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実事求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~

第58回

ソ・インウォン氏の論稿「1900年代前後の日本の無主地先占論と新領土開拓の矛盾点に対する考察」を駁す

はじめに

 韓国側では、明治政府による竹島の「無主地先占」に対して、詭弁まがいの論稿が陸続と発表されている。最近、嶺南大学校独島研究所の『独島研究』(第26号)に掲載された日帝強制動員被害者支援財団のソ・インウォン氏による「1900年代前後の日本の無主地先占論と新領土開拓の矛盾点に対する考察」もまた、そのような論稿の一つである。1954年以来、竹島を占拠する韓国側には歴史を歪曲し、文献を曲解して、日本批判を続けねばならない事情があるからである。そのためソ・インウォン氏は、執筆の目的について、次のように語るのである。

 

「本稿は一九世紀前後、日本政府が独島を韓国領土と認識しながら、無主地先占論を利用し、独島を編入した正当性と広報活動に対して分析しながら、日本の固有領土説の主張に対する矛盾点について考察した」(129ページ)

 

 ソ・インウォン氏に限らず、韓国側にとって、竹島を日本領に編入した際の日本の「無主地先占論」は、格好の批判対象となっている。日本による竹島の日本編入そのものを侵略行為として糾弾し、批判することができるからだ。しかし「矛盾点を考察した」とするソ・インウォン氏の考察を読むと、それは虚偽の歴史の捏造に終っている。

 その理由は、簡単である。すでに小冊子『韓国の竹島教育の現状とその問題点』(島根県総務課2018年刊)等でも明らかにしたように、独島は歴史的に韓国領であった事実がないからである。その韓国領でもない竹島に対して、日本政府が無主地先占によって竹島を領有したからといって、それを批判する資格は韓国側にはないからだ。その韓国側が、敢えて竹島問題で言挙げするのは、1954年以来、竹島の占拠を続ける韓国側にとって、日本側からの論難がある限り、占拠を正当化する必要に迫られるからである。そのためその反論は、ソ・インウォン氏の考察がそうであるように、歴史を捏造し、文献を曲解して次のような批判にならざるを得ないのである。

 

「日本の竹島開拓論は吉田松陰から出ており、朝鮮侵略のため征韓論から始まっているといえる。吉田松陰は、竹島がすでに朝鮮の領土であることを認知していたが、英国、ロシア等の西欧列強国家からの防禦は無論、大陸侵略の橋頭堡の役割をする欝陵島をまず先占する事ことだと強調した。日本は朝鮮をはじめ大陸侵略の過程で韓国との国境の間にある欝陵島と独島の存在が登場してから竹島開拓請願書を提出し、日本が大陸侵略のため欝陵島と独島の軍事的価値に注目し、海軍の軍事基地として使用するため併呑する計画を提出した。しかし日本政府は独島が朝鮮の領土であることを知り、竹島開拓請願書を棄却し、窮余の策として独島を無主の地として先占し、領土編入を試み、無主地の開拓という名分で朝鮮を侵略しようとした」(129~130ページ)

 

1. ソ・インウォン氏が批判した「日本の竹島開拓論

 ソ・インウォン氏の論稿では、「日本の竹島開拓論は吉田松陰から出ており、朝鮮侵略のため征韓論から始まっている」とする歴史を捏造し、「日本の竹島開拓論」を日本による大陸侵略の橋頭堡と、論理を飛躍させている。

 だが冒頭、ソ・インウォン氏が「日本の竹島開拓論」とした竹島は、1870年代、武藤平学の「松島開島之建白」や戸田敬義等が提出した「竹島渡海之願」のことで、欝陵島の開拓願いである。

 それをソ・インウォン氏は、中井養三郎が明治37年(1904年)に現在の竹島の貸下げを願い出た「りやんこ島領土編入並ニ貸下願」と区別することなく、欝陵島の開拓願いも「無主地先占」と関係があるかのように装っている。そして最終的には、「日本は朝鮮をはじめ大陸侵略の過程で、韓国との国境の間にある欝陵島と独島の存在が登場してから竹島開拓請願書を提出」したと断じ、時代の異なる「松島開島之建白」と竹島の「貸下願」を結び付け、日本の朝鮮及び大陸侵略の橋頭堡としたのである。

 だが明治政府は「松島開島之建白」等が提出されると、明治十三年(1880年)、天城艦を松島に派遣して、松島が朝鮮の欝陵島であったことを確認している。そのため松島は朝鮮領の欝陵島とされ、明治十六年(1883年)には、松島で材木の伐採に従事していた日本人が明治政府によって退去させられている。「松島開島之建白」を、日本の大陸侵略と結び付けることはできないのである。それが何故、「松島開島之建白」が、「日本が大陸侵略のため欝陵島と独島の軍事的価値に注目し、海軍の軍事基地として使用するため併呑する計画」の一部にされるのだろうか。この単純な疑問に思い至ったのは、ソ・インウォン氏も当該論文の執筆に当たって、北澤正誠の『竹島考証』を参考にしているからである。そこには明治十三年、松島を朝鮮領の欝陵島とした天城艦による測量結果も収録されている。だがソ・インウォン氏は、松島が欝陵島であったとする天城艦の測量報告の結果には言及せず、無視した。「松島開島之建白」等を日本の朝鮮侵略の橋頭保とするソ・インウォン氏にとって、松島を欝陵島とした天城艦の測量報告は、不都合な事実だからである。

 外務省嘱託の北澤正誠が『竹島考証』の編述に従事したのは、「古来紛紜適説ヲ得ス」とされた竹島(別名、磯竹島。現在の欝陵島)の所在を明確にするためであった。その『竹島考証』には、松島の開拓を願い出た「松島開島之建白」や「竹島渡海之願」に関する記録も収載されている。北澤正誠はそれらを検証した後、明治十三年の天城艦による松島測量の結果を根拠に、次のような結論に到達したとしている。

 

「其地即チ古来ノ欝陵島ニシテ其北方ノ小島竹島ト号スル者アレ共一個ノ巌石ニ過サルヲ知リ多年ノ疑議一朝氷解セリ」

 

 北澤正誠は「松島開拓願」の松島は、朝鮮領の欝陵島であったとの結論に至ったのである。ところがソ・インウォン氏は、その「松島開拓願」をも日本の朝鮮侵略の橋頭堡とみなし、日本による「無主地先占」を批判する論拠の一つとしていたのである。

 だが「松島開拓願」の松島が朝鮮領の欝陵島であったことが判明した後、「松島開拓願」は却下されている。その「松島開拓願」を根拠に、日本による朝鮮侵略の橋頭堡とすることはできないのである。それをソ・インウォン氏は、北澤正誠の『竹島考証』を多用しながら、自説にとって不都合な事実を隠蔽し、虚偽の歴史を捏造していたのである。

 さらに北澤正誠は、1877年の太政官指令で「竹島外一島本邦関係之無し」とされた外一島の松島が、朝鮮領の欝陵島であった事実を明かにしている。北澤正誠は、その事実を『竹島考証』の巻末で、「今日ノ松島ハ即チ元禄十二年称スル所ノ竹島ニシテ古来我版図外ノ地タルヤ知ルヘシ」としたのである。「松島開拓願」を日本の朝鮮半島侵略の橋頭堡とするソ・インウォン氏の臆説には、何ら根拠がなかったのである。

 それをソ・インウォン氏は、参照した『竹島考証』の中で、「松島開拓願」の松島を朝鮮領の欝陵島としていた事実を隠蔽し、「松島開拓願」を日本による朝鮮侵略の証拠とするなど、虚偽の歴史を捏造していたのである。

 この自説にとって不都合な事実を隠蔽する傾向は、韓国側が歴史認識問題と称する論稿の中に多く散見する。それはソ・インウォン氏による次の「無主地先占」批判でも、繰り返されていたのである。

 

2. ソ・インウォン氏が批判した「無主地先占」

 独島を無批判に韓国領とするソ・インウォン氏は、「松島開拓願」を日本による朝鮮侵略の橋頭堡とするため、北澤正誠の『竹島考証』を曲解して、自説にとって不都合な事実を隠蔽していした。そのソ・インウォン氏が次に批判したのが明治38年1月28日、明治政府が竹島を日本領に編入した「閣議決定」で、「他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク」、「国際法上占領ノ事実アルモノト認メ之ヲ本邦所属」とした、「無主地先占」である。

 ソ・インウォン氏によると、「無主地先占」は「窮余の策」で、明治政府は「独島を無主の地として先占して領土編入を試み、無主地の開拓という名分で朝鮮を侵略しようとした」のだという。そしてその「無主地先占」論は、「露日戦争に備えて独島を軍事戦略的要衝の地として利用するため、独島を無主の地として積極的に広報して、独島を編入するために努力した」黒龍会から始まったとしている。

 しかし明治政府が竹島を日本領に編入する際、竹島を「無主地」とし、先占したのは、当時、竹島はどこの国にも属していなかったからである。

 これに対して韓国側では明治33年(1900年)10月、欝陵島が欝島郡に昇格した時に、独島(竹島)も韓国領になった、というのである。韓国側が、独島(竹島)は「無主の地」でなかったとする理由がここにある。その根拠とされたのが、『勅令第41号』に規定された欝島郡の行政区域(「鬱島全島と竹島、石島」)である。韓国側では、その中の石島こそが独島に違いなく、独島は1900年に韓国領になったと主張するのである。

 だがそれは不自然である。欝陵島の疆域を描いた欝陵島捜討使朴錫昌の『欝陵島図形』(1711年作成)をはじめ、欝陵島地図には独島(竹島)が描かれていないからだ。これは1882年、高宗の命で欝陵島に渡った検察使李奎遠の『欝陵島外図』も同様であった。そこには欝陵島の属島として竹島(竹嶼)と島項があるのみで、独島は描かれていない。

 この李奎遠の『欝陵島外図』は1883年、欝陵島で木材の伐採をしていた日本人を連れ戻す際、欝陵島に渡った内務少書記官の檜垣直枝が復命した欝陵島の地図に踏襲され、欝陵島像は日韓で共有されていた。当然、檜垣直枝の地図には、独島(竹島)は描かれていない。

 この欝陵島像は1900年、内部視察官欝陵島視察委員の禹用鼎が釜山の領事官補の赤塚正助とともに欝陵島を共同調査した際、赤塚正助の復命書に付された欝陵島の地図でも踏襲されている。そこに描かれていた欝陵島の属島は竹島(竹嶼)と島項、孔岩の三島である。

 『勅令第41号』で鬱島郡の行政区域を「欝陵全島と竹島、石島」としたのは、禹用鼎と赤塚正助等による欝陵島の共同調査後である。大韓帝国では、禹用鼎の報告に基づき、欝陵島を郡に昇格させるが、その「請議書」では欝陵島の疆域を「該地方は縦八十里、横五十里」と明記していた。欝陵島の疆域を「縦八十里、横五十里」とする数字は、朴錫昌の『欝陵島図形』に由来しており、その中に独島(竹島)は含まれていない。

 では勅令の中の石島は、どこの島を指していたのだろうか。隆熙四年刊の『韓国水産誌』第二輯を見ると、鬱島郡には属島として竹嶼・鼠項島・孔岩があるという。この内、竹嶼は欝陵島の東約2キロの竹島、鼠項島は漢音ではなく韓国語の音を漢字で借音して表記されている。これを漢語で表記するには反切を用いればよい。そこで反切として、鼠項島の鼠項を一字にすると、鼠項(somoku)はsoku(石)となり、(鼠項)島の漢語表記は(石)島となる。『勅令第41号』の行政区域は、「欝陵全島と竹島、石島」と漢音で表記されていたが、その中の石島は、韓国語の音を漢字で借音した鼠項島を漢字音に直したもので、独島ではなかったのである。

 ソ・インウォン氏は、明治政府が竹島を無主の地としたのは「窮余の策」だとし、「無主地の開拓という名分で朝鮮を侵略しようとした」と断じたが、それは詭弁である。韓国側では『勅令第41号』で鬱島郡の行政区域とされた石島を独島とし、独島は1900年に韓国領になったとしてきた。だがその石島は、1882年の李圭遠の『欝陵島外図』で島項とされ、『韓国水産誌』では鼠項島とされた観音島のことで、独島(竹島)ではなかったのである。

 明治38年(1905年)1月28日、閣議決定で「他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク」、「国際法上占領ノ事実アルモノト認メ之ヲ本邦所属」としたのは、竹島は欝陵島の属島ではなく「無主の地」だったからである。独島は韓国領ではなかったのである。

 ソ・インウォン氏の論稿は、独島を韓国領とする前提で立論しているが、その前に、独島が歴史的に韓国領であった事実を論証しておくべきであった。それを怠ったソ・インウォン氏の論稿は結局、虚偽の歴史を捏造した妄誕無稽の臆説とならざるを得ないのである。

 

(下條正男)


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