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実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~

第61回

無主の地だった尖閣諸島と中国海警局の挑発

はじめに

 近年、尖閣諸島周辺で繰り返されている中国海警局の挑発行為は、令和3年2月13日から連続して行われ、6月13日で120日目となった。中国の公船が領海侵犯や尖閣諸島周辺の接続水域内での航行を始めたのは、2010年9月7日、海上保安庁の巡視船に中国漁船が故意に追突した事件が契機となっている。その後、中国の国家海洋局は、2014年12月30日にウェブサイト「釣魚島‐中国の固有の領土」を開設した。

 だが歴史的事実として、明治政府が尖閣諸島を領有した際の尖閣諸島は、無主の地であった。これは中国政府が主張するように、尖閣諸島は「中国固有の領土」ではなかったということである。輓近の中国海警局の艦船による挑発行為は、明らかな侵略行為である。

1.尖閣は歴史的に中国の領土だったのか。

 そのウェブサイト「釣魚島‐中国の固有の領土」には、尖閣諸島(釣魚島及びその付属島嶼)を中国領とする「基本的立場」が、次のように示されている。

1,釣魚島及び付属島嶼は中国の不可分の領土の一部で、歴史的には勿論、国際法上から見ても中国固有の領土。

2,釣魚島及びその付属島嶼は、日本が発見する数百年前から中国が管理。
3,下関条約では釣魚島及びその附属島嶼が台湾の付属島嶼とともに日本に割譲されたが、第二次大戦後、「カイロ宣言」に基づき、「ポツダム宣言」や「降伏文書」によって中国に返還された。
4,反ファシズム戦争に勝利した成果を守る決意はいささかも揺るぎない。歴史事実と国際法を踏みにじる日本の行為を打ち砕き、地域の平和と秩序を守る自信と能力を持っている。

 この内、3には明らかな事実誤認がある。それは「下関条約」で釣魚島及び付属島嶼が日本に割譲されたとした部分である。歴史的事実として、「下関条約」が締結されたのは1895年4月17日、尖閣諸島が閣議決定によって日本領になったのは1月14日である。尖閣諸島の日本領編入は、「下関条約」の締結の三か月も前に、完遂していたのである。これは「下関条約」で、尖閣諸島が日本に割譲されたとする中国側の主張には信憑性がなく、第二次大戦後、「カイロ宣言」に基づき、「ポツダム宣言」や「降伏文書」によって中国に返還された事実もなかった。中国の国家海洋局のウェブサイト「釣魚島‐中国の固有の領土」では、虚偽の歴史を捏造して、対外宣伝を始めていたのである。

2.15世紀の台湾は明の領土ではなかった。

 では尖閣諸島を中国領とする根拠とは、どのようなものなのだろうか。中国政府の「基本的立場」では、「数百年前から中国が管理」しているとしているので、それを明代の歴史で確認してみたい。

 それには明代に編纂された官撰の地理書である『大明一統志』で確認するのが確実である。歴史的に中央集権国家の体制が続いた中国の各王朝では、王朝が管理する疆域を地理書に記録する伝統があるからだ。その『大明一統志』で、台湾について確認してみると、台湾と澎湖諸島は「琉球国」の付属島嶼とされている。さらに正史の『明史』(「地理志」)を見ると、台湾は朝鮮や安南、日本、琉球とともに「外国伝」に記載されている。この事実は、「数百年前から中国が管理」していた、とする中国政府の「基本的立場」には、虚偽の歴史を記述していた、ということである。

 ではその台湾が「領土の一部」となるのは、いつからだろうか。そこで清代に編纂された地理書の『大清一統志』(「乾隆版」)で確認すると、次のように記されている。

 「古より荒服の地、中国に通ぜずして東蕃という。明の天啓の初、日本国の人ここに屯聚し、鄭芝龍これに附す。その後、紅毛荷蘭夷の拠る所となる」

 ここでは、清朝以前の台湾は、「古より荒服の地、中国に通ぜずして東蕃」に属し、中国の支配が及んでいなかったと明記している。明代の台湾には日本人が屯し、その後はオランダが占拠したとしている。そのため乾隆版の『大清一統志』では、台湾は「日本に属す」とも記しているのである。
中国政府は、15世紀に成立したとする『順風相送』を根拠に、尖閣諸島は中国領だと主張してきた。だが台湾が「領土の一部」となるのは、明代ではなく、清朝の時代である。

 歴史的事実として、明代の官撰の『大明一統志』では、台湾と澎湖諸島は「琉球国」の付属島嶼とされ、正史の『明史』(「地理志」)では外国とされていた。尖閣諸島を「数百年前から中国が管理」していたとするウェブサイト「釣魚島‐中国の固有の領土」の主張には、何ら根拠がなかったのである。

3.清朝と台湾

 『大清一統志』(「乾隆版」)で「日本に属す」とされた台湾が、清朝の領土となるのは康煕23年(1684年)ある。この時、台湾は台湾府として、福建省に附属していた。問題となるのは、清朝の統治が台湾のどこにまで及び、尖閣諸島がその疆域の中に含まれていたのか、それを明らかにすることである。

 これを康煕年間に刊行された蒋毓英の『台湾府誌』で確認すると、その北界は、「北至●籠城二千三百一十五里」(北、●籠城に至る二千三百一十五里)(●=奚+隹)とされている。これは台湾府の北限は●籠城だということで、そこまでの距離は、台湾府の官衙から二千三百一十五里だとしている。この台湾府の北限とされた●籠城は、現在の基隆市にある。この現在の基隆市付近が台湾の疆界であった事実は、康煕三十五年(1696年)刊の『重修台湾府誌』(高拱乾等撰)で確認ができる。そこには「北至鶏籠山二千三百一十五里、為界」(北、●籠山に至ること二千三百一十五里、界と為す)として、●籠山を「界」としているからだ。

 この●籠城ないし鶏籠山を台湾の北限とする地理認識は、清朝の時代を通じて変わることはなかった。この事実は、台湾の北限から北西170キロに位置する尖閣諸島は、当然、台湾府の付属島嶼ではなかった、ということなのである。

 中国政府の「基本的立場」では、「下関条約では釣魚島及びその附属島嶼が台湾の付属島嶼とともに日本に割譲された」としているが、それは明らかに虚偽の主張だったのである。

 ではその台湾府の全容は、どのようなものだったのか。蒋毓英の『台湾府誌』や高拱乾等の『重修台湾府誌』には「台湾府総図」が載せられている。それを見ると台湾の北限には●籠城と鶏籠山の両方か、そのいずれかが描かれている。

 さらに康煕年間になると『皇輿全覧図』が作図され、正確な台湾地図が描かれている。この『皇輿全覧図』は、康熙帝の命を受けたイエズス会の宣教師等が実測し、作成したもので、それは『大清一統志』や『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」に踏襲されている。その『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」を見ると、その北限を「●籠城界」として台湾府の国境が明記されている。台湾の国境は、●籠城または鶏籠山だったのである。

 だが尖閣諸島を固有の領土としたい中国側には、この事実は不都合だった。そこでその事実には触れず、論拠としたのが、使臣達が琉球国に渡った際に残した記録である。それが陳侃『使琉球録』(1534年)、郭汝霖『重編使琉球録』(1562年)、汪楫『使琉球雑録』(1683年)、周煌『琉球国志略』(1756年)、李鼎元『使琉球録』(1800年)、齋鯤『続琉球国志略』(1808年)等、中国側が掲げてきた文献である。

 だがそこに尖閣諸島の附近を航行し、目撃したとする記述があるが、それは尖閣諸島が清朝の領土であった証拠にはならないのである。現に、清代の『皇朝中外一統輿図』を見ると尖閣諸島の魚釣島、赤尾嶼、黄尾嶼が描かれている。しかし同時代、冊封使として琉球に渡った齋鯤は、●籠山(台湾)を清朝の国境として明記しているのである。

 その使臣の一人であった齋鯤の『東瀛百詠』(「航海八咏」)には、清朝の本土から琉球国の那覇港に入港するまでが詠まれており、台湾付近を通過した際には、「●籠山(山、台湾府の後に在り)」として、●籠山を「猶是中華界」(猶これ中華の界のごとし)とした。これは齋鯤が、清朝の疆界を台湾府の●籠山と認識していた証左である。

 さらに齋鯤は、同じ『東瀛百詠』の中で、「●籠山、中華の界」(「渡海吟用西◆題乗風破浪圖韻」)(◆=つちへんに庸)としている。琉球国に渡った冊封正使の齋鯤は、●籠山を清朝の疆界と認めていたのである。

4.尖閣諸島は「無主の地」であった

 では齋鯤はなぜ、台湾府の●籠山を「中華の界」としたのであろうか。それは清朝が康煕二十三年(1684年)、台湾を領有して台湾府を設置し、「●籠山」を疆界の北限に置いていたからである。これは蒋毓英の『台湾府誌』や高拱乾等の『重修台湾府誌』で確認ができる。さらにイエズス会の宣教師達が『皇輿全覧図』を作図すると、それを踏襲した『大清一統志』や『欽定古今図書集成』の「台湾府疆域図」では「●籠城界」として、現在の基隆市付近の「●籠城」と「●籠山」を、台湾府の疆界としていたからである。

 とすると尖閣諸島は、どこに属していたのだろうか。これも齋鯤の『東瀛百詠』で、確認ができる。齋鯤は「姑米山」(久米島)を詠み、その表題の分註では、「此山入琉球界」、(この山(島)、琉球の界に入る)としているからだ。齋鯤は久米島を琉球国に属すとし、中華の疆界を●籠山としていたのである。これは必然的に、久米島と●籠山の間に点在する尖閣諸島は、琉球国の領土でも清朝の領土でもなかったことになるのである。それは現代的な表現を借りれば、尖閣諸島はどの国にも続さない、「無主の地」だったのである。

5.その後の台湾と

 この台湾の●籠山と鶏籠城を北限とする地理認識は、台湾府が台湾省となり、中華民国時代になっても変わらなかった。『皇朝続文献通考』(1912年)や『清史稿』(民国16年・1927年)等でも、尖閣諸島は中華民国には属していなかったからだ。

 それは花瓶嶼や彭佳嶼等、尖閣諸島と台湾の間に介在する島嶼が台湾に編入された時期からも確認ができる。『基隆市志』(1951年刊)によると基隆嶼、彭佳嶼、綿花嶼、花瓶嶼等が基隆市に編入されたのは、光緒三十一年(1905年)としているからだ。尖閣諸島は、その花瓶嶼、彭佳嶼、綿花嶼から東北東に150キロ近く離れている。

 さて以上、尖閣諸島と台湾との関係を見てくると、「釣魚島及び付属島嶼は中国の不可分の領土の一部」であった事実はなく、「歴史的には勿論国際法上から見ても中国固有の領土」でもなかった。ウェブサイト「釣魚島‐中国の固有の領土」では、「釣魚島及びその付属島嶼は、日本が発見する数百年前から中国が管理」したとするが、その事実もなかった。また「下関条約では釣魚島及びその附属島嶼が台湾の付属島嶼とともに日本に割譲された」とするのも、事実ではなかった。いずれもウェブサイト「釣魚島‐中国の固有の領土」では、虚偽の歴史を捏造していたのである。

 これらの事実は、「釣魚島及び付属島嶼は中国の不可分の領土の一部で、歴史的には勿論、国際法上から見ても中国固有の領土」と主張できる歴史的権原が、中国側にはないということなのである。今日、中国海警局の艦船が尖閣諸島周辺の領海を侵犯し続ける行為は、明らかに侵略行為である。これは、ウェブサイト「釣魚島‐中国の固有の領土」が強調しているように、日本こそが「歴史事実と国際法を踏みにじる中国政府の行為を打ち砕き、地域の平和と秩序を守る自信と能力を持」たなければならない、ということなのである。

 

(島根県立大学・東海大学客員教下條正男)


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