しているかは次の通り」とし、「下條正男というのは『都合に応じて史料をかけはぎにして解釈』し、また『牽強付会の論理を捏造』する人物で、到底学者とみなすことのできない事実を明らかにした。そして彼のこのような偽証に基づく日本政府の独島領有権の主張も、やはり虚構でしかない」としていた。

 竹島を韓国領とする研究者の中には、日本政府の見解を私の歴史研究に依拠しているとする者もいる。そのため「竹島の日」条例が制定され、島根県が竹島問題研究会を設置すると「嶺南大学校独島研究所」、「東北アジア歴史財団」、「韓国海洋水産開発院」、「大邱大学校独島領土学研究所」等では拙稿に対する批判的研究をはじめ、それは今も続いている。

 そこで今回の「実事求是」では、根拠のない金和経氏による下條批判とその後、柳美林氏が示した『西溪雑録』(「欝陵島」)の解釈注1について、その誤謬を明らかにすることにした。

1.朴世堂の『西溪雑録』と張漢相の「欝陵島」

 朴世堂の『西溪雑録』が注目されたのには理由があった。鳥取藩米子の大谷家が幕府の許可を得て欝陵島に出漁した1693年、前年から欝陵島で漁をしていた朝鮮漁民との争いから安龍福と朴於屯の二人を米子に連れ帰った事件と関係していたからだ。朝鮮政府はその翌年、張漢相を欝陵島に派遣して、欝陵島の踏査を命じた。朴世堂の『西溪雑録』には、その時の張漢相の復命書が謄写されており、中には張漢相が欝陵島の高所から独島を目撃していた事実が記されていた。

 さらに『西溪雑録』には「欝陵島」と題した一文があり、そこには「蓋二島去此不甚遠、一飄風可至、于山島勢卑、不因海気極清朗不登最高頂則不可見、欝陵稍峻風浪息則尋常可見」(蓋し二島、ここを去ること甚だ遠からず。ひとたび風吹けば至るべし。于山島の勢、卑く、海気極めて清朗に因らざるか、最高頂に登らざれば則ち見るべからず。欝陵やや峻にして、風浪息めば則ち尋常、見るべし)とした記述があった。

 柳美林氏は、「蓋二島去此不甚遠、一飄風可至」とされた于山島と、張漢相が独島を目撃していた事実を根拠に、朝鮮が独島を于山島と認識していた証拠としたのである。従前の研究では、『世宗実録』「地理志」や『新増東国輿地勝覧』に記載された于山島を独島とする決定的な証拠を欠いていたが、『西溪雑録』の中の張漢相の復命書と「欝陵島」に記された于山島によって、于山島を独島とする有力な証拠が得られたとしたのである注2

 だがそれは柳美林氏が、「欝陵島」の「蓋二島去此不甚遠」(けだし二島、此(寧海)を去ること甚だしく遠からず)を恣意的に解読していたからである。于山島と欝陵島に関して、「欝陵島」では「于山島の地勢は低く、海気が極めて清朗でないか、最高頂に登らなければ見ることができない」とし、欝陵島については「やや高く、風浪が息めば尋常、見ることができる」と記されていることから柳氏は、次のように解釈したのである。

 

 欝陵島と于山島の関係に対して、このように明白に言及した記録は朴世堂以前にはなかった。朴世堂の言及は于山島が独島であるという事実を含めて次のような事実を教えてくれる。(柳美林著『我が史料の中の独島と欝陵島』60頁)

 

 だがその「蓋二島去此不甚遠」は、張漢相の「欝陵島」に朴世堂が書き加えた按語の一部である。従ってこの「蓋二島去此不甚遠」は、独島(竹島)を目睹した張漢相とは関係がないということだ。それに柳氏自身も「蓋二島去此不甚遠」(けだし二島、此を去ること甚だしく遠からず)の「此」を朝鮮半島の寧海としていた。その寧海からは欝陵島は見えても、独島(竹島)は見えない。だが欝陵島にも于山島にも渡っていない朴世堂が、どうして「最高頂に登らなければ見ることができない」とし、「欝陵島と于山島の関係」を「明白に言及」できたのだろうか。その経緯について、朴世堂の『西溪雑録』に収録された張漢相の復命書等から検証してみることにする。

2.朴世堂の『西溪雑録』と張漢相の復命書

 朴世堂の『西溪雑録』には、張漢相の復命書である(1)「江原道三陟鎮営将為馳報事」と(2)「江原道三陟鎮右営将為馳報事」、それに朴世堂が按語を書き入れた(3)「欝陵島」が謄写されている。その中で柳氏が注目したのが(2)「江原道三陟鎮右営将為馳報事」の次の記事(下線部分)である。

 

東方五里許有一小島。不甚高大而海長竹叢生於一面是齊。雨霽雲捲之日、入山登中峯則南北両峯岌●相向。此所謂三峯也。西望大嶺逶■之状。東望海中有一島。杳在辰方而其大未満蔚島三分一、不過三百餘里

(●は山へんに業、■は施のつくりに二点しんにょう

 

 この下線部分は、「東、海中を望めば一島あり。はるか辰(東南東)の方にあり。而してその大きさ未だ蔚島の三分の一に満たずして、三百餘里に過ぎず」と読め、欝陵島の三峯に登った張漢相が、東南東方向のはるか海中に一島を目撃し、その島は欝陵島の三分の一に満たない大きさで、そこまでの距離を三百餘里(約120キロ)とした部分である。張漢相が目睹したこの島は、現在の竹島(独島)とみてよいだろう。それは張漢相がその前段で「東方五里ばかりに一小島あり、甚だ高大ならずして、海長竹一面に叢生す」注3とした一小島は、欝陵島の東2キロの竹嶼(チクトウ)のことだからだ。

 だが朴世堂の『西溪雑録』所収の「欝陵島」で「蓋二島去此不甚遠」とした于山島を独島とすることはできない。「蓋二島去此不甚遠」とした記述は、後述するように、張漢相の「欝陵島」に書き加えられた朴世堂の按語の一部だからだ。ではその事実はどのように確認したらよいのであろうか。

 張漢相の(2)「江原道三陟鎮右営将為馳報事」によると、張漢相は備辺司に復命した際、「本島図形一本及輿地勝覧一巻并以軍官賚持上送為齊」(本島ノ図形一本及ビ輿地勝覧一巻并セテ軍官モッテ賚持上送ス)として、復命書以外に「本島図形」一本と「輿地勝覧」一巻を提出していた。この「本島図形」は欝陵島の地図で、「輿地勝覧」は(3)「欝陵島」のことであろう。「輿地勝覧」一巻を「欝陵島」とするのは、「欝陵島」は、その冒頭の「欝陵或曰武陵亦曰卯羽陵」から「啓曰島中無人矣」までが『新増東国輿地勝覧』の「蔚珍県条」を抄録し、修文したものだからである。

実事求是第83回の資料画像

「欝陵島」の一部。韓国、蔵書閣所蔵

 

 その「欝陵島」で、朴世堂の按語は「啓曰島中無人矣」(写真右から5行目)に続いて一字下げて書かれた「嘗遇一僧自称壬辰之乱俘入日本丙午随倭船至欝陵島」から始まり、「島中黄雀群飛来投竹邉串」までで、最後は、欝陵島からは竹が漂出し、対岸ではそれを生活の利器にするとした分註で終えている。

 柳氏が依拠した「蓋二島去此不甚遠」の文言は、朴世堂の按語に由来し、張漢相の復命書に于山島は登場しない。それは朴世堂が按語に「蓋二島去此不甚遠」と書き入れたのは、按語のはじめにある僧侶との出遭いがあったからである。

3.朴世堂の按語と一僧との出遭い

 朴世堂が于山島を按語に書き入れたのは、「壬辰之乱」(1592年)で俘虜となった僧侶の体験談を聞いていたからである。僧侶の話は按語の「嘗遇一僧自称壬辰之乱俘入日本丙午随倭船至欝陵島」(かつて一僧に遭う。自ら称して壬辰之乱に日本に俘入し、丙午、倭船に随って欝陵島に至る)にはじまって「已到寧海地面云」(すでにして寧海の地面に到ると云う)で終わり、その後に朴世堂の私見が「蓋二島去此不甚遠、一飄風可至、于山島勢卑」と記されていたのである。

 これは僧侶が、丙午(1606年)の年に倭船で朝鮮に帰還途中、倭人らが欝陵島に立ち寄り、その後、船は欝陵島を「天まさに暁ならんとする時に発船して以来、日わずかに暮れ、すでにして寧海の地面に到る」(暁の頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った)と語ったことに対する朴世堂の私見である。それは一日を24時間とすれば、欝陵島を暁に発って、寧海に日暮れに到着したのは半日の行程であった注4

 朴世堂はこの僧侶の話から、寧海から欝陵島と于山島はさほど遠くないとし、それを「蓋二島去此不甚遠」と記したのであろう。それを柳氏は、「朴世堂の言及は于山島が独島であるという事実」だと解釈したが、僧侶は于山島については何も語っていない。

 これは張漢相も同じで、(1)「江原道三陟鎮営将為馳報事」と(2)「江原道三陟鎮右営将為馳報事」には于山島に関した記述はない。その張漢相が目撃した独島と朴世堂の按語の中の于山島を結び付け、「于山島が独島であるという事実」とするのは恣意的解釈である。それに張漢相の生没年は(1656〜1724年)であった。張漢相が欝陵島と関わるのは1694年、1606年に帰還した僧侶と遭遇したとは考えられない。

 だが朴世堂は「嘗遇一僧」として、俘虜となって倭から帰還した僧侶に遭っていた。その場所は明らかでないが、朴世堂は二十歳(1649年)の時、仲兄の朴世堅が歙谷県令として赴任した際にともに歙谷に下っている注5。その歙谷県は欝陵島を管轄する蔚珍県と同じ江原道にあって、慶尚道の寧海とも近かった。朴世堂はその時、僧侶から欝陵島を暁に出帆し、寧海には日暮れ少し前に着岸したと聞いていた。その僧侶の話を朴世堂が張漢相の「欝陵島」の中に按語として書き入れ、寧海と二島(欝陵島と于山島)の距離を「蓋二島去此不甚遠」としたのである。

 だが柳氏は「蓋二島去此不甚遠」から「この于山島は張漢相が言う東南方向のほのかな島に該当する」としているが、それは「二島去此不甚遠」から「去此」を抜いて解釈したからである。

 では朴世堂は何故、僧侶の話にも、張漢相の(1)「江原道三陟鎮営将為馳報事」と(2)「江原道三陟鎮右営将為馳報事」にも出てこない于山島を按語に書き入れたのだろうか。

4.張漢相の「本島図形」とその于山島

 ヒントは、張漢相の(2)「江原道三陟鎮右営将為馳報事」の中の「本島図形一本及輿地勝覧一巻并以軍官賚持上送為齊」(本島ノ図形一本及ビ輿地勝覧一巻并セテ軍官モッテ賚持上送ス)とした記述にある。張漢相は復命書とともに「本島図形」一本と「輿地勝覧」一巻を提出していた。その「輿地勝覧」は、朴世堂の『西溪雑録』に収載された(3)「欝陵島」であろうが、「本島図形」の存在も確認ができる。

 『粛宗実録』「粛宗二十年八月己酉条」には「時漢相所圖上山川道里」とあり、『備辺司謄録』の「英祖十一年一月甲申条」でも「丁丑戊寅年間朝家送張漢相看審図形」とし、『英祖実録』の「英祖十一年一月甲申条」には「遣張漢相図形以来」と記されているからだ。

 だが張漢相が提出した「本島図形」は、本格的な欝陵島の地図としては初期に属し、『新増東国輿地勝覧』の「蔚珍県条」に記された欝陵島の記事とも異なる部分があった。『粛宗実録』の「粛宗二十年八月己酉条」は「時漢相所圖上山川道里、與輿地勝覧所載多舛、故或疑漢相所至非真欝陵島也」(時に、漢相の圖上する所の山川道里、輿地勝覧載する所と多く舛(たが)う。或いは疑う、漢相の至る所、真の欝陵島にあらざるなり)としているからだ。事実、欝陵島の中峯から海浜までの距離を記した(2)「江原道三陟鎮右営将為馳報事」の数値と、『新増東国輿地勝覧』(「蔚珍県条」)に記載されていた数値が異なっていた注6

 さらに『備辺司謄録』の「英祖十一年一月甲申条」によると、張漢相の「本島図形」には于山島が描かれていた。それは同条で、金取魯が「丁丑戊寅年間朝家送張漢相看審図形以来而聞欝陵島廣濶土沃曽有人居基址或有往来之痕其西又有于山島而亦且廣濶云矣」(丁丑戊寅年間朝家、張漢相を送り、看て図形につまびらかにして以来、欝陵島の廣濶土沃、かつて人居の基址有り、或は往来の痕ありと聞く。その西又于山島あり、またかつ廣濶という)としているように、張漢相の「本島図形」には、欝陵島の西側に廣濶な于山島が描かれていたという。この欝陵島の西側に于山島を描くのは、『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」や「東覧図」(江原道)系統の地図と同じである。

 では張漢相は何故、「本島図形」に于山島を描いたのだろうか。それは『粛宗実録』の「粛宗二十年八月己酉条」でも「與輿地勝覧所載多舛」としているように、当時は、『新増東国輿地勝覧』が地誌の標準だった。張漢相としては「蔚珍県条」を抄録して「輿地勝覧」一巻を作成したように、「本島図形」も『新増東国輿地勝覧』系統の地図に倣って、于山島を欝陵島の西側に描いたのだろう。

 だが(1)「江原道三陟鎮営将為馳報事」の中で、張漢相に代わって事前に欝陵島との間を往還した軍官の崔世哲は「海中無他一點小島止泊」(海中、他に一點の小島止泊なし)と報告している。朴世堂の『西溪雑録』には(1)「江原道三陟鎮営将為馳報事」も謄写されているので、欝陵島と朝鮮半島の間に于山島が描かれた「本島図形」を疑ってもよかったが、朴世堂はその按語に「蓋二島去此不甚遠」とし、于山島を「不因海気極清朗不登最高頂則不可見」(海気極めて清朗に因らざるか、最高頂に登らざれば則ち見るべからず)としていた。だが柳氏が于山島に比定した独島は朝鮮本土から見ることはできない。それに朴世堂は欝陵島にも渡っていなかった。これは軍官の報告よりも、于山島が描かれた「本島図形」に依拠して按語を書いていたからだろう。では朴世堂には、それら張漢相に関連した史料に触れる機会があったのだろうか。

5.朴世堂と南九萬

 朴世堂の『西溪雑録』に載せられているのが、張漢相が1694年、官命を受けて欝陵島の踏査に赴いた際の復命書である(1)「江原道三陟鎮営将為馳報事」と(2)「江原道三陟鎮右営将為馳報事」、それに朴世堂が按語を書き加えた「欝陵島」である。それも(1)「江原道三陟鎮営将為馳報事」と(2)「江原道三陟鎮右営将為馳報事」は原本を謄写したようで、史料的価値が高い。

 それが可能だったのは、1694年当時、領議政であった南九萬と朴世堂が姻戚関係にあったからであろう。朴世堂の妻は南九萬の姉であった。南九萬の姉は朴世堂38歳の時に亡くなったが、その関係は終生続いた。南九萬は「祭西溪朴兄文」で「我之姉。帰兄為婦。情比天倫、義則畏友」とし、二人は互いに尊敬しあう学究であった。

 朴世堂は「欝陵島争界」に直接関与した南九萬から関連文書を入手できる立場にあった。朴世堂と南九萬については別稿に譲るが、今回は、張漢相の「欝陵島」に記された「蓋二島去此不甚遠」を「二つの島(欝陵島と于山島)はそれほど離れていない」と解釈した柳美林氏の誤読をあらためて明らかにした。朴世堂の按語に由来する「蓋二島去此不甚遠」は、于山島を独島とする論拠にはならないのである。

 

【注】

 注1.柳美林著『我が史料の中の独島と欝陵島』(知識産業社.2013年)

注2.2007年12月4日付の『朝鮮日報』(電子版)は、朴世堂の「欝陵島」を分析した柳美林氏の研究成果を「于山島はやはり独島」と報じ、梨花女子大の碩学教授慎◆厦氏が「初めて発掘されたもので、独島が我が領土であったことを明確にする極めて重要な資料」とコメントしたと伝えた。(◆は金へんに庸)

注3.朴錫昌の『欝陵島図形』では、欝陵島の東側の小島に「海長竹田/所謂于山島」と表記。これは張漢相が「海長竹一面に叢生す」としているのと符合する。「海長竹田」は海長竹(女竹・メダケ)。田は畑の意、ここでは群生、叢生と同じ。

注4.金和経氏は「(下條は)『欝陵島』の本文で『日が明るい頃に船を出発させた後、ようやく日が沈む頃、すでに寧海の地に到着した』というのを、半日、すなわち終日と翻訳した。日が明るい頃に出発し、日が沈む頃に到着したというのは、一日中かかったということを意味する。にもかかわらず、彼がこの文章を「半日」と解釈するのは、寧海と欝陵島の距離が近いということを強調するための意図的な誤訳とみられる」と批判。金和経氏に限らず、韓国側の下條批判にはこの種のものが多い。

注5.『西溪集』付録巻二十二(三丁)、「年譜」の「戊子仁祖大王二十六年。先生二十歳条」に「往就承旨公歙谷任所。是行所著。名曰東行拾嚢」とある。朴世堂はその時、「東行拾嚢」を著していた。『西溪先生文集』(巻一)に「東行拾嚢」として収載。その中に「在平康寄雲路南相国九萬読書山寺」がある。朴世堂はこの時、山寺で読書し、南九萬に書を送ったとしている。

注6.『新増東国輿地勝覧』(「蔚珍県条」)では、『高麗史』「地理志」の記述に従って欝陵島を「従山頂向東行至海一萬餘歩、向西行一萬三千餘歩、向南行一萬五千餘歩、向北行八千餘歩」とするが、張漢相の「江原道三陟鎮右営将為馳報事」では、「自中峯西至海▲三十餘里、東至二十餘里、南近四十里、北至三十餘里」としている。これを『新増東国輿地勝覧』(「蔚珍県条」)の「従山頂向東行至海一萬餘歩」の一歩を1.6mとすると、一萬歩は約16km。張漢相の東至二十餘里は約8kmとなる。同様に「向西行一萬三千餘歩」は約20.8km。張漢相の西至海▲三十餘里は約12kmとなる。向南行一萬五千餘歩と向北行八千餘歩はそれぞれ約24km、約12.8kmとなるが、張漢相は約16km、約12kmとしている。(朝鮮の1里は約400m)(▲は濱の異体字)

(下條正男)

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