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実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~

第67回

「久保井規夫氏の批判に答える」(下)

 

 久保井氏は「島根県リーフレット」<批判1>で、次のように主張した。『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧;八道総図』は、「于山」名の記述の始まりを述べただけで、「于山島」が「独島=竹島(松島)」に比定される「安龍福事件」以降に、史料の探査、解説をすべきである」。久保井氏によると、「于山島」の島名は『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧;八道総図』から始まる。それが「安龍福事件」以降、「独島=竹島(松島)」の名称として定着した、というのである。

 だがこの久保井氏の「島根県リーフレット」<批判1>には論拠が示されていない。それは『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』及びその「八道総図」に描かれた于山島がどのような島で、その于山島が何故、『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』に記載され、「八道総図」に描かれたのか、「史料の探査、解説」がなされていないからだ。

 それに「安龍福事件」以降の于山島については、前回の「久保井氏の批判に答える」(上)でも明らかにしたように、その于山島は欝陵島の東二kmにある竹嶼のことで、「独島=竹島(松島)」ではなかった。

 久保井氏は、「『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧;八道総図』は、「于山」名の記述の始まりを述べただけ」としたが、その于山島が何故「『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧;八道総図』」に記載され、どのような島だったのか、その「史料の探査、解説」を怠っている。久保井氏は「島根県・外務省側の見解は、史料を恣意的に扱い、歴史を改竄しています」と批判しているが、「史料を恣意的に扱い、歴史を改竄」していたのは久保井氏自身だったのである。

1.『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』

 『世宗実録地理志』を論拠に竹島を韓国領とするのは、1948年に申鎬氏が『史海』の創刊号に「独島所属に対して」を発表して、『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)の「可望見」(望み見える)を欝陵島から独島(于山島)が「見える」と読んだのが嚆矢とされる。申鎬氏は、欝陵島から見える島は独島の外にはないので、独島は韓国領だとしたのである。その『世宗実録地理志』には、次のように記述されている。

 

 「于山武陵二島在縣正東海中〔分註〕二島相去不遠。風日清明則可望見(以下略)」

 

 だが『世宗実録地理志』は、『世宗実録』の中に収録されている。この事実でも明らかなように、『世宗実録地理志』は未定稿であった。それに歴代の実録は、朝鮮時代を通じて史庫に収蔵されており、王といえども閲覧はできなかった。その史庫が開かれたのは日本の統治時代となり、『朝鮮史』の編纂事業が始まったからである。申鎬氏は、その『朝鮮史』編纂に従事した朝鮮史編修会の修史官であった。その申鎬氏が、戦後、『世宗実録地理志』にある于山島を竹島(独島)に違いない、としたのである。

 だが申鎬氏の解釈は、朝鮮時代の地志編纂の伝統を無視した恣意的解釈だった。それは地志編纂の際は、予め編集方針としての「規式」が定められており、地志には当然、読み方があったからだ。島嶼の場合、「規式」では島を管轄する官庁から島嶼までの距離と方角を記すことになっていた。申鎬氏はその「規式」を無視して、欝陵島から竹島(独島)が見えるという地理的与件を根拠に、『世宗実録地理志』の「見える」を欝陵島から竹島が「見える」と読んだのである。この場合、欝陵島を管轄する蔚珍県から欝陵島が見えると読まなければならない。

 それに『世宗実録地理志』は地誌としては草稿に属し、長く史庫に収蔵されていた。そのため『東国輿地志』、『春官志』、『大東地志』等の「引用書目」には、『世宗実録地理志』の書名がないのである。それに申鎬氏は、『世宗実録地理志』と『東国輿地勝覧』との関係についても言及しなかった。(は大の両側に百)

 しかし『世宗実録地理志』(1454年)の前言では、『世宗実録地理志』は尹准、申檣等の『新撰八道地理志』(1432年)を基に撰述したとしている。一方、『東国輿地勝覧』(1481年)は、『新撰八道地理志』とも関係のある梁誠之の『八道地理志』(1478年)が底本となっていた。さらに梁誠之は、『世宗実録地理志』を含む『世宗実録』の編纂にも関与し、『東国輿地勝覧』は、梁誠之の『八道地理志』に『東文選』から詩文を「添入」して完成したものだった。『東国輿地勝覧』は後に増補され、『新増東国輿地勝覧』(1530年)となるが、朝鮮時代の基本的な地誌であった。

 これを時系列的に示すと、『世宗実録』に収録された『世宗実録地理志』は、『東国輿地勝覧』にとっては草稿的な位置にあったことになる。従って、『世宗実録地理志』(1454年)の于山島を解釈する際は、その完成形である『東国輿地勝覧』の記述に従うべきなのである。だが久保井氏は、『世宗実録地理志』と『東国輿地勝覧』との関係に言及することなく、于山島が何故そこに記述されているのかについても、明らかにしていないのである。

2.『東国輿地勝覧』と于山島

 それに『世宗実録地理志』で「于山武陵二島在縣正東海中」と記述された于山島は、『東国輿地勝覧』では、次のように欝陵島に関する記述だけになるのである。

 

于山島欝陵島〔分註〕二島在県正東海中、三峯岌業◆空、南峯卑。風日清明則峯頭樹木及山根沙渚、歴々可見。風便則二日可到。一説于山欝陵本一島。地方百里」

于山島欝陵島〔分註〕二島は県の正東の海中に在り。三峯岌業として空を◆(支)え、南峯やや卑(低)し。風日清明なれば則ち峯頭の樹木及び山根の沙渚、歴々見るべし。風便なれば則ち二日到るべし。一説に于山欝陵本一島。地方百里)

 

 『東国輿地勝覧』の分註では、于山島に関連した記述が「一説于山欝陵本一島」だけになるのである。それに『世宗実録地理志』の「可望見」(望み見える)は、『東国輿地勝覧』では「三峯岌業として空を◆(支)え、南峯やや卑(低)し」として、朝鮮半島から見た欝陵島の眺望が「歴々可見」(歴歴見える)となっている。(◆はてへんにしょうがしら、口、牙)

 一方、于山島については「一説に于山欝陵本一島」として、于山島と欝陵島を同島異名の島としたのである。これは『東国輿地勝覧』が編纂された当時、于山島と欝陵島の区別がつかず、于山島の所在を明確にできなかった結果なのである。現に于山島が所在不明の島だった事実は、『世宗実録地理志』と同時代の『高麗史』(「地理志」)でも確認ができる。『高麗史』の「地理志」では、本文には「欝陵島」だけを記し、分註では「一云、于山武陵本二島」として、于山島と武陵島(欝陵島)を別々の二島としているからである。

 それも『高麗史』(「地理志」)は、『世宗実録』、『東国輿地勝覧』と同じ梁誠之が編纂している。その同じ梁誠之が『東国輿地勝覧』では「一説に于山欝陵本一島」とし、『高麗史』の「地理志」では「一云、于山武陵本二島」として、整合性を欠いた記述をしたのは、編者の梁誠之自身、于山島と欝陵島の区別ができていなかったからなのである。

 この事実は、『高麗史』(「地理志」)と『東国輿地勝覧』の稿本ともいうべき『世宗実録地理志』の于山島も、当然、その所在が不明だったことになる。その所在不明の于山島を竹島(独島)に違いないと断じたのは、申鎬氏をはじめとする韓国側の歴史研究者達である。久保井氏もまたその憶説に追随して于山島を竹島(独島)と独断し、「島根県・外務省側の見解」を批判したのである。

3.『世宗実録地理志』の中の于山島

 だが『世宗実録地理志』で「于山武陵二島」とし、『東国輿地勝覧』の本文で于山島と欝陵島を併記していたのは、典拠があってのことなのである。それが『世宗実録地理志』の分註にある「我太祖時、聞流民逃入者其島甚多。(中略)麟雨言土地沃饒、竹大如柱、鼠大如猫、桃核大於升、凡物称是」とした記事と、『東国輿地勝覧』の分註にある「本朝太宗時、聞流民逃其島者甚多。(中略)麟雨言土地沃饒、竹大如杠、鼠大如猫、桃核大於升、凡物称是。世宗二十年(以下略)」とした記事なのである。

 『世宗実録地理志』と『東国輿地勝覧』では、本文の于山島と欝陵島に関係した事跡を分註に記載して、その論拠を残していた。その中で『世宗実録地理志』の分註では「我太祖時」とし、『東国輿地勝覧』では「本朝太宗時」とするのは、『世宗実録地理志』の分註を踏襲した『東国輿地勝覧』が、『世宗実録地理志』の誤りを修正していたからである。

 『世宗実録地理志』で「我太祖時、聞流民逃入者其島甚多」とした記事は、『太宗実録』に由来しているため、『東国輿地勝覧』の分註ではそれを「本朝太宗時」と修正したのである。これは稿本の段階にあった『世宗実録地理志』は、まだ校勘が十分でなかったからである。その『世宗実録地理志』の誤謬は、『東国輿地勝覧』が編纂される過程で正されていたのである。

 では「本朝太宗時」とは、何を典拠としていたのだろうか。それは『太宗実録』の「十六年九月庚寅条」と「十七年二月壬戌条」の記事である。『太宗実録』の「十六年九月庚寅条」では、金麟雨を武陵等処安撫使として、武陵島に逃入した者の実態を探査し、その頭目を連れ帰るよう命じていた。その命を受けた按撫使金麟雨が「于山島より還る」と復命し、于山島の居民三名を引率したとするのが『太宗実録』の「十七年二月壬戌条」である。

 武陵等処安撫使として武陵島に向った金麟雨は、「于山島より還る」と復命していたのである。この復命が、朝鮮の廟堂を混乱に陥れたのである。武陵島とは別に于山島が存在していると認識されたからである。それを示しているのが『太宗実録』の「十七年二月乙丑条」である。「于山島より還る」と復命した金麟雨は、その三日後、再び安撫使となり、「于山武陵等処に還入して、その居民を率いて出陸せしめよ」と命じられている。その時は「武陵等処」の安撫使が「于山武陵等処」の安撫使となり、『世宗実録』の「七年八月甲戌条」では、金麟雨は「于山武陵等処安撫使」に任命されている。金麟雨が「于山島より還る」と復命して以来、「武陵等処安撫使」は「于山武陵等処安撫使」となっていたのである。

 『世宗実録地理志』と『東国輿地勝覧』の分註には、その『太宗実録』の「十六年九月庚寅条」と「十七年二月壬戌条」の記事を中心に、欝陵島に逃入した流民とその刷出の経緯がまとめられていたのである。その過程で金麟雨が「于山島より還る」と復命していたことで、于山島が実在する島として認識されたのである。

 だが『東国輿地勝覧』の編纂に従事した梁誠之は、その于山島の存在を明確にすることができず、その分註には「一説于山欝陵本一島」として、後世を俟ったのである。それは梁誠之が関係した『東国輿地勝覧』の「八道総図」でも同様であった。「八道総図」では、朝鮮半島と欝陵島の間に、欝陵島の三分の二ほどの大きさで于山島が描かれている。これは金麟雨が、于山島から居民を連れ帰ったと復命していたためである。

 だが『東国輿地勝覧』の分註で「一説于山欝陵本一島」とされた于山島は、後世の『輿図図書』と『大東地志』等の地志からは消えている。それは「安龍福事件」を機に、欝陵島の東二kmの竹嶼が「所謂于山島」とされ、その名が定着していたからである。

4.安龍福が持参した「朝鮮八道之図」

 1696年、鳥取藩に密航した安龍福は、「朝鮮八道之図」を持参した。これは『新増東国輿地勝覧』(「八道総図」)に因む「八道分図」である。その安龍福が「朝鮮八道之図ヲ八枚ニシテ所持」していた「八道之図」で、于山島が描かれているのは「江原道図」である。

 だがその「朝鮮八道之図」は、『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」に由来している。この事実は、その于山島はもう一つの欝陵島だということである。安龍福は隠岐島に着船し、その地での取り調べの際に、その「朝鮮八道之図」を示して、「江原道図」の「内、子山と申嶋御座候。是を松嶋と申由。是も八道之図に記申候」と供述していた。安龍福は、江原道には子山という嶋があり、それが松嶋だとしたのである。

 だが当時、朝鮮で流布していた朝鮮地図は、『新増東国輿地勝覧』の巻頭にある「八道総図」系統の地図で、そこに描かれていた于山島は、編者の梁誠之もその所在を確認できずに「一説于山欝陵本一島」とした所在未確認の島であった。安龍福は、その所在不明の「于山島」を「松島」と認めさせるため、「朝鮮八道之図」持参で密航してきたのである。その経緯については、前回の「久保井規夫氏の批判に答える」(上)で明らかにした通りである。

 だが皮肉なことに、梁誠之が所在未確認とした「于山島」は、その安龍福の密航事件を契機として、『輿地図書』や『大東地志』等の地誌の本文から消えていくのである。『世宗実録地理志』以来、その存在が不明確だった于山島は、「所謂于山島」または「于山島」として、竹嶼の島名として定着していたからだ。

 それを久保井氏は「島根県・外務省側の見解は、史料を恣意的に扱い、歴史を改竄しています」と批判するが、「安龍福事件」以降、于山島が「独島=竹島(松島)」の名称として定着した事実はなかったのである。

 これは久保井氏のように、『世宗実録地理志』の于山島を「史料を恣意的に扱い、歴史を改竄して」はならない、ということなのである。

 だがこれは久保井氏に限らず、韓国側の竹島研究では「史料を恣意的に扱い、歴史を改竄」する傾向がある。それは『東国輿地勝覧』と『世宗実録地理志』の関係を考えずに、未定稿の『世宗実録地理志』にだけ依拠して、そこに記された于山島を恣意的に解釈するからである。

 それもその奇妙な竹島研究は、戦後、申鎬氏が1948年に『史海』の創刊号で「独島所属に対して」を発表して以来、文献批判もせずに『世宗実録地理志』(「蔚珍県条」)の「見える」を欝陵島から独島が「見える」とした誤謬の域を出ていないからである。

 だが『世宗実録地理志』は、朝鮮時代の地誌としては草稿に属し、それを編修して完成したのが官撰の『東国輿地勝覧』である。それに朝鮮時代の地志を読む際は、その編集方針であった「規式」に従って解釈しなければならないのである。

 だが『竹島‐もう一つの日韓関係史』で下條批判をした池内敏氏のように、『世宗実録地理志』を根拠として竹島問題を論ずるのは、草稿的な『世宗実録地理志』では恣意的な解釈のできる余地があるからである。そのため『世宗実録地理志』を読む際は、『世宗実録地理志』だけに依拠せず、『新増東国輿地勝覧』の記述をも参考にして、解釈する必要があるのである。それは竹島研究の基本である。久保井氏は、その『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』に対する文献批判もせず、「安龍福事件」以降、「独島=竹島(松島)」の呼称として定着したと主張したのである。

 最後に、久保井氏に期待したいことは、次の二点である。一つは『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧;八道総図』の于山島が、欝陵島と同島異名の島であった事実。第二点は、「安龍福事件」以降の于山島は、欝陵島東2キロの竹嶼であった事実。この二点に対する久保井氏の反証である。

(下條正男)


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