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実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~

第59回

崔英成氏の論稿「安龍福第二次渡日の性格に関する考察ー‘朝鮮の密使,安龍福ー」批判


 『独島研究』(第26号)には、崔英成氏による「安龍福第二次渡日の性格に関する考察ー‘朝鮮の密使,安龍福ー」が掲載されている。崔英成氏によると、安龍福は朝鮮政府が派遣した「密使」だというのである。崔英成氏はその理由を、冒頭の総論で次のように語っている。

 

「本稿は安龍福一行が1696年に渡日したことの性格を再検討するものである。個人の次元ではなく、政府当局者が密使を派遣したという点が骨子だ。密使派遣の背後と目される人物は、南九萬と尹趾完である。(中略)安龍福一行が使臣であった点は、朝鮮側の公式記録から探すことは難しいが、日本側の資料の場合、『竹島考』等で明らかにされている」

 

 崔英成氏は、『竹島考』等の記述を根拠に、安龍福は朝鮮政府が派遣した密使だとしたのである。この「安龍福密使説」は、すでに忠清大学校名誉教授の権五曄氏が「通政大夫安龍福」、「南九萬の密使安龍福」等で提唱しており、崔英成氏の論稿は、それを踏襲したものである。

 だが権五曄氏の「安龍福密使説」は、崔英成氏も発表以来、「破天荒」と評価されたと述べているように、荒唐無稽な癖論であった。

 それは元禄九年(1696年)、隠岐島に着岸した安龍福が自称した「通政大夫」を論拠としているからである。安龍福は今日の竹島問題の元凶ともいえる人物で、安龍福が供述した「鳥取藩主と交渉し、欝陵島と松島(現在の竹島)を朝鮮領にした」とする証言は、竹島(独島)を韓国領とする論拠になっている。

 だが安龍福の証言は、「東北アジア歴史財団」が2012年に刊行した『因幡国江朝鮮人致渡海候付豊後守様へ御伺被成候次第并御返答之趣其外始終之覚書』によって、偽証であった事実が明らかになった。これは安龍福が自称した「通政大夫」の爵位についても、検証が必要だということである。

 「通政大夫」を自称した安龍福は、鳥取藩主と交渉して、欝陵島と松島(現、竹島)を朝鮮領にした、と証言した。だが安龍福は、幕府の命を受けた鳥取藩によって、加露灘から追放されていた。それに江戸幕府が欝陵島への渡海を禁じたのは元禄九年(1696年)正月二十八日、安龍福一行の赤崎着岸はその四ヶ月後である。安龍福の密航事件は、江戸幕府による欝陵島への渡海禁止措置とは、関係がなかったのである。その安龍福を朝鮮政府の密使とした「安龍福密使説」は、最初から成り立たないのである。

 「安龍福密使説」を提唱した権五曄氏は「岡嶋正義古文書」、「控帳」等、日本側の文献を韓国語訳し、斯界に貢献してきた。だが江戸幕府による欝陵島への渡海禁止が、安龍福の密航以前であった事実については、沈黙している。

 『独島研究』(第26号)に論稿を掲載した崔英成氏も、韓国側にとって不都合な事実には触れていない。そこで今回は、「安龍福密使説」の論拠とされた『竹島考』、『増補珎事録』等と『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』(以下、『元禄覚書』)を検証して、「安龍福密使説」が妄誕無稽の類であった事実を、明らかにすることにした。

 

1. 安龍福の号牌(腰牌)とその出自

 では権五曄氏が唱えた「安龍福密使説」とはどのような論理だったのか、そのあらましは次の通りである。権五曄氏によると、安龍福は元禄六年、鳥取藩米子の大谷家の船頭達によって日本に連行された際は、「稗将」を称していた。それが元禄九年、隠岐島に密航した時には「通政大夫」、「安同知」となっていた。これは安龍福の官位が上がったからである。従って安龍福は、『竹島考』や『増補珎事録』で「私奴」とされているような賤民ではなく、朝鮮政府内での実力者だった南九萬が派遣した密使だというのである。その「安龍福密使説」の論拠にされたのが、『元禄覚書』である。

 この『元禄覚書』は、元禄九年(1696年)、安龍福等が隠岐島に着岸した際、村役人等によって取調が行われた時の記録である。そこには安龍福の身元を示す「号牌」(身分証)と、その後、安龍福等が鳥取藩に向かった際に掲げた「木綿のはた(旗)」(二旒)についての記述がある。その一旒には、「(表)朝欝両島監税将臣安同知騎」、「(裏)朝鮮国安同知乗舟」と認められていた。ここで権五曄氏が注目したのが官職の「監税将」と、安龍福が所持していた「号牌」である。権五曄氏は、次の安龍福の「号牌」に刻まれた「通政大夫」を根拠に、「安龍福密使説」を唱えたのである。

 

「表    通政太(ママ)夫

  安龍福年甲午生」

「表(ママ)  住東莱  印彫」

 

 だがこの「号牌」は、「偽造号牌」である。朝鮮時代の高位高官の「号牌」には、「氏名」と「生年」、号牌を発給した官庁の焼印はあるが、「通政太(ママ)夫」のような爵位は記載しないからだ。その違いは、実在する多くの「号牌」と比較してみれば一目瞭然である。

 

(表)「金憙   乙酉生

  癸巳文科」

(裏)「甲辰   官印」

 

 この乙酉生れの金憙という人物は、癸巳の年に科挙(文科)に合格し、「号牌」が作られたのは甲辰の年。「号牌」の裏面には、官庁の焼印がある。金憙の「号牌」と安龍福の「号牌」は、明らかに形式が違う。安龍福の「号牌」には、爵位(「通政太夫」)と居住地が刻まれているからだ。この安龍福が所持した形式外の「号牌」は、偽造された「号牌」とみてよいのである。

 では「偽造号牌」を所持した安龍福とは、いかなる人物だったのか。それを示しているが、元禄六年、安龍福が日本に連れ去られた際に所持していた「号牌」(腰牌)である。『竹島考』と『増補珎事録』には、その「号牌」の写しが次のように記されている。

 

東「私奴用卜年三十三、長

    四尺一寸   面鉄髭暫生●無

  主京居呉忠秋」

 

庚「釜山佐自川一里     焼印有(注1)

  第十四統三戸」

 

 この『増補珎事録』に残された安龍福の「号牌」(腰牌)は、金憙の「号牌」と比べると、明らかに形式が違っている。その安龍福の「号牌」(写し)から分かるのは、安龍福が呉忠秋の「私奴」(賤民)であったこと。安龍福の名は「用卜(龍福と用卜は韓国語で同音)」といい、「号牌」が作られた庚午(1690年)の年には、三十三歳であった。従って、その生年は戊戌の年(1658年)となる。さらに安龍福の居住地(「釜山佐自川一里第十四統三戸」)は、東莱府の南二十里にある「釜山鎮城」附近であった。安龍福の身体的な特徴としては、身長が四尺一寸(注2)、顔にはややが生え、●(●は「やまいだれに巴」)(傷痕)がなかった。

 この安龍福の「号牌」は、身体的特徴を書き入れていることから、『号牌事目』に「諸色軍兵既有腰牌不必畳給號牌」(諸色、軍兵、既に腰牌あり。必ずしも號牌を畳給せず)とあるように、賤民や軍兵が所持する「腰牌」であった。それは『続大典』(「戸典」)で、「軍兵、仍用腰牌」とするように、軍兵は「腰牌」を用いることになっていたからである。安龍福が「腰牌」を所持していたのは、韓国側の資料でも「櫓軍」、「能櫓軍」とされるように、軍兵だったからである。

 

2. 安龍福の「腰牌」と朴於屯の「号牌」

 その腰牌は、朝鮮時代初期の『経国大典』(「兵典」)では、水軍の場合、一面には「某浦水軍某年歳容貌居処」(某浦、水軍某、年歳、容貌、居処)が、その裏面には「年月日を書し」て、両面に水軍の二字を篆烙することになっていた。その号牌の制度はその後も続き、『続大典』によると、所持しない者は処罰の対象になった。

 安龍福の「腰牌」に「長四尺一寸面鉄髭暫生●無」と刻まれていたのは、軍兵の「腰牌」には、「●」(●は「やまいだれに巴」)(傷痕)の有無と「身長」を記録する『号牌事目』の規定に従ったからである。そこで拙著『竹島は日韓どちらのものか』では、この「腰牌」に従って安龍福を私奴とし、軍兵としたのである。

 だが「安龍福密使説」を主張する権五曄氏にとっては、安龍福を「私奴」とし、「軍兵」とされるのは不都合であった。そこで権五曄氏は、「安龍福のものでない可能性が高い」(「安龍福と号牌」)などとして、否定に努めたのである。

 だがそれは権五曄氏の願望でしかない。『竹島考』と『増補珎事録』には、安龍福とともに連れて来られた朴於屯の「号牌」の写しが記録されており、その「号牌」の内容は、ほぼ正確だったことが証明されたからだ(注3)。次が朴於屯の「号牌」の写しである。

 

 庚   「青良島里

    第十二統     焼印有

 午      五家」

 蔚           三十丑

   朴於屯

 山      塩干」(注4)

 

 この朴於屯の「号牌」から分かることは、朴於屯は蔚山(青良島里第十二統五家)に居住する「良民」であったこと。「号牌」が作られた庚午(1690年)の年には三十歳で、丑年生まれであった。「塩干」は、魚介類を塩漬け加工する朴於屯の職業である。そして権五曄氏は、この「号牌」の写しを朴於屯の「号牌」と認めたのである。

 だが安龍福の「腰牌」については、朴於屯の号牌とは異なる見解を示している。権五曄氏は、根拠を示すことなく、「その号牌は安龍福が持っていたとしても安龍福のものとは考えられない(中略)、その号牌を根拠にして安龍福の実体を論じた研究物は廃棄するか、再考すべきであろう」と強弁したのである。だがこれは詭弁である。

 この権五曄氏の見解は、朝鮮時代、「号牌」(腰牌)がどのような存在だったのか。「号牌」に対する知見があれば、「その号牌は安龍福が持っていたとしても安龍福のものとは考えられない」といった結論には至らないものであった。

 『続大典』(「戸典」)では、「男丁十六歳以上、佩号牌」として、「不佩者、以制書有違律論、借佩他人号牌者、以漏籍律論、與者、杖一百徒三年」(佩びざる者は、「制書有違律」を以て論じ、他人の号牌を借り佩びる者は、「漏籍律」を以て論ず。与えたる者は杖一百、徒三年)と、不携帯の者は、厳しく処罰されることになっているからだ。「号牌」は常に携帯するもので、他人に号牌を貸したり、借りたりすれば罪に問われたのである。

 元禄六年に、安龍福が朴於屯とともに鳥取藩に連れ去られた時は、安龍福も普段の生活を営んでいたはずである。それを朴於屯が所持していた「号牌」は朴於屯のものだが、「安龍福が持っていたとしても安龍福のものとは考えられない」とするのは、権五曄氏の詭弁である。

 それに安龍福が所持していた「腰牌」の写しには、確かに「用卜」と龍福と同じ発音をする漢字が刻まれていた。そこに姓が記されていないのは、安龍福が「私奴」だったからで、姓を記さない例は、『全羅道軍籍』(国立海洋博物館蔵)等でも確認ができる。

 一方、元禄九年の密航は、最初から鳥取藩を目指しての渡海であった。それを安龍福は、朝鮮に帰還後、欝陵島では倭人(日本人)に遭遇し、松島(現在の竹島)に住む倭人を追った。松島では倭人達を叱りつけ、その逃げる倭人を追いかけたが、急に強風に遭って、隠岐島に漂着したとして、偶然、日本に渡ったと供述している。だが安龍福は、確信犯であった。

 当時、朝鮮は、欝陵島での漁撈を禁じていた。その欝陵島に渡った安龍福が、日本では「通政大夫」を語り、その身元を証明するための身分証(「号牌」)を所持していたのである。それに「木綿の旗」、「黒き笠」、「浅黄木綿の上着」等、高級官吏を演出するための小道具も準備していた。これだけ道具が揃っていては、偶然を装っても無理がある。

 さらに安龍福が鳥取藩の赤崎に着岸したのは、江戸幕府が欝陵島への渡航を禁じた四ヶ月後。その欝陵島で、鳥取藩の漁民達に遭遇することはない。鳥取藩米子の大谷・村川家では、渡海禁止とともに、欝陵島への「渡海免許」を幕府に返納していたからだ。

 それを韓国側では、この安龍福の活動によって、江戸幕府が欝陵島への渡海を禁じたとしてきた。権五曄氏と崔英成氏の「安龍福密使説」は、その荒唐無稽な安龍福の功績を前提にしている。それも安龍福を朝鮮政府の密使とする根拠は、安龍福が僭称した「通政大夫」という爵位の他にはないのである。

 しかし「通政大夫」の官位は正三品に相当し、国政に参画する堂上官(高級官吏)である。その高官を密使とし、鳥取藩に送った事実がなければ、記録にないのは当然である。その事実は、権五曄氏と崔英成氏も認めている。

 韓国側の文献に登場する安龍福は「能櫓軍」又は「櫓軍」である。これは海浜に居住する良民と賤民からなる水軍の混成部隊である。

 それを権五曄氏と同様、崔英成氏は「日本側の資料の場合、『竹島考』等で明らかにされている」として、日本側の文献に依拠して、「安龍福密使説」を唱えたのである。

 だが日本側の記録に安龍福を使臣等と表記したものがあるのは、安龍福みずから「伯耆守様に訴訟これあり」として、「通政大夫」や「監税将」を偽称していたからで、その偽称した官職を根拠に、安龍福を朝鮮の使臣とすることはできない。

 安龍福の供述は、鳥取藩の赤崎に着岸する際に、「(表)朝欝両島監税将臣安同知騎」、「(裏)朝鮮国安同知乗舟」の船印を掲げ、「冠のようなる黒き笠」と「水晶の緒」、「浅黄木綿の上着」を着けていたという以外は、ほぼ偽証であった。

 安龍福はその名を「用卜」といい、呉忠秋の私奴であった。現存する『全羅道軍籍』には軍兵の氏名が列挙されているが、奴の場合は「奴○○」として、姓が記されていない。安龍福の「腰牌」に「用卜」とあったのは、私奴だったからで、居住地の「釜山佐自川一里第十四統三戸」の「佐自川一里」は、「釜山鎮城」と同じく東莱府の南二十里にあった。この居住地の一致から見て、安龍福は「能櫓軍」で、軍兵だったといえるのである。

 その安龍福を「通政大夫」とし、朝鮮政府の「密使」とするのは、敢えて虚偽の歴史を捏造するものである。

 


注1.「焼印有」、『竹島考』には記されていないが、『増補珎事録』の記述によって補った。

注2.『竹島考』では、安龍福と朴於屯の腰牌を写した後で、「今按ニ此牌面ノ文字恐クハ傳写ノ謬アラン。後日識者ニ可糺」とした按語が記されている。そのため安龍福の身長を「四尺一寸」とするのも「傳写ノ謬」とみてきた。だが金友哲著『朝鮮後期地方軍制史』(景仁文化社、2001年刊)によると、『河東府東伍軍兵保人戊午式改都案』では、軍兵の「身長は全部4尺として」(231頁)いる、としている。

注3.李俊九「17世紀末、戸牌・戸籍が語る欝陵島・独島の番人安龍福と朴於屯」(『朝鮮史研究』第14輯、2005年、(韓国)朝鮮史研究会)

注4.拙著『竹島は日韓どちらのものか』(文春新書)では、塩干を於血子と解釈したが、『蔚山府戸籍台帳』を調査した李俊九氏によって、魚介類を塩漬けにする「塩干」であったことが確認された。

(下條正男)


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