実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~

第82回

柳美林著『我が史料の中の独島と欝陵島』の問題点


 停年退職後、尖閣諸島と日本海呼称問題に関わることになり、竹島問題から離れていた。その尖閣諸島と日本海呼称問題関連の作業注1も一段落ついたので、今回は柳美林氏の論著『我が史料の中の独島と欝陵島』(2013年刊)について、その恣意的な文献解釈の問題点を検証することにした。同著では冒頭から下條批判で始めているが、それは1996年から1998年にかけ、韓国の『韓国論壇』誌上で金柄烈氏と論争した際の拙稿「証拠を置いて実証せよ」(1996年8月号)に対するものだった。

 その拙稿では『世宗実録』「地理志」や『東国輿地勝覧』等の地理書の編纂時には事前に編集指針としての「規式」が定められ、その方針に沿って編修されていた事実を明らかにした。それは欝陵島のような海島の場合、その島嶼を管轄する官衙からの方位と距離が記されていたということであった。

 従って、『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)の〔本文〕「于山武陵二島在縣正東海中」〔分註〕「二島相去不遠。風日清明則可望見」を蔚珍県ではなく、欝陵島から独島が見えると読んだ韓国側の解釈は、「規式」を無視した恣意的解釈だったことになる。本来なら、「見える」は欝陵島を管轄する蔚珍県から欝陵島が見えると読まねばならないからだ。それは「規式」に沿って編纂されていた『東国輿地勝覧』(「蔚珍県条」)の「歴歴可見」(歴々見える)で、確認ができる。同条では欝陵島を管轄する蔚珍県から欝陵島が見えると読み、それは欝陵島を朝鮮領とする証拠にもされていたからだ注2。この不都合な事実に対して、『韓国論壇』誌での論争相手だった金柄烈氏は、『東国輿地勝覧』(「蔚珍県条」)の「歴歴可見」はそう読めるが、『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)の「可望見」は、欝陵島から于山島が見える注3としていた。

 柳美林氏は、拙稿を無断で収載した金柄烈氏の『独島論争』(2001年刊)に依拠しながら、その「規式」には例外があるとして、拙稿を批判したのである。そこで今回の【実事求是】では次の4点を中心に、柳氏の論著の問題点を明らかにした。

 

(1)柳氏は、『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)の本文記載の于山島を独島とするが、于山島が独島であったとする論証をしていない。

(2)柳氏は、『世宗実録』「地理志」、『東国輿地勝覧』、『高麗史』「地理志」に記載されている本文と分註の関係を明確にしていない。

(3)柳氏は、『世宗実録』「地理志」、『東国輿地勝覧』、『高麗史』「地理志」の編纂に梁誠之が関与していた事実には関心がなかった。

(4)柳氏は、「規式」には地理志ごとに違いがあるとしたが、地理書の目的を明確にしていない。

1.『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)の于山島は独島だったのか

 于山島を独島とする研究では『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)に依拠して、于山島を独島とした。『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)の本文「于山武陵二島在縣正東海中」に続く分註(「二島相去不遠。風日清明則可望見」)の「可望見」を欝陵島から独島が見えると解釈するからだ。

 その根拠になったのが欝陵島からは独島が見えるという地理的与件である。そこで「東北アジア歴史財団」では2008年から1年半をかけ、欝陵島で「独島可視日数調査」を実施し、欝陵島からは独島が見えるとした。

 だがそれは于山島を独島とする前提で実施した確認作業で、『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)に対する文献批判とはいえない。1996年に拙稿で明らかにしたのは、地理書が編纂される際にはあらかじめ編集方針である「規式」が定められ、地方官庁ではその指針に沿って調査と資料収集を行い、中央政府がそれを編修して地理書とした事実である。

 『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)の分註「二島相去不遠。風日清明則可望見」の「可望見」を蔚珍県から欝陵島が「見える」と解釈した根拠は、海島の場合、管轄する官庁からの方位と距離を記述することになっていたからだ。

 だが柳氏は、その不都合な事実を封印するため、地理書編纂の際には「規式」に依らない例外があったとし、「于山武陵二島」の「二島」の表記がそれだとした。そこで柳氏は次のように「二島」の事例を『新増東国輿地勝覧』と『海東繹史』から探し出し、それを根拠に「規式」の例外があるとしたのである。

 

 白山島黒山島〔分註〕倶在縣東水路二十里両島隔一里(慶尚道熊川縣)

 蓑衣島大竹島小竹島〔分註〕倶在縣西海中(同)

 大凡矣島小凡矣島〔分註〕倶在縣南(慶尚道鎮海縣)

 大酒島〔分註〕周二十里小酒島〔分註〕水路十六里両島隔二十歩潮退則連陸(同)

 扶蘇島磨瀬島〔分註〕倶在縣西海中(全羅道海南縣)

 (以上、『新増東国輿地勝覧』)

 

 元山島鳥平島〔分註〕二島倶在泰安郡西

 猪島熊島〔分註〕二島在永興府東

 薪島連島〔分註〕二島在徳源郡東

 沙島〔無考〕

 (以上、『海東繹史続』)

 

 柳氏説の通り、『新増東国輿地勝覧』(熊川縣条)を確認すると、「白山島黒山島」と二島が列記され、白山島と黒山島の関係を「両島隔一里」(両島一里を隔つ)としている。そこで柳氏は、その「両島隔一里」が、『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)で「二島相去不遠。風日清明則可望見」とした表記と同じとしたのだろう。

 だがそれは似て非なるものだった。地理志ごとに「規式」は異なるとした柳氏が、『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)の「二島相去不遠。風日清明則可望見」を「規式」外とするため、自ら「規式」が異なるとした『新増東国輿地勝覧』の二島を論拠としているからだ。それに柳氏が証拠とした諸島は、いずれも実在する島嶼である。だが『新増東国輿地勝覧』の于山島は「一説于山欝陵本一島」とされ、その存在が明確でなかった。「于山武陵二島」は「二島」と表記が似ていても、実在する島嶼と所在不明の島嶼を同日に論ずることはできない。

 それに柳氏が挙げた諸島には、いずれも管轄する官庁からの方位と距離が記され、「規式」通りに表記がなされている。これに対して、『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)の「于山武陵二島」ではその方位を「在縣正東海中」とするが、距離に関する表記は「可望見」の外にない。

 それは『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)の「可望見」(見える)と同じ表記の『新増東国輿地勝覧』の「歴歴可見」が、欝陵島を管轄する蔚珍県から欝陵島が歴々と見えると読んでいるからだ。

 その事実を認めたくない柳氏は、『新増東国輿地勝覧』と『海東繹史』で「二島」を一括りに表記した事例を根拠に、『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)の「二島相去不遠。風日清明則可望見」を欝陵島と独島間の記述としたのだろが、それは牽強付会の説である。

 それに柳氏が証拠とした『海東繹史続』の諸島は、韓致が清の斉召南の『水道提綱』(朝鮮諸水)に依拠し、地理書の体裁に模して補筆したもので、『水道提綱』には『海東繹史続』のような記述はない。柳氏が証拠とした『海東繹史続』の島嶼は、「規式」に例外があったとする証しにはならないのである。

(●は大の下に淵)

2.実録と正史、漢籍の本文と分註の関係

  実録と正史、本文と分註(割注)の違いを認めて文献を解釈することは、朝鮮史研究の基本である。柳氏が「規式」を問題にした『世宗実録』「地理志」が実録なら、『新増東国輿地勝覧』は正史である。1481年に編纂された『東国輿地勝覧』(後に『新増東国輿地勝覧』)は、1454年に成立した『世宗実録』を継承した『八道地理志』(1478年)等を基に編纂されていた。これは起居注や実録を基に、正史を編纂したのと同じ関係である。

 実録としての『世宗実録』「地理志」は一次史料であっても、正式な地理書ではないということだ。これに対して『東国輿地勝覧』(後に『新増東国輿地勝覧』)は、宋代の祝穆の『方輿勝覧』や明の『大明一統志』に倣い、梁誠之の『八道地誌』を基に編纂された正式な官撰地理書である。同書で管轄する官庁からの方位と距離が記載されているのは、祝穆の『方輿勝覧』や『大明一統志』の記述注4を踏襲したからで、それを編集方針としてまとめたのが「規式」である。

 さらに『新増東国輿地勝覧』と『世宗実録』「地理志」を解読する際は実録と正史の違いだけでなく、本文と分註に記された関連記事を参酌して、本文を解釈する必要があった。『新増東国輿地勝覧』と『世宗実録』「地理志」の本文に記された于山島については、その典拠となる記事が分註の中にあるからだ。『世宗実録』「地理志」では「太祖時」注5とされ、『新増東国輿地勝覧』で「太宗時」と修正された『太宗実録』が、本文に于山島を表記した典拠である。それは欝陵島に派遣された金麟雨が「于山島より還る」と復命したことから、朝鮮政府では欝陵島の外に于山島という島が存在すると認識していたからだ。その経緯と混乱は『高麗史』「地理志」(1451年)、『世宗実録』「地理志」(1454年)、『東国輿地勝覧』(1481年)に記載された于山島で辿ることができる。『高麗史』「地理志」では「于山欝陵本二島」とされ、『世宗実録』「地理志」の本文では「于山武陵二島在縣正東海中」として、『東国輿地勝覧』では「一説于山欝陵本一島」としているからだ。

 この事実は、『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)から『東国輿地勝覧』が編纂される過程でも于山島の所在が不明確だったということだ。ではその混乱の痕跡は何故、残されたのだろうか。それは『高麗史』「地理志」(1451年)、『世宗実録』「地理志」(1454年)、『東国輿地勝覧』(1481年)の編纂が、同一人物によってなされていたことが関係していた。

3.梁誠之が関与した『世宗実録』「地理志」と『東国輿地勝覧』の編纂

 梁誠之の『訥斎集』巻六「附録」(徐居正「南原君家乗記」)によると、徐居正は梁誠之が関与した書籍について、「治平要覧、高麗史全文、全史節要、世宗文宗実録を撰し、又申叔舟と世祖睿宗実録、魯山日記を修め。又教を奉じて、列聖御製詩、皇極治平図、龍飛御天歌、海東姓氏録、東国図経、五倫録、三綱史略、農蚕書、牧畜書、諭善書、時政記、八道地図、八道地理志、沿邊防戍図、東文選、東国輿地勝覧等」があったとしている。

 現に『世宗実録』「地理志」の編纂には梁誠之の『八道地理志』が使われていた。徐居正はそれを『東国輿地勝覧』の序文で「殿下即位十年戊戌(1478年)春正月誠之進八道地誌」とし、『東国輿地勝覧』は梁誠之の『八道地誌』を基に、『東文選』の詩文を添入して完成していた。

 その梁誠之の于山島に対する最終的な結論は、『東国輿地勝覧』の本文では「于山島欝陵島」とし、分註では「一説于山欝陵本一島」として、後世を俟つことだった。その梁誠之が思い描いていた于山島は、『東国輿地勝覧』収載の「八道総図」と各道の巻頭の付図が示している。その「八道総図」と「江原道」では朝鮮半島と欝陵島の間に于山島が描かれている。これは金麟雨が「于山島より還る」と復命した『太宗実録』の記事を念頭に作図したからであろう。

4.「地志」編纂の目的

 儒教文化圏の中で、中央集権的な政治体制下ではその統治を円滑にする観点から地誌の編纂は必須だった。徐居正は『東国輿地勝覧』の序文で「披書以考其事、覧図以観其迹(中略)八道地理瞭然、心目曾不出戸而視如指掌矣」(書を披いてもって其の事を考え、図を覧てもって其の迹を観れば(中略)八道の地理瞭然。心目かつて戸を出でずして視ること掌を指すがごとし)としたが、これは『大明一統志』の「大明一統志図叙」で「為天下總図於首披図而観庶天下疆域広輪之大了然在目如視諸掌」(天下總図を首となし、図を披いて観れば、天下の疆域、広輪之大、了然として目にあることこれを掌に視るがごとし)としているのに倣った表現である。

 その『大明一統志』(「登州府」)では、沙門島を「在府城西北六十里海中(以下略)」と表記し、(「淮安府」)では、高公島を「在海州城東八十里(以下略)」としているが、それは『新増東国輿地勝覧』(「通川郡」条)で「猪島在郡南海中水路五里」、「荒島在郡南海中水路二里」、「沙島在郡南海中水路」とするのと同じで、管轄する官衙からの方位と距離が記されている。それは金宗直が『新増東国輿地勝覧』の跋文で「是書拠祝穆之編」(この書、祝穆之編に拠る)。「其凡例一以大明一統志為法」(その凡例ひとえに大明一統志をもって法となす)としているように祝穆の『方輿勝覧』と『大明一統志』に範をとったからである。

 そこで『新増東国輿地勝覧』では隣接する行政区域との「四至四到」6を明確にし、『大明一統志』で地方の行政区域の状況を「建置沿革」、「郡名」、「形勝」、「風俗」、「山川」、「土産」、「公署」、「学校」、「書院」、「宮室」、「関梁」、「寺観」、「祠廟」、「陵墓」、「古蹟」、「名宦」、「流寓」、「人物」、「列女」、「仙釋」等の項目に分けて記したのに倣い、『新増東国輿地勝覧』にも「建置沿革」、「郡名」、「形勝」、「姓氏」、「風俗」、「山川」、「土産」、「城郭」、「関防」、「烽燧」、「樓亭」、「学校」、「駅院」、「佛宇」、祠廟」、「古跡」、「名宦」、「人物」、「題詠」等の項目がある。その「山川」の島嶼には、いずれも管轄する官衙からの方位と距離が記されている。それは『世宗実録』「地理志」の編纂時には「規式」が定められ、『東国輿地勝覧』の時は「地理誌続撰事目」(規式)に依拠して資料が蒐集され、編述されていたからだ。

 『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)の「二島相去不遠。風日清明則可望見」を欝陵島から独島が見えると解釈し、「于山島欝陵島」の表記を『新増東国輿地勝覧』と『海東繹史』で「二島」を一括りにした表記を根拠に、それを「規式」の例外とするのは朝鮮史研究の基本を逸脱した所作である。

 

 なお、柳美林氏の『西溪雑録』所収の「欝陵島」に対する解釈と「勅令第41号」(1900年)を無視した1903年の「欝陵島節目」の解釈でも同じことがいえるが、それは別稿に譲ることにする。

 

【注】

(注1)停年退職後、【実事求是】に「無主の地だった尖閣諸島と中国海警局の挑発」(2021年6月10日掲載)と「尖閣諸島に関する歴史戦の論じ方(上・中・下)」(2022年7月~8月掲載)を載せ。2020年、小冊子『日本海は世界が認めた唯一の呼称』を作成し、2020年9月の国際水路機関の総会で日本政府が配布。2022年9月、公開ウェビナー「日本海の呼称と韓国側の主張の誤り」の動画作成(日本国際問題研究所)。2025年3月、報告書『新東海考』の作成(日本国際問題研究所)。2025年6月、「東海か?日本海か?」(上・下)を動画公開(日本国際問題研究所)。2024年1月、尖閣ウェビナー『尖閣諸島領有の歴史的根拠‐中国の主張の誤り』の動画作成(日本国際問題研究所)。2024年1月、『尖閣諸島領有の歴史的根拠‐中国の主張の誤り』(全4回)の動画公開(日本国際問題研究所)。

(注2)1693年の「欝陵島争界」の際、朝鮮政府は『新増東国輿地勝覧』(「蔚珍県条」)を根拠に、欝陵島は朝鮮領であるとした。欝陵島の帰属をめぐって争った対馬藩も同様に解釈して、欝陵島を朝鮮領としていた。

(注3)金柄烈著『独島論争』(2001年)、423頁。(韓国、タダメディア)

(注4)祝穆の『方輿勝覧』は地誌としての性格が強く、『大明一統志』(1461年)は地方行政区域や国の疆域を明確にし、行政に資する目的で編纂されていた。その表記は、『大明一統志』では島嶼の場合、〔莱州府〕の「三山島在府城北五十里海之南岸(以下略)」。「蜉蝣島在府城西北一百里遙望島在海中若蜉蝣然」。「石臼島在膠州南一百里海中(以下略)」等と記されている。ここでは官衙から島嶼の方向と位置が記されており、『慶尚道地理志』の「規式」(「諸島陸地相去。水路息数(以下略)」)及び『慶尚道続撰地理誌』の規式である「地理誌続撰事目」の「一、海島、在本邑某方、水路幾里。自陸地去本邑幾里」で示されたのと同じ表記の仕方であるが、朝鮮では海岸から海島までの距離も記していた。

(注5)『世宗実録』「地理志」(蔚珍県条)の分註では「太祖時」とするが、『新増東国輿地勝覧』では「太宗時」と修正。于山島の典拠は『太宗実録』(巻三十三)「太宗十七年二月壬戌条」の「按撫使金麟雨還于山島。献土産大竹水牛皮生苧綿子検樸木等物。且率居人三名以来。其島戸凡十五口。男女併八十六。麟雨之往還也」。また『太宗実録』(巻三十三)「太宗十七年二月乙丑条」では、その3名を「于山人三名」としている。

それに『世宗実録』「地理志」は未定稿の状態にあり、誤写が多かった。分註の中の「智証王12年」は「智証王13年」の誤り、「毅宗13年」は「毅宗11年」の誤りで、杜撰であった。

(注6)『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)では蔚珍県と隣接する他の行政区域との関係を四境で記してその位置を明確にし、次のように記している。〔四境〕東距海口八里、西距慶尚道安東任内小川縣六十三里、南距平海三十七里、北距三陟三十二里。これを『新増東国輿地勝覧』(「蔚珍県条」)では、「蔚珍縣」東至海岸九里、西至慶尚道安東府界八十一里、南至平海郡界四十八里、北至三陟府界四十四里、距京都八百八十五里として、その官衙からの「四至四到」(東西南北など)を明らかにしていた。この表記の仕方は『大明一統志』と同じであった。「松江府」の場合、「松江府」東至海岸一百里、西至蘇州府長洲縣界六十里、南至海岸七十里、北至蘇州府崑山縣界八十里、自府治至南京八百里、至三千八百二十五里として、地方官衙の位置を隣接する行政区域との「四至四到」を用いて自らの行政区域を明確にしていた。その郡と県を道の単位にまとめて作図すると、『新増東国輿地勝覧』に収載された「江原道」等の「東覧図」となり、さらにそれを八道の地図を繋げば「八道総図」となり、「朝鮮全図」となった。

(下條正男)

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