実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~
第77回
日本海の単独表記を伝えたウィキサイト(ナムウィキ)の「東海/名称問題」
韓国語のウィキサイト「ナムウィキ」は「東海/名称問題」の記述を大幅に書き換え、日本海の単独表記が2020年11月17日、国際水路機関(IHO)の総会で決まったとした(注1)。
これは韓国政府がこれまで主張してきた「東海は紀元前37年前から韓国が使用した約2千年以上の固有の名称」説や「1929年に国際水路局が編纂した『大洋と海の境界』で日本海が単独表記されたのは、朝鮮半島は1910年以来日帝強占期、すなわち日本帝国の植民地であり、国民の主権が存在しない状態でこの海の名称決定に関与することができなかった」としてきた歴史認識は認められなかったということだ。
ウィキサイト「ナムウィキ」の「東海/名称問題」では、「結局、2020年11月17日のIHO総会の結果、旧標準の『大洋と海の境界(S-23)』では現行の「日本海」単独表記の指針を盛り込んだ事務総長案が暫定承認され」、「現行の標準海図である『大洋と海の境界(S-23)』では日本海の単独表記が残る」としているからだ。
だがその一方で、東海と日本海の併記にこだわり、1990年代の初頭、東海と日本海の併記は0.2%だったが2005年には18.1%、2007年までの併記率は23.8%、2011年には併記比率が28.2%に上昇した。2014年の非公式統計では40%近くになり、2020年に韓国政府と民間が外交戦を展開したことで40%を上回ったとして、東海の併記率を上げることで東海の正当性が高められると考えているようである。
だがこれまで韓国政府が論拠としてきた東海は、日本海とは全く関係のない東海だった。そこで今回の「実事求是」では、拙稿「日本海は世界が認めた唯一の呼称」と6月4日に公開された同ウェビナー「東海か?日本海か?」(前・後編)、この3月、日本国際問題研究所から刊行された同『新東海考』に触れ、ウィキサイト「ナムウィキ」の「東海/名称問題」が指摘している韓国側の問題点について紹介することにした。
1. 小冊子「日本海は世界が認めた唯一の呼称」
日本の外務省関係者の話によると、拙稿「日本海は世界が認めた唯一の呼称」は、2020年の国際水路機関の総会の際に小冊子にされ、参考資料として配布されたという。その小冊子では、国際水路局が『大洋と海の境界』を編纂した1929年当時、東海は朝鮮半島東海岸の沿海部の呼称だった事実を明らかにし、その朝鮮半島の沿海部の呼称だった東海が日本海の海域に拡張されたのは1946年頃としたのである。
それを示しているのが1946年6月15日付の『東亜日報』が報じた「東海か?日本海か?」とした記事である。日本の敗戦によって日本の植民統治から解き放たれた韓国では、新たに地理と歴史の教科書が編纂されることになった。その際、朝鮮半島の東岸海域を日本海とするか、東海とするかの議論が起きていた。この議論を契機として、以来、韓国では日本海の海域を「東海」と称することになるのである。
だがウィキサイト「ナムウィキ」の「東海/名称問題」では、その不都合な事実には言及していない。東海の名称は『広開土王碑』(414年)、聖徳王時代の神鐘(『エミレの鐘』)(771年)、『三国史記』(1145年)等に登場するとし、特に『三国史記』(高句麗本記)の始祖東明聖王条(紀元前37年)に記された東海を日本海と解釈して、朝鮮半島では2000年以上に亘って日本海を東海と称してきた、というのである。
だが始祖東明聖王条(紀元前37年)の東海は、日本海ではなかった。その事実は『三国史記』(高句麗本記)の「太祖四年秋七月条」で確認できる。同条には「伐東沃沮、取土地為城邑拓境、東至蒼海」とあるからだ。これは高句麗の太祖が隣接する東沃沮を伐ってその東の蒼海(日本海)に至ったのは、太祖四年(56年)としているからだ。
その事実については拙稿「日本海は世界が認めた唯一の呼称」でも明らかにしているが、日本国際問題研究所から刊行された『新東海考』では新たに李奎報の「東明王篇并序」に依拠して、「始祖東明聖王条」の東海には鴨緑江が流入しているので、その東海は日本海ではなく、黄海だとしたのである(注2)。「東海は紀元前37年前から韓国が使用した約2千年以上の固有の名称」とする韓国側の主張は事実無根だったのである。
過去の歴史を問題にする際、韓国側ではしばしば文献批判を怠って、文献を恣意的に解釈する傾向がある。それは『三国史記』(高句麗本記)の「始祖東明聖王条」に限ったことではなく、「広開土王碑」(414年)の解釈でも繰り返されていた。
「広開土王碑」は高句麗の広開土王の偉業を称えるため、その子の長寿王が建立した石碑で、そこには「東海賈国烟三看烟五」と刻まれていた。韓国側ではその中の「東海」に着目して、それを日本海と解釈したのである。だがその東海に続く「国烟三看烟五」は石碑を守る家の戸数で、「東海賈」は東海の商人のことである。「広開土王碑」の「東海」は地名であって、日本海とは関係がないのである(注3)。
2. 名称の歴史
韓国語のウィキサイト「ナムウィキ」の「東海/名称問題」では記述が大幅に書き換えられ、2020年の国際水路機関(IHO)の総会で、日本海の単独表記が決まった事実が記されていた。だがその事実以外の記述では、従前の主張が繰り返されていた。
「東海/名称問題」の「3.なぜこのような問題が発生するのか」では、「名称の歴史的正統性は東海が正しい」として、その理由を次のように述べている。「東海は紀元前37年前から韓国が使用した約2千年以上の固有の名称だ。しかし日本という国号が使われたのが8世紀頃なので、日本海という名称は本来、日本でも使われていた名称ではなかった。日本海( Sea of Japan )の表記はしばらく後に登場した。当初、日本という国号は7世紀に入って作られ、日本でさえ19世紀まで日本海という名称が確立していなかった」。
韓国では、紀元前37年から東海という呼称を使っているが、日本という国号は8世紀頃に始まり、日本海の表記はさらにその後で、19世紀まで日本海という名称は確立していなかった。従って、「名称の歴史的正統性は東海が正しい」という論理である。
だが「東海は紀元前37年前から韓国が使用した約2千年以上の固有の名称」という主張には、根拠がなかった。すでに明らかにしたように、『三国史記』(高句麗本記)の始祖東明聖王条(紀元前37年)に記された東海は日本海ではなく、黄海のことだったからである。それを「東海/名称問題」では次のような歴史を語って、日本海の表記には問題があるとしたのである。
朝鮮半島は1910年以来日帝強占期、すなわち日本帝国の植民地であり、国民の主権が存在しない状態でこの海の名称決定に関与することができなかった。また日本は英日同盟に支えられ、第一次世界大戦の勝戦国で、当時存在していた国際連盟の常任理事国だった。当然、国際連盟常任理事国である日本の発言は、国際社会、特にアジア問題で無視できない影響力を持っていた。従って、日本でこの海を呼ぶ「日本海」表記の主張は、当代の主張および地政学事情では周辺国が日本・ロシアしかないので、それに反対する国家がなかったので、他に反論がなく通過して登載されたのだ。指針の2版は1937年に編纂されたが、この時期も日帝強占期であり、独立した後の1953年には6.25戦争の途中だったうえ、国際水路機関に加入もされておらず、現代に製作された多くの地図でも「日本海」の単独表記が使われた。結局、大韓民国は1957年に国際水路機関に加入し、1965年の韓日漁業協定締結当時、韓日両国の海域の名称も合意点を見つけられなかった。
だが1910年から1965年頃までの時代状況を語っても、それを根拠に「名称の歴史的正統性は東海が正しい」とは言えないのである。事実、韓国政府が「歴史的正統性は東海が正しい」とする根拠としてきた「八道総図」の東海は、日本海ではなく東海神祠の所在地を示していた(注4)。「我国総図」に記されていた東海も、『新増東国輿地勝覧』所収の地図(「江原道」)等で「東抵大海」と表記されていた「四至四到」に由来し、「我国総図」の東海は、その「東抵大海」(「東、大海に抵(至)る」)を省略して、東海としていたのである(注5)。いずれの東海も、日本海ではなかったのである。
3.日本海呼称問題と独島、そして現状
ウィキサイト「ナムウィキ」の「東海/名称問題」では、「韓国では「 Sea of Japan 」という名称に敏感に反応」し、日本海の表記を嫌う理由を「まさに東海の中央にある独島のため」だとして、次のように記している。
実際に独島は東海とは違って、日本では露骨に所有権を主張する。そこで東海という海が韓国の所有ではなく、公海ということを知らない人々は、「独島が我々の領土だから独島のある海も我々の海」と考えてしまい、東海の命名権は韓国にあると結論づけてしまう。実際に、極めて多くの人々は、日本海という名称を認めれば独島も日本に渡さなければならないと勘違いする。
だがこの論理は、東海の「歴史的正統性」とは全く関係がない。ウィキサイト「ナムウィキ」の「東海/名称問題」では、韓国側が日本海を嫌う理由を次のように記しているからである。
日本海が国際的に正式な名称として定められた時は日帝強占期時、朝鮮半島全体と満州地域、サハリンの一部地域まで日本帝国の占領状態だったため、事実上、東海地域の大部分は日本地域であり、日本海としても特に異見が言えなかった。そのため、今の状況では日帝強占期の基準で定められた名称を韓国の立場では認めることができない。
要は、韓国側にとっては、日本海の表記そのものが問題なのである。それも「東海/名称問題」では「結局は、両国の敵対感とプライドのために議論が続いている」としているが、日本海の表記を「敵対感とプライド」の問題としていたということである。
ウィキサイト「ナムウィキ」の「東海/名称問題」ではそれに苦言を呈して、「ただ冷静に考えれば、韓日両国ではなく韓国側の一方的な問題提起」だった。「国際的に日本海と呼んでいたものを東海/日本海に併記することを要求するのは世界中で韓国だけ」で、「日本やその他の国々は現状維持を望むだけだ」としたのである。
「東海/名称問題」では、この状況を「世界的にもほとんど希で、類例」を見ないと表現しているが、それは韓国では歴史の事実よりも韓国内の「国民情緒」が優先されるからだとするのである。そこで「東海/名称問題」の「8.韓国の対外反応問題」では、韓国側の問題点を次のように指摘するのである。
外国人が「日本海( Sea of Japan )」という名称を使用することに対して、一々是正を要求することは適切でない行動である。韓国人の立場では日本海という名称は気に入らないかも知れないが、国際社会で公認され、最も普遍的に通用している名称は厳然として日本海である。これに対して一々文句を付けたり、任意に修正しようとする行為は外国人の立場ではただバンダリズム(注、破壊行為)に見えるだけだ。外国人は東海/日本海の名称問題が存在するという事実すら知らない場合が多く、彼らが一朝一夕に韓国の歴史的文脈に同調して「 East Sea 」という名称を使ってくれるはずがないので、現実的に受け入れられる可能性は低い。このような強要行為は、外国人には韓国に対する否定的な印象を植え付けるだけである。
「東海/名称問題」ではこの記述に続けて、朴起台氏のVANKの活動について批判的に記述している。朴起台氏のVANKでは「東海の名称問題」では青少年を使って世界各地で是正要求の活動をしているが、それは韓国に対する否定的な印象を外国人に植え付けるだけだとして、危惧するのである。現に、韓国語のウィキサイト「ナムウィキ」の「東海/名称問題」がその記述を大幅に書き換えていたのと同じ2025年8月16日、韓国の「中央サンデー」(電子版)は「3%に過ぎなかった東海表記の世界地図、現在は40%」として、VANKの朴起台氏の活動を伝えていた。そこで朴団長は、「VANKの活動初期には海外で発行された世界地図中、東海と表記されたのは3%に過ぎなかったが、今は40%にまで増えた」と語り、今後もその活動を続けるとしていた。韓国では民間団体も情報戦を展開しているのである。
4.韓国の情報戦と日本
2025年8月16日に閲覧した韓国語のウィキサイト「ナムウィキ」の「東海/名称問題」では、2020年11月17日の国際水路機関(IHO)の総会で日本海の単独表記が決まったとしていた。
その総会の際、参考資料として配布された小冊子「日本海は世界が認めた唯一の呼称」には、「本冊子は、執筆者の見解を表明したものです」とした但し書きがあった。それに類した但し書きは、6月4日に公開されたウェビナー「東海か?日本海か?」(前・後編)と日本国際問題研究所刊行の『新東海考』にもあった。いずれも「解説者の個人的見解」であり、「執筆者個人の見解」とされていた。その「解説者の個人的見解」の但し書きは、ウェビナー「尖閣諸島領有の歴史的根拠について─中国の主張の誤り─」にもあった。
韓国政府は2005年3月、島根県議会が「竹島の日を定める条例」を成立させると、4月には「東北アジアの平和のための正しい歴史定立企画団」を発足させ、翌年9月には改組して「東北アジア歴史財団」とした。以来、「東北アジア歴史財団」は政策提言機関として、竹島問題や日本海呼称問題など、歴史問題に関する研究に従事し、韓国政府はそれを外交政策に活用してきた。だが日本では「執筆者の見解」はあくまでも「個人的見解」で、「執筆者個人の見解」だった。これでは国策として闘う韓国との情報戦は戦えない。
その状況の中で、国際水路機関の総会で日本海の単独表記が決まった事実を伝え、日本海の名称の是正を求める活動をバンダリズム(破壊行為)と批判した韓国語のウィキサイト「ナムウィキ」の「東海/名称問題」の記述は、特筆に値する。
【注】
注1. ウィキサイト「ナムウィキ」の「東海/名称問題 」
( https://namu.wiki/w/%EB%8F%99%ED%95%B4/%EB%AA%85%EC%B9%AD%20%EB%AC%B8%EC%A0%9C )、2025年8月16日閲覧。
注2.日本国際問題研究所編『新東海考』(令和7年3月)
「第2章『三国史記』「高句麗本紀」の東海」(21頁~37頁)
注3.日本国際問題研究所編『新東海考』(令和7年3月)
「第5章「広開土王碑」の「東海賈」について」(130頁~134頁)
注4.日本国際問題研究所編『新東海考』(令和7年3月)
「第3章『新増東国輿地勝覧』(「八道総図」)の東海」(38頁~134頁)
注5.日本国際問題研究所編『新東海考』(令和7年3月)
「第4章『我国総図』の東海について」(69頁~129頁)
(下條正男)