実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~

第76回

「三陟地域地理志と邑誌に見られる鬱陵島・独島記述の変化」批判


 東北アジア歴史財団が刊行する『領土海洋研究』の第28号に、張禎洙氏の論稿「三陟地域地理誌と邑誌に見られる欝陵島・独島記述の変化」が載せられていた。同氏はその前言で「今日、欝陵島・独島の歴史研究は、主に大韓民国の独島領有権と関連して進められている感が強い」として、「512年、異斯夫の于山国征伐から1900年の勅令第41号による欝島郡の設置によるまでの一貫した論理が定立している」としたが、その「一貫した論理」には歴史的根拠がなかったのである。今回の実事求是では、文献を恣意的に解釈し、韓国側にとって不都合な文献や古地図には触れない韓国側の竹島研究の問題点を明らかにした。

1. 事実無根の「一貫した論理」

 張禎洙氏は「512年、異斯夫の于山国征伐」を根拠に、独島の歴史的権原は韓国に属すとした。だがその論拠とした『三国史記』(新羅本紀)の「智証王十三年六月条」では、于山国の疆域を「地方一百里」とし、『三国遺事』の「智哲老王」条では、于山国を「周回二万六千七百三十歩」としていた。これは于山国の疆域が欝陵島一島に限られ、于山国には独島が含まれていなかったということだ。「512年、異斯夫の于山国征伐」を記した『三国史記』(「智証王十三年六月条」)は、独島を韓国領とする証拠にはならないのである。

 さらに張禎洙氏は「1900年の勅令第41号による欝島郡の設置」を根拠に、独島は「勅令第41号」が公布された際に韓国領になったとした。だが「勅令第41号」で欝島郡の行政区域とされた石島は独島ではなく、島項であった。

 その事実は、『領土海洋研究』(28号)の書評に載せられた金榮洙氏の『欝陵島1882検察使李奎遠の時間旅行』を読めば、明らかである。金榮洙氏は李奎遠の『欝陵島外図』にある島項を「도항」(トハン)と読んだが、島項は「섬목」(ソンモク)又は「소목」(ソモク)と読むのである。その島項の読み方は「勅令第41号」が公布されるきっかけとなった欝陵島の日韓共同調査の報告書で確認ができるからだ。その共同調査に加わった赤塚正助は、報告書に添付した欝陵島の地図で島項を「島牧」(ソンモク)と表記していた。

 さらに海図306号「竹邊湾至水源端」では島項を鼠項島として、その読み方を英字で「SOMOKU」と付記している。これは李奎遠の『欝陵島外図』に描かれた島項は「ソモク」と読み、金榮洙氏のように「도항」(トハン)とは読まないのである。

 ここで島項の読み方に拘ったのは、漢語で表記された欝島郡の行政区域(「欝陵全島・竹島・石島」)と『欝陵島外図』との間には緊密な関係があったからだ。欝島郡の行政区域は『欝陵島外図』を前提としており、その『欝陵島外図』では小黄土邱尾、大黄土邱尾、待風邱尾等として韓国語の方言で表記されているが、島項も「牛の首(ソモク)」に由来する韓国語の方言で、漢字音を借字して、島項としていたのである。その島項を「도항」(トハン)と読み、漢語としてしまえば、韓国語の方言に漢字音を借字した島項を研究対象から除外することにもなるからだ。そのため韓国側の竹島研究では、石島の発音が独島に近いという理由で、石島を独島としてきたのである。

 だが『欝陵島外図』に独島は描かれていなかった。これは欝島郡の疆域に独島は含まれていなかったということである。事実、『欝陵島外図』に描かれているのは、検察使の李奎遠が「二島あり」とした竹島と島項である。その内の竹島は欝陵島の東2キロほどに位置する竹島(竹嶼)なので、残る島項が石島になるのである。

 その事実を確認する際に重要になるのが、島項を韓国語の方言「소목」(ソモク)と読むか、「도항」(トハン)と漢語として読むかなのである。

 それは行政区域の「欝陵全島・竹島・石島」がいずれも漢語で表記されているので、島項を「도항」(トハン)と漢語としてしまえば、島項と石島の関係を論ずることもないからだ。

 だが島項を韓国語の方言「섬목(ソンモク)又は소목(ソモク)」として表記していたとすれば、それをいかに漢語に直したのかが問題になってくる。しかし幸いなことに、朝鮮半島には韓国語の方言で表記されていた島項を、漢語に直す伝統的な手法があるのである。それは反切を利用することである。その際は、島項「소목」(ソモク、SO・MOKU)のSOから字母のOを除き、MOKUからは最初の子音のMを除いて、あとは残りのSとOKUを繋ぐのである。するとS+OKUは「SOKU」(石)となり、島項は石島になるのである。「勅令第41号」の「石島」は独島ではなく、韓国語の方言で表記されていた島項なのである。それを張禎洙氏は「512年、異斯夫の于山国征伐から1900年の勅令第41号による欝島郡の設置によるまでの一貫した論理が定立している」としていたが、「1900年の勅令第41号」の石島は島項のことで、独島を韓国領とする証拠には使えないのである。

 さらに張禎洙氏は、第二節「官撰地理志の欝陵島・独島記述」の冒頭で「欝陵島・独島は512年、異斯夫の于山国征伐を通じて歴史の舞台に登場した。欝陵島と独島が于山国の領土であったという前提の下で、この事件を領土編入の契機として把握し、さらには領有権の歴史的権原として挙げられている」としているが、その官撰の地理志や地誌に登場する于山島も、独島ではなかったのである。

2. 地理志及び地誌の中の于山島

 韓国側の竹島研究では、于山島を独島(竹島、江戸時代は松島)としてきた。その根拠にされたのが『東国文献備考』(「輿地考」)の分註である。そこには「輿地志云、欝陵于山皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」とあるからである。だがその分註は、編纂の過程で引用文が書き換えられていたのである。それは分註に引用された『東国輿地志』の原典では、「于山欝陵本一島」としていたからだ。その改竄の事実は、1996年から1998年にかけ、韓国の『韓国論壇』誌上で金柄烈氏と論争した際に明らかにしたものである。その「改竄説」は、外務省の小冊子『竹島問題を理解するための10のポイント』にも取り入れられたが、現在に至るまで、その分註の改竄説に対する反証はなされていない。

 これは『東国文献備考』(「輿地考」)の分註に依拠して、于山国には于山島が含まれ、その于山島を竹島(独島)としてきた論理は、定立しないということだ。そのため韓国側の竹島研究では、『東国文献備考』(「輿地考」)の分註を根拠に、于山島を独島とすることを避けてきた。それは張禎洙氏の論稿でも続いている。そこで張禎洙氏は、『東国文献備考』(「輿地考」)の分註に代えて、『東国文献備考』(「輿地考」)を底本として編纂された『萬機要覧』(1808年)や『増補文献備考』(1908年)を引用しているが、于山国には于山島が含まれ、その于山島を竹島(独島)とした『東国文献備考』(「輿地考」)は、韓国側の竹島研究にとっては唯一の文献だったのである。

 だがその唯一の『東国文献備考』(「輿地考」)の分註は改竄され、分註に引用された『東国輿地志』の原典では「于山欝陵本一島」と記されていた。これは韓国側には、于山国には于山島が含まれ、その于山島を竹島(独島)とする歴史的根拠がなかったということである。

 ところが張禎洙氏は、于山国には于山島が含まれ、その于山島を竹島(独島)とする前提で『三国史記』、『世宗実録』「地理志」、『高麗史』「地理志」、『新増東国輿地勝覧』、『輿地図書』、『陟州誌』等の記事を解釈し、欝陵島と独島の関係を論じていたのである。

 だが『三国史記』(「新羅本記」)の「智証王十三年六月条」では、既述のように于山国の疆域を地方一百里とし、『三国遺事』では于山国の周回を「二万六千七百三十歩」としていた。この于山国に、竹島(独島)は含まれていない。それを張禎洙氏は、改竄された『東国文献備考』(「輿地考」)の分註に盲従し、「独島は我が領土」といった前提で文献を読んでいたのである。

 これは『高麗史』「地理志」(1451年)、『世宗実録』「地理志」(1454年)、『東国輿地勝覧』(1481年)に対する文献解釈でも同様であった。『東国輿地勝覧』は1530年に増補されて『新増東国輿地勝覧』となるが、いずれもその編纂に携わったのは梁誠之である。その梁誠之は、『高麗史』「地理志」では「一云于山武陵本二島」とし、『東国輿地勝覧』では「一説于山欝陵本一島」として、于山島の所在を明確にしていないのである。これは梁誠之自身も、于山島と欝陵島(武陵島)の区別ができていなかったということである。

 その所在不明の于山島が文献上に現れたのは、『世宗実録』「地理志」の「蔚珍県条」の本文で「于山、武陵二島、在県正東海中」と二島を並べ、その分註では「二島相去ること遠からず、風日清明なれば則ち望み見るべし」としたことから、于山島は実在する島として認識されることになったのである。その于山島が『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県条」)の本文に記載されることになったのは、その分註に、論拠とされた『太宗実録』が収載されているからである。その『太宗実録』の「十七年二月壬戌条」では、欝陵島に派遣されたはずの按撫使の金麟雨が「于山より還る」と復命したとしていたからである。

 だがこの于山島は、やがて『東国輿地勝覧』では「一説于山欝陵本一島」とされ、最終的には1711年、欝陵島捜討使の朴錫昌によって、欝陵島の東2キロにある竹島(竹嶼)のこととされたのである。

 それを張禎洙氏は文献批判を疎かにして、『世宗実録』「地理志」、『高麗史』「地理志」、『新増東国輿地勝覧』等の記述を個々に解釈して、于山島は独島だとしていたのである。そのため張禎洙氏は、『世宗実録』「地理志」が尹准、申穡等の『新撰八道地理志』(1432年)を基にして撰述され、さらにその于山島が地理志及び地誌が編纂される過程で「一云于山武陵本二島」となって、「一説于山欝陵本一島」となった経緯には触れていない。『世宗実録』「地理志」では「二島相去ること遠からず、風日清明なれば則ち望み見るべし」と記述されていたが、『東国輿地勝覧』では、地誌編纂の編纂方針(規式)に従って蔚珍県から見た欝陵島の景観のみが記され、本文からは于山島が抜けていた。その于山島は英祖三十三年(1757年)、洪良漢の発議で編集された『輿地図書』にも載せられていなかった。これは金麟雨が、『太宗実録』の「十七年二月壬戌条」で「于山より還る」と復命した于山島が消えてしまったということである。ではその于山島はどこに行ったのであろうか。

3.朴錫昌の『鬱陵島図形』を無視する独島研究

 張禎洙氏は、その論稿「三陟地域地理誌と邑誌に見られる欝陵島・独島記述の変化」では欝陵島捜討使について論じながら、1711年、捜討使となった朴錫昌と彼が復命した『欝陵島図形』には言及していない。

 だが朴錫昌の『欝陵島図形』では、欝陵島の東2キロにある竹島(竹嶼)を于山島とし、その後の欝陵島地図にも大きな影響を与えていた。「勅令第41号」が公布された際に参考にされた李奎遠の『欝陵島外図』(1882年)は、その朴錫昌の『欝陵島図形』(1711年)を踏襲したものだった。鄭尚驥が作図した『東国大地図』の于山島も、朴錫昌の『欝陵島図形』に依拠して描かれており、その于山島は竹島(竹嶼)のことであった。

 その事実は、鄭尚驥の『東国大地図』系統に地図を収めた地図帖で確認ができる。その地図帖である『海東地図』、『輿地図』、『地乗』、『広輿図』、『八道輿地図』等に収録された欝陵島図は、いずれも朴錫昌の『欝陵島図形』を模本としているからだ。

 この『欝陵島図形』では、所在が不明だった于山島が欝陵島の東2キロの竹嶼とされ、そこに描かれていた于山島は、独島(竹島)とは関係がなかったのである。

 「勅令第41号」で欝島郡の行政区域とされた「欝陵全島・竹島・石島」は、その『欝陵島図形』を継承し、検察使の李奎遠が作図を命じた『欝陵島外図』に依拠していた。その際に、李奎遠は島の形状から「牛の首(ソモク)」とした島項を新たに描いていた。

 張禎洙氏をはじめ、韓国側の竹島研究では朴錫昌の『欝陵島図形』には敢えて触れようとせず、鄭尚驥が作図した『東国大地図』の于山島を独島としてきた。朴錫昌の『欝陵島図形』を無視するのは、『世宗実録』「地理志」、『高麗史』「地理志」、『新増東国輿地勝覧』等に記載さていた于山島が独島でなかった事実が明らかになってしまうからである。

 張禎洙氏の論稿「三陟地域地理誌と邑誌に見られる欝陵島・独島記述の変化」も、文献を恣意的に解釈し、韓国側にとって不都合な文献や古地図には敢えて触れない韓国側の竹島研究の悪弊に倣っていたのである。

 

(下條正男)

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