実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~

第75回

虚偽と欺瞞に満ちた東北アジア歴史財団刊『独島当時と今』について


 韓国の東北アジア歴史財団は2024年11月25日、英語版『 DOKDO Then and Now 』(『独島当時と今』)を刊行した。本書の出版意図について、同財団のホームページでは次のように記している。

 

この本は外国人が独島を容易に総合的に理解できるようにその助けとなる英文冊子であり、本の内容は大きく「独島の現況」、「歴史の中に現れた独島」、「領土問題に関する国際法」から構成されている。外国人を主な読者と想定して執筆した本のため、十分に分析され、検証された歴史的事件と史料を見極めて客観的に紹介し、国際法の部門でも独島の領有権と関連した国際法の原則を国際判例で示された法理を中心にして紹介した。

既存の独島関連の英文書籍は過度に専門的か、韓国の領有権の主張を前面に掲げて強調する内容が中心だったとすれば、『 DOKDO - Then and Now 』は「独島を容易に総合的に理解できるように」を主眼としており、韓国の美しい島、独島を国際社会に落ち着いて、広く知らせる良い案内役として役立つものと期待される。

 

 同財団によると、本書は「外国人が独島を容易に総合的に理解」するために作成され、「十分に分析され、検証された歴史的事件と史料を見極めて客観的に紹介」しているとしている。

 だがその説明には多くの問題が含まれている。それは『 DOKDO - Then and Now 』で取り上げた「歴史的事件と史料」には、独島(竹島)を韓国領とする証拠能力がないからだ。

 事実、その「歴史的事件と史料」は、2011年4月、東北アジア歴史財団が公開した「日本が知らない独島の10のポイント」でも独島を韓国領とする論拠にされていた。しかしその「歴史的事件と史料」は、同年6月、拙稿(「韓国が知らない独島の10の虚偽」)によって、朝鮮史研究の基本を無視して、恣意的に解釈していた事実が明らかにされている。

 今回の『 DOKDO - Then and Now 』では、その証拠能力のない「歴史的事件と史料」が繰り返し使われていたのである。この事実は、外国人を主な読者と想定したとする『 DOKDO - Then and Now 』では、虚偽の歴史が語られていたということである。

 そこで今回の実事求是では、本書の第2章「独島の歴史」で述べられている「歴史的事件と史料」について、次の4点を中心に、その文献解釈の誤りを明らかにした。

 

(1)本書では、独島(竹島)を欝陵島の属島とし、『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』の「蔚珍県条」にある于山島を独島(竹島)としているが、その于山島は分註に引用されている『太宗実録』に由来する于山島で、欝陵島の属島でも独島でもなかった。

(2)本書では、1696年の安龍福による密航事件によって独島(竹島)が朝鮮領になったとしているが、それは安龍福の偽証に無批判に従っているからである。

(3)本書では、欝陵島が鬱島郡となった1900年、その「勅令第41号」で鬱島郡の行政区域とされた石島を独島(竹島)と解釈しているが、その石島は1882年、欝陵島を踏査した李奎遠が「島項」とした観音島で、独島(竹島)ではなかった。

(4)1905年1月の閣議決定で竹島を隠岐島司の所管とした当時、竹島は「無主の地」だった。その竹島を「先占」しても、それは韓国領を侵奪したことにはならない。

1. 『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧 』の于山島

(1)改竄されていた『東国文献備考』の分註

 「東北アジア歴史財団」等で独島(竹島)を欝陵島の属島とし、『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』の「蔚珍県条」にある于山島を独島(竹島)と解釈するのは、『東国文献備考』(1770年)の分註には次のような記述があるからである。

 

  「輿地志に云う、欝陵于山皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」

 

 だがこの分註は、文献批判を怠って文字通りに解釈すると、本書のように「欝陵島と于山島はいずれも于山国の地で、于山島は日本の所謂松島(現在の竹島)である」と読んでしまうのである。

 そこで『東国文献備考』の分註に対する文献批判を行ない、引用されている『輿地志』(『東国輿地志』)の原典で確認すると、そこには「一説于山欝陵本一島」と記されているのである。これは原典では「一説于山欝陵本一島」とされていたが、『東国文献備考』の分註では「欝陵于山皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」と書き換えられていた、ということである。一般的に、これを改竄と言うのである。

 『DOKDO - Then and Now』では、その改竄された『東国文献備考』の分註を根拠に独島(竹島)を欝陵島の属島とし、于山島を独島(竹島)としていたのである。それに『東国文献備考』の分註の改竄は、1996年から1998年にかけ韓国の『韓国論壇』誌に寄稿した拙稿で明らかにしたものである。だがその改竄説に対しては「東北アジア歴史財団」等によっていまだ反証がなされておらず、『DOKDO - Then and Now』ではその事実を無視しているのである。

 それに独島が于山国の地に含まれていなかった事実は、于山国が512年に新羅領となったとする『三国史記』と『三国遺事』の記事でも確認ができるのである。『三国史記』では于山国の疆域を「地方百里」とし、『三国遺事』では「周廻二万六千七百三十歩」と明記しているからだ。これは明らかに、于山国は欝陵島一島に限られ、独島(竹島)は欝陵島の属島ではなかったということである。

 だが『東国文献備考』に対する文献批判を怠った東北アジア歴史財団等では、その改竄された分註に依拠して『三国史記』の512年条を解釈し、独島(竹島)を欝陵島の属島とし、于山島を独島(竹島)として、『DOKDO - Then and Now』でも同じ過ちを繰り返していたのである。この文献批判を怠って、文献の一部を恣意的に解釈する傾向は、次の『世宗実録地理志』(1454年)と『新増東国輿地勝覧』(1530年)の「蔚珍県条」の解釈でも見られるのである。

 

(2)『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』の于山島

 『DOKDO - Then and Now』では、『世宗実録地理志』(1454年)と『新増東国輿地勝覧』(1530年)の「蔚珍県条」の本文で于山島と欝陵島が併記されているため、その于山島を独島(竹島)と解釈している。その根拠になっているのが分註にある「見える」である。

 

 于山武陵二島在縣正東海中〔分註〕二島相去不遠。風日清明則可望見(以下略)

 (『世宗実録』地理志)

 于山島、欝陵島〔分註〕二島在県正東海中、三峯岌業空、南峯卑。風日清明則峯頭樹木及山根沙渚、歴々可見。風便則二日可到。

 一説于山欝陵本一島。地方百里

 (『新増東国輿地勝覧』)

(●はてへんにしょうがしら、口の下に読み方はトウ)

 

 「東北アジア歴史財団」等では、その「可望見」と「歴々可見」を欝陵島から于山島が「見える」と解釈して、本文にある于山島は独島(竹島)だとした。それは欝陵島からは独島(竹島)が見えるという地理的与件を根拠に、欝陵島から見えるのは独島だけだという理由から、その于山島は独島だとしたのである。

 だが『世宗実録地理志』や『新増東国輿地勝覧』等の地理志や地誌には、読み方があった。地理志や地誌が編纂される際には「規式」(編纂方針)が定められ、それに基づいて編述されていたからだ。その「規式」では、海島の場合、管轄する官庁からの距離と方角を記すことになっていた。そのため対馬藩と朝鮮政府が欝陵島の帰属を巡って争った際も、朝鮮政府は『新増東国輿地勝覧』(「蔚珍県条」)の「見える」を管轄する蔚珍県から欝陵島が見えると読み、対馬藩も蔚珍県から欝陵島が見えると解釈していたのである。この解釈は、欝陵島から于山島が見えるとした東北アジア歴史財団とは違っていた。

 『DOKDO - Then and Now』では「規式」とは関係なく、欝陵島からは独島が見えるという地理的与件に依拠して、『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』の「蔚珍県条」を解釈していたのである。

 それに未定稿の『世宗実録地理志』等を底本として『新増東国輿地勝覧』が編纂されると、その記述の内容にも変化が起こっていた。『世宗実録地理志』では、于山島と欝陵島の関係を「二島相去不遠」としていたのが、『新増東国輿地勝覧』では「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚」として、蔚珍県から見た欝陵島が描写されていたからである。

 さらに『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』の「蔚珍県条」の分註には、本文の于山島に関連した記事が載せられていた。それが『太宗実録』である。その「太宗十七年二月壬戌条」では、欝陵島に派遣された按撫使の金麟雨が「于山島から還る」と復命し、その于山島には「戸凡そ十五口男女合わせて八十六」人が住んでいると報告したのである。この十五家、八十六人が住む于山島は、独島ではない。それは欝陵島にも十五家が居住するとされていたからだ。

 そのため于山島と欝陵島の区別は、『高麗史』(「地理志」)、『世宗実録于山地理志』、『東国輿地勝覧』でもなされていなかった。それも上記の編纂に携わった梁誠之は、『高麗史』(「地理志」)では「于山欝陵本二島」とし、『新増東国輿地勝覧』(「蔚珍県条」)では「于山欝陵本一島」として見解が一致していないからである。

 東北アジア歴史財団等では、改竄された『東国文献備考』の分註を根拠に、未定稿の『世宗実録地理志』に記されていた于山島を独島(竹島)としていたのである。

 だが所在不明だった于山島は、1711年、欝陵島捜討使の朴錫昌が「欝陵島図形」を復命して于山島を欝陵島から東2キロの竹嶼のこととしてからは、于山島は『輿地図書』、『大東地志』等の地誌の本文から消え、その後の地図作成にも影響を与えていた。

 だが『DOKDO - Then and Now』では、その「欝陵島図形」には触れていない。その一方で、鄭尚驥が「東国大地図」に描いた于山島を独島としたのである。「欝陵島図形」は『輿地図』『海東地図』等の地図帖に収載されているように、「東国大地図」等の朝鮮全図が描かれた際に参考にされ、その于山島は竹嶼だったのである。『DOKDO - Then and Now』が「欝陵島図形」の存在を無視するのは、同書が根拠とした鄭尚驥の「東国大地図」の于山島が竹嶼だった事実が明らかになるからである。

2. 1696年の安龍福による密航事件

 『東国文献備考』の分註の『東国輿地志』が改竄されたのは、1696年5月、安龍福が隠岐諸島に密抗した事件が関係していた。安龍福は『新増東国輿地勝覧』に載せられている朝鮮八道の地図を持参して、鳥取藩と交渉し、そこに描かれている欝陵島と于山島を朝鮮領と認めさせようとやってきたのである。

 だが「欝陵島図形」以前に描かれていた于山島は、所在不明の島であった。安龍福はその于山島を「倭の松島(現在の竹島)」と思い込んでいたのである。そのため鳥取藩によって追放された安龍福は、朝鮮に戻ってからの取り調べに対して、鳥取藩主と交渉し、欝陵島と松島(于山島)を朝鮮領にしたと供述したのである。

 だがそれは偽証である。それは前述したように、対馬藩と朝鮮政府は欝陵島の領有をめぐって争っていたが、江戸幕府は1696年正月、対馬藩の進言を入れて、欝陵島への渡海を禁じていたからだ。安龍福が鳥取藩に密抗してきた6月には、欝陵島の領有権問題は解決していた。

 それを安龍福は自ら鳥取藩主と直談判し、欝陵島と于山島(倭の所謂松島)を朝鮮領にしたと証言していたのである。

 その安龍福の供述調書が『粛宗実録』等に記録されたことから、後世の人々は安龍福の証言を鵜呑みにしたのである。それが『東国文献備考』(1770年)の分註で、「欝陵于山皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」と『東国輿地志』からの引用文が書き換えられていた理由である。

 于山国の地に属島はなく、安龍福が持参した朝鮮八道の地図に描かれていた于山島は、『新増東国輿地勝覧』で「于山欝陵本一島」とされていた于山島だったのである。

3.「勅命第41号」の石島と李奎遠が「島項」とした観音島

 『DOKDO - Then and Now』では、「勅令第41号」で欝島郡の行政区域に含められた石島を独島としている。だが1900年10月、「勅令第41号」が宣布された際、欝陵島の疆域は、1711年に欝陵島捜討使の朴錫昌が作図を命じた「欝陵島図形」系統の地図が使われていた。そこには独島(竹島)が描かれておらず、属島としては朴錫昌が「所謂于山島」とした竹嶼と島項が描かれていた。この島項は、1882年に高宗の命を受けて欝陵島を踏査した李奎遠が復命した『欝陵島外図』に見られるが、それはその島の姿が「牛の項(うなじ)」のように見えるので、韓国語音で島項(牛のうなじ)と命名したのだという。

 だが「勅令第41号」で欝島郡の行政区域とされた「欝陵全島、竹島、石島」にはその島項が見えない。そこで東北アジア歴史財団等では、石島と独島の発音が近いことから「勅令第41号」の石島は独島だとしてきたのである。

 しかし「勅令第41号」の「欝陵全島、竹島、石島」は、いずれも漢語で表記されている。そこに韓国語音で表記された島項が、韓国語音のまま記載されることはない。これは韓国語音の表記を漢語表記に換えていたということである。

 その書き換えには「反切」という伝統的な方法がある。その反切を用いて韓国語音で表記された島項(牛の項(うなじ)・ソモク)を漢語にすると「ソク」となる。この「ソク」を漢字に直せば「石」になるのである。「勅令第41号」の石島は、韓国語音で表記されていた島項を漢語表記にしたもので、欝陵島の東北にある観音島のことだったのである。

4.1905年1月の閣議決定と「勅命第41号」

 『DOKDO - Then and Now』では、1900年10月に宣布された「勅令第41号」を根拠に、1905年2月22日の「島根県告示第40号」で、竹島(独島)を島根県の隠岐島司の所管とした事実に対して、それを侵略とした。

 だが1900年10月の「勅令第41号」には竹島(独島)が含まれておらず、その時の竹島は「無主の地」であった。東北アジア歴史財団が刊行した『DOKDO - Then and Now』には、独島を韓国領とする証拠は記されていなかったのである。それは外国人を対象とした『DOKDO - Then and Now』が、不法占拠を続ける竹島を韓国領とするためのプロパガンダ本だったからである。

 

(下條正男)

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