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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第56回

1.韓国による荒唐無稽な「東海併記」要求

 日韓の間では、日本海の呼称を巡る確執が続いている。それは1992年、第6回の国連地名標準化会議の席上、韓国が日本海を韓国側の呼称である東海に換えるべきだと異議を唱えたことからはじまった。その背景にあったのが、1954年以来、韓国が占拠する竹島(韓国名、独島)の領有権問題である。竹島は1905年、国際法に基づいて日本領となっていた。その竹島を韓国側が侵奪するのは、敗戦国日本が「サンフランシスコ講和条約」の発効によって、国際社会に復帰する三か月前である。韓国が東海に固執するのは、竹島の占拠を正当化するための外交カードとしているからである。

 韓国側の主張によると、竹島の名称は独島が正しく、その独島が日本海の中にあるのは、日本の領土のようで不適切である。だから日本海は、韓国古来の呼称である東海に換えるべきだ。それに日本海の呼称が『大洋と海の境界』に記載された1929年当時、韓国は日本の統治下にあった。そのため韓国は、東海を主張する機会がなかった。その過去の歴史は、清算されなければならない。これが韓国側の論理である。

 そのため韓国の教育現場では、竹島と日本海の呼称問題とが結び付けられ、「東海の呼称は2000年間使用されてきた」と教えられている。その論拠にされたのが『新増東国輿地勝覧』所収の「八道総図」と『三国史記』(「高句麗本紀」)である。

 だが「八道総図」の東海は、内陸部に表記されていて、日本海とは重なっていない【写真1】。これは結論からいうと、「八道総図」の東海は、日本海とは関係がなかったということである。

新増東国輿地勝覧の東海の画像

【写真1】『新増東国輿地勝覧』(「八道総図」)の東海

 

東海神廟の画像

【写真2】東海神廟(1993年に襄陽市が再建)(襄陽市文化院より引用)

 

 東海が日本海でなかった事実は、『新増東国輿地勝覧』の跋文でも確認ができる。そこでは、「巻首の総図は、祀典に載せられた嶽●(●は「さんずいに賣」)及び名山大川」を記した、としているからだ。「八道総図」に描かれているのは、国家が祭祀の対象を定めた『祀典』に載せられた「嶽●(●は「さんずいに賣」)山川」等で、「東海」もその一つである。その中で「嶽」は霊験あらたかな山岳、「●(●は「さんずいに賣」)」は大きな川のことである。

 この自然を神として祀る伝統は新羅の時代からあり、高麗時代と朝鮮時代でも継承されていた。「八道総図」に描かれた東海は、四海(東海、西海、南海、北海)の一つであるが、その「東海」は、「八道総図」では内陸部に表記されている。これは「西海」と「南海」も同様で、何れも表記されている所は内陸である。

 では「八道総図」に描かれた東海は、何を示していたのだろうか。これを『新増東国輿地勝覧』で確認すると、「襄陽都護府条」の「祠廟」の項には、「東海神祠」とした記述があり、春秋の二季、祭祀を行ったとしている。【写真2】

 この事実は、「八道総図」にある東海は、襄陽に鎮座する「東海神祠」のことで、日本海とは関係のない宗教施設を示していたのである。それは「八道総図」に描かれた西海と南海も同様で、そこには「西海神祠」と「南海神祠」が鎮座していた。

 それに「八道総図」の東海には、もう一つ別の意味があった。それは世祖二年(1457年)三月、梁誠之が「東南西海神祠、皆開城により定まる。また方位、乖(もと)る」としたように、四海には「神祠」の他に、方位の概念があったのである。

 ここで梁誠之が「開城より定まる」としているのは、朝鮮となっても「東南西海神祠」は前代の高麗の首都(開城)を基準としているので、これを朝鮮王朝としては改めるべきだとしていたのである。それに梁誠之はこの時、鴨緑江上流の甲山に「北海神祠」を設置すべきだとしている。この「北海神祠」が設置される鴨緑江の上流は内陸にあって、「北海神祠」の北海は海とは関係がない。「八道総図」の東海を日本海とすることは、できないのである。

 ではその東海を海洋として理解した場合、どこまでが東海の範囲だったのだろうか。それについて、『新増東国輿地勝覧』の跋文では、「八道の各図、則ち州県の鎮山その四至四倒を録す」としている。この「八道の各図」は、『新増東国輿地勝覧』に収録された八つの行政区域(道)の地誌の巻頭に付された地図のことで、そこには地方官が管轄する区域の「四至四倒」(境界)が、表示されている。

 そこで「東海神祠」が鎮座する「江原道」の地図を確認すると、地図の外廓には「北抵咸鏡道界」、「南抵忠清道界」等の表記がある。これは隣接する咸鏡道と忠清道との境界を示したもので、海洋の境界に関しては「東抵大海」、「東北抵大海」と表記されている。【写真3】

新増東国輿地勝覧の東抵大海の画像

【写真3】『新増東国輿地勝覧』(「江原道図」)の東抵大海

 

 この「東抵大海」は、「東、大海に抵(至)る」と読み、江原道の沿海の外には「大海」が拡がっているという意味で、沿海と外洋(大海)を区別して、「大海」を境界の外としているのである。これと同じ事例は、海が東側に面している咸鏡道と慶尚道でも確認できる。「咸鏡道図」と「慶尚道図」でも「東抵大海」と表記されているからだ。

 この沿海と大海を区別するのは、「西海」と「南海」も同様であった。「西海」の場合は、「西抵大海」(西、大海に至る)とし、「南海」では「南抵大海」(南、大海に至る)としている。いずれも沿海の外側には、大海が存在している。これを現在の朝鮮半島に当てはめてみると、「西抵大海」の大海は現在の黄海となり、「南低大海」の大海は東シナ海となる。すると「東抵大海」の大海は、日本海になるのである。これは朝鮮時代には、沿海と外洋を区別して、東海を沿海として認識していたということである。

 すると誰もが疑問に思うことがある。それは韓国側ではなぜ、黄海を西海とし、東シナ海を南海として、その修正または併記を求めないのかということである。結論から言えば、黄海や東シナ海には、独島(竹島)が存在しないからである。【画像4】

韓国の独島教育の副読本の画像

【画像4】韓国の独島教育の副読本『独島を正しく知る』の一部。

日本海を東海とし、東シナ海を南海としている。

 

『大海と海の境界』の一部の画像

【画像5】『大海と海の境界』の一部(海上保安庁のホームページから引用)

 

 それに韓国側は、朝鮮時代から日本の統治時代となっても、沿海と外洋を区別する伝統が存在したという事実を隠しているのである。

 それを端的に示しているのが、民族主義運動家の朴殷植が刊行した『韓国痛史』の記述である。朴殷植は、韓国の地理的な徴特を伝える際に、次のように記していたからである。

 「その境界、東、蒼海に濱って日本海を隔て、西、黄海に臨んで中国の山東江蘇二省に対す」(韓国の境界は、東側では沿海にあたる蒼海に沿って日本海を隔て、西側は、黄海に臨んで中国の山東省や江蘇省と対峙している)

 これは朝鮮半島の東側は、滄海という沿海部分があり、さらにその先には日本海がある、という意味である。この『韓国痛史』の刊行は、民国四年(1915年)である。1929年に『大洋と海の境界』【画像5】が出版される十四年前のことである。朴殷植は、沿海(蒼海)と日本海を区別していたのである。それを韓国側では、東海の名称を『大洋と海の境界』に記載できなかった理由を日本の韓国統治に結びつけて、過去の清算を求める歴史問題としていたのである。だがその論理には、根拠がなかったのである。

 では韓国側が、日本海は「二千年前から東海と呼ばれていた」とするもう一つの東海は、どこの東海を指していたのであろうか。

2.『三国史記』「高句麗本紀」の東海

 韓国側が「二千年前から東海と呼ばれていた」とする根拠は、『三国史記』(「高句麗本紀」)の「始祖東明聖王条」に、「東海の濱(ほとり)」とした記述があるからである。

 だがその前に、高句麗の歴史が韓国の歴史であったのか、確認しておく必要がある。それは現在、高句麗史を韓国の歴史とするか中国の歴史とするかを巡って、韓中が「高句麗史論争」を続けているからである。韓国としては高麗時代に編纂された『三国史記』に、高句麗の歴史が記載されているので、当然、韓国の歴史としている。だが中国では、高句麗を中国の一地方政権とみており、いまだ「高句麗史論争」は決着していないからだ。

 韓国側では『三国史記』(「高句麗本紀」)に依拠して、日本海は「二千年前から東海と呼ばれていた」としてきたが、その論理は確証があってのことではない。「東海の濱」の東海は、中国の「東海」(渤海及び黄海)の可能性もあるからだ。それに歴史的事実として、韓国側の文献に登場する東海には、朝鮮半島の沿海部分としての東海と、中国の東海(渤海及び黄海)の二つがあったからである。

 その事実は、朝鮮半島では自国を「東国」、「海東」、「大東」等と称してきた歴史でも確認できる。これは中国の東海を基準として、韓国が東方に位置するからで、朝鮮時代初期の『龍飛御天歌』では、「海東」を次のように解釈している。

 「四海の外、皆また海あり。東海の別に渤海あり。ゆえに東海、渤海と共称す。また通じてこれを滄海という。我が国は渤海の東にあり。ゆえに海東という。」

 これは伝統的に朝鮮半島には、二つの「東海」があったということである。では『三国史記』の東海は、どちらの東海だったのであろうか。

 「東海の濱」が登場するのは、『三国史記』(「高句麗本紀」)の「始祖東明聖王」条である。それは高句麗の建国に関する記事で、高句麗が版図を南方に拡大し、その際、遷都の適地とされたのが「東海の濱(ほとり)」である。そこで中国の史書によって、高句麗が建国した当時の近隣諸国との位置関係を確認してみると、そこには「高句麗国、遼東千里にあり。南は朝鮮・●貊(●は「さんずいに歳の旧字体」)に接し、東は沃沮に接して、北は夫餘に接する」とした記述がある。

 この記述によると、遼東千里の高句麗の東側には沃沮があって、高句麗は日本海とは接していないことが分かる。また「南は朝鮮・●貊(●は「さんずいに歳の旧字体」)」、「東は沃沮」、「北は夫餘」とした位置関係からすると、高句麗が海に面していたとすれば、それは高句麗の西側だということである。『三国史記』(「高句麗本紀」)の「東海の濱(ほとり)」は、日本海ではなく、中国の東海(渤海と黄海)のことである。韓国側が「二千年前から東海と呼ばれていた」とする東海は、中国の東海のことで、韓国側が日本海を東海とするために掲げた証拠は、何れも日本海とは関係がなかったのである。

 韓国側が日本海の呼称を問題にし、それを歴史問題に結び付けて日本批判を続けるのは、占拠した竹島(韓国名、独島)を死守するための戦略である。

 そのため韓国側ではこれまで米国のバージニア州議会の議員や元国連地名専門家会議の議長等の協力を得て、東海併記を推進してきた。だが竹島が韓国領でなかったように、韓国側が異議を唱えた東海も、日本海とは関係がなかったのである。韓国は、これまでも国際水路機関や国連の地名標準化会議を舞台に、「日本海」の呼称を問題としてきたが、それは韓国が占拠する竹島の正当性を主張するための政治的活動でしかなかった。国際水路機関が、これ以上、韓国の野望に加担する必要はないのである。

 

(下條正男)


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