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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第46回

シン・ヨンハ教授の荒唐無稽な独島講義とイ・ヂンミョン教授の奇抜な論理

 韓国のSBS放送は2015年11月20日、「人文学特講-韓国人、我々は誰なのか」をテーマに、シン・ヨンハ(慎●[部首:かねへんに庸]廈)教授による独島講義を放映した。また『日本古地図選集』を刊行した韓国の社団法人「我が文化を育てる会」も同日、記者懇談会を開いて、林子平の『三国接壌図』を模写補筆した『大三国之図』等を紹介していた。その記者懇談会の席上、編纂委員長のイ・ヂンミョン(李鎮明)教授は、「この島(独島)を日本の領土と表記せず、韓国の領土と表記しているということだ。『大三国之図』には竹嶋と松嶋が描かれ、そこに「朝鮮ノ持也」とした注記があるので、それを、地図を通じて立証」しているとして、『大三国之図』は「日本が自ら竹島を韓国領と記録していた」証拠であると強調した。だがそれは『大三国之図』に描かれた松嶋を今日の竹島と解釈しただけのことで、他に確証があってのことではない。

 またシン・ヨンハ教授の独島講義も、プロパガンダの範疇にあった。それは本来伝えるべき歴史的事実を隠し、自説に都合よく文献を解釈していたからだ。そこで前半では、シン・ヨンハ教授による独島講義の問題点を指摘し、後半では、『大三国之図』を恣意的に解釈したイ・ヂンミョン教授の誤謬を明らかにすることにした。

 

(1)シン・ヨンハ教授の独島講義

 シン・ヨンハ教授の独島講義は、次の五部で構成されている。1「我が国の歴史にあらわれた証拠」、2「日本の歴史にあらわれた証拠」、3「日本の歴史にあらわれた証拠2」、4「日本の独島侵奪野心」、5「光復と独島領土主権の回復」。この構成を見ると、シン・ヨンハ教授の意図は明瞭である。シン・ヨンハ教授が独島講義を通じて強調したかったのは、次の二点である。まず第一点、日本は、韓国領の独島(竹島)に対して、領土的野心を持っている。第二点、それは、戦後、韓国が独島の領土主権を回復した事実を否定するもので、非は日本側にある。

 そこでシン・ヨンハ教授は、「日本の独島侵奪野心」を聴衆に印象付けるため、種々の演出を行っている。それは放送の冒頭から、「日本は1952年から強力に独島を自国の領土と論争をし始めた」とするナレーションが流され、シン・ヨンハ教授も「日本は1952年から、事実、その前の51年から、そして本格的には52年から強力に独島を自国の領土と主張しながら、論戦をしてきた」として、日本側の領土的野心を強調することから講義を始めているからだ。

 だがここには、肝心な歴史の事実が隠されていた。それは竹島が1905年1月28日の閣議決定によって、日本領になっていたという事実である。それを1952年1月18日、突如、公海上に「李承晩ライン」を設定し、竹島をその中に含めてしまったのが韓国政府だという事実である。それも4月28日に「サンフランシスコ講和条約」が発効し、敗戦国日本が国際社会に復帰する三ヶ月前であった。韓国政府はその間隙を衝いて竹島を韓国領とし、1954年9月には、竹島を武力占拠してしまったのである。日本の領土の一部が侵奪され、国家主権が侵された以上、日本政府が竹島の領有権を主張するのは当然であった。それをシン・ヨンハ教授は「日本の独島侵奪野心」とし、独島(竹島)を虎視眈々と狙っているのは日本側としているが、それは本末転倒の論理である。

 そこでシン・ヨンハ教授は、独島(竹島)が韓国領である証拠として、『三国史記』をはじめ『世宗実録』「地理志」、『東国輿地勝覧』、『新増東国輿地勝覧』、『粛宗実録』、『萬機要覧』「軍政編」を列挙し、あたかも独島の歴史的権原が韓国側に属しているように装ったのである。その第一弾が、『三国史記』(「新羅本紀」)の「智証王十三年夏六月」条を根拠として、独島は512年から韓国領であったとする論理である。だが「智証王十三年夏六月」条には「于山国帰服」とあるだけで、独島(竹島)に関する記述はない。そこでシン・ヨンハ教授を含め、韓国側では、独島が于山国の属島であった証拠として、次のような論理を捏造したのである。

 

 「その領域は、可視距離内に位置する独島を含む鬱陵島周辺のすべての小島嶼を含んでいる。すなわち、独島は鬱陵島の付属島嶼として、西暦512年(智證王13年)に鬱陵島が新羅に降伏するに従って新羅の領土となり、朝鮮半島の歴史と文化圏内に編入されることになったのである。」

 

 これは韓国の「東北アジア歴史財団」のサイトに掲載された『三国史記』(「新羅本紀」)に関する解説であるが、独島講義をしたシン・ヨンハ教授も同じ趣旨の説明をしていた。その際、論拠にされたのが、独島は欝陵島の「可視距離内に位置する」とした地理的与件である。

 だが『三国史記』(「智証王十三年夏六月」条)には、竹島が欝陵島の「可視距離内に位置する」とした記述はない。では何故、「可視距離内」といった地理的与件が、独島を欝陵島の属島とする論拠にされたのか。それは実際に、独島が欝陵島から「見える」からである。そこで韓国側ではその事実を実証するため、『世宗実録』「地理志」(「蔚珍県」条)と『新増東国輿地勝覧』(「蔚珍県」条)にある「見える」を、欝陵島から竹島が「見える」と解釈し、それを根拠としたのである。

 だが地理的与件を根拠に、文献を解釈するのは本末転倒である。それは日本と朝鮮が欝陵島の帰属を巡って争った17世紀末、朝鮮側では『新増東国輿地勝覧』の「見える」を朝鮮半島から欝陵島が「見える」と読んで、欝陵島を朝鮮領とする論拠としていたからである。『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』の「見える」は、朝鮮半島から欝陵島が「見える」と読まなければならないのである。韓国側では「可視距離内」といった論拠を捏造して、文献を恣意的に解釈していたのである。

 だがこの「可視距離内」に限らず、韓国側の史料操作には不可解な部分が多いようである。シン・ヨンハ教授は、独島を韓国領とする論拠として『世宗実録』「地理志」、『東国輿地勝覧』、『新増東国輿地勝覧』、『粛宗実録』、『萬機要覧』「軍政編」を列挙し、中でも「『世宗実録』「地理志」には、極めて重要な記録」があるとしているからだ。だが『世宗実録』「地理志」は官撰の地誌としては稿本の段階にあり、朝鮮時代の官撰地誌で最も権威があったのは『新増東国輿地勝覧』である。その『新増東国輿地勝覧』(「蔚珍県」条)で、「見える」を朝鮮半島から欝陵島が「見える」としていれば、『世宗実録』「地理志」の「見える」もまた、朝鮮半島から欝陵島が「見える」としていたのである。それをシン・ヨンハ教授は、「『世宗実録』「地理志」には、極めて重要な記録」がある、としたのである。シン・ヨンハ教授の史料操作には、朝鮮史研究の基本を逸脱する傾向がみられるのである。

 その典型が、『粛宗実録』と『萬機要覧』「軍政編」を根拠に、独島を韓国領とする論理である。確かに『粛宗実録』(「粛宗二十二年九月戊寅条」)には、「欝陵島と松島が朝鮮領になった」とする記述があるが、それは鳥取藩に密航した安龍福の供述である。罪人の証言を、文献批判もせずに事実とすることはできないのである。

 だがシン・ヨンハ教授は、安龍福の供述に無批判に依拠し、「安龍福は伯耆州太守の前でもそうで、今の東京に行って日本の幕府の将軍と関白の前でも、淡々と欝陵島と独島は朝鮮領だと説明」したとし、それが「三年後、1696年1月28日の会議で遂に欝陵島と独島は朝鮮の領土と確認し」、「江戸幕府は欝陵島への渡海を禁じた」のだ、としたのである。

 しかし江戸幕府が欝陵島への渡海禁止を決定したのは、安龍福が日本に密航する4か月ほど前で、それは鳥取藩にも伝えられていた。それに渡海禁止の措置は、欝陵島の帰属を巡り、朝鮮側との交渉に臨んでいた対馬藩からの現状報告に基づいていた。江戸幕府が欝陵島への渡海を禁止した事実と、安龍福の密航事件とは関係がなかったのである。

 シン・ヨンハ教授は、安龍福が「日本の幕府の将軍と関白の前でも、淡々と欝陵島と独島は朝鮮領だと説明」した結果、幕府が欝陵島への渡海禁止を決定したとするが、安龍福は江戸には行っておらず、鳥取藩主と直接交渉した事実もなかった。安龍福は、鳥取藩に密航した理由について、欝陵島で日本の漁民と遭遇し、それを追って隠岐に漂着したと供述しているが、鳥取藩米子の大谷・村川家に与えられていた欝陵島への渡海免許は、欝陵島への渡海禁止とともに、鳥取藩を通じて幕府に返却されていたからだ。

 歴史の事実として、確かに安龍福は1696年6月、鳥取藩領内に密航してきた。だが鳥取藩主と直接交渉し、欝陵島と独島(竹島)を朝鮮の領土としたとする安龍福の供述は、偽証だったのである。それは「東北アジア歴史財団」が刊行した『欝陵島・独島日本史料1』所収の『因幡国江朝鮮人致渡海候付豊後守様へ御伺被成候次第并御返答之趣其外始終之覚書』によって確認ができる。その覚書は、鳥取藩に密航してきた安龍福の処遇とその経緯を略述したもので、そこには鳥取藩に対し、江戸幕府が安龍福を長崎に送るか追放するよう指示した事実が記録されている。鳥取藩は、幕府の指示に沿って安龍福を追放していたのである。鳥取藩主と直談判し、欝陵島と竹島を朝鮮領にしたとする安龍福の証言は、虚言だったのである。この事実については、「東北アジア歴史財団」が熟知しているはずである。

 しかし残念なことに、史料操作を誤り、文献批判を怠ったシン・ヨンハ教授には、安龍福の嘘を見破れなかった。そのためシン・ヨンハ教授の安龍福に関する講義内容は、シン・ヨンハ教授が二十年ほど前に出版した『独島の民族領土史研究』のままなのである。

 だが安龍福の嘘を見抜けなかったのは、シン・ヨンハ教授だけではなかった。安龍福による偽りの証言は、18世紀頃からすでに影響力を発揮していたからである。安龍福は「松島即于山島。此亦我国地」と供述し、于山島は倭の松島(現在の竹島)だとしているが、それが1770年に編纂された『東国文献備考』(「輿地考」)にも採られていたからである。その官撰の『東国文献備考』(「輿地考」)の分註で、「輿地志に云う、欝陵于山皆于山国の地。于山則ち倭の所謂松島なり」とされたため、韓国側ではその分註を根拠に、于山島を松島(現在の竹島)とし、その于山島を于山国(欝陵島)の属島として、竹島は512年から韓国領になったとしてきた。

 だが『東国文献備考』(「輿地考」)の分註に引用された『東国輿地志』の原典を確認すると、そこには「一説、于山欝陵本一島」とあるだけである。『東国文献備考』(「輿地考」)の分註は、「松島即于山島。此亦我国地」とした安龍福の偽証に盲従した編者等が、『東国文献備考』(「輿地考」)を編纂する際に、「欝陵于山皆于山国の地。于山則ち倭の所謂松島なり」と改竄されていたのである。

 そのため、近年、韓国側では『東国文献備考』(「輿地考」)の分註を根拠としなくなった。そこでシン・ヨンハ教授は、独島特講で次のような看板の書き換えをしていたのである。

 

 「我々の官撰資料を見れば、『世宗実録』「地理志」、『東国輿地勝覧』、『新増東国輿地勝覧』、『粛宗実録』、『萬機要覧』「軍政編」」等で、「欝陵島と于山島がすべて于山国の領土であったと記録している。特に『萬機要覧』「軍政編」では…」

 

 ここでシン・ヨンハ教授が『東国文献備考』(「輿地考」)を外して、「特に『萬機要覧』「軍政編」では…」としたのには理由があった。『萬機要覧』「軍政編」にも、「輿地志に云う、欝陵于山皆于山国の地。于山則ち倭の所謂松島なり」とした記述があるからである。

 だが『萬機要覧』「軍政編」には、証拠能力がないのである。『萬機要覧』(「軍政編」四、「関防」)の当該記事は、『東国文献備考』(「輿地考」)を引用したものだからである。シン・ヨンハ教授はその不都合な事実を隠し、『東国文献備考』に代えて『萬機要覧』を使い、看板の書き換えをしていたのである。これは羊頭狗肉の見本である。

 竹島問題の解決が難しいのは、シン・ヨンハ教授のように根拠のない文献や古地図を掲げては聴衆を幻惑し、独島は「200%韓国の領土だ」と錯覚する人士が後を絶たないからである。

(2)イ・ヂンミョン教授の奇妙な論理

 シン・ヨンハ教授と同様、羊頭を掲げ、狗肉を売っていたのがイ・ヂンミョン教授である。『日本古地図選集』の編纂委員長でもあるイ・ヂンミョン教授は、12月2日付のハンギョレ新聞(電子版)とのインタビューで、次のように語っているからである。

 「この地図を見つけ出すことができなければ、恐らく今回、『日本古地図選集』三部作発刊プロジェクトはなかった。すなわちイ・フンソク理事が昨年、日本で購入してきた『大三国之図』で、この地図は印刷本ではなく、描いたもので一つしかないものだ。日本や中国にもないものだ。独島が日本の固有の領土という主張が虚構であることを明白に示している重要な資料だ。」

 イ・ヂンミョン教授が『大三国之図』を重視するのは、林子平が島名を記さなかった『三国接壌之図』の小島を松嶋としていたからである。だが『大三国之図』は、イ・ヂンミョン教授も自ら「一つしかないもの」としているように、『三国接壌之図』を模写した古地図としては例外に属している。そのため『大三国之図』で「松嶋」とされた小島が、実際に現在の竹島であったのか、検証する必要があった。それをイ・ヂンミョン教授は、その一つしかない『大三国之図』を根拠に、「独島が日本の固有の領土という主張が虚構である」としたのである。このイ・ヂンミョン教授の史料操作が杜撰だったことは、言うまでもない。本来なら、林子平が描いた小島が松嶋(竹島)であった事実を実証した後、『大三国之図』を傍証として「松嶋」を使うのが順序だからだ。それをイ・ヂンミョン教授は、逆に『大三国之図』に依拠して、林子平が欝陵島の右上の小島を「松嶋」としていた証拠としたのである。このイ・ヂンミョン教授の論理は、欝陵島から独島が「見える」地理的与件を根拠に、『世宗実録』「地理志」や『新増東国輿地勝覧』の「見える」を解釈したシン・ヨンハ教授の論理とも近似している。史料操作に問題があるのは、韓国側に共通した課題である。

 11月20日の記者懇談会では、ヤン・ボギョン誠信女子大学教授も、『大三国之図』の「大きな島が欝陵島で、小さな島が独島だ。右側の横に記された文字が日本語で朝鮮のもの」としただけで、その小さな島がなぜ「独島」なのか、根拠を示していなかった。社団法人「我が文化を育てる会」の関係者は、江戸時代、日本では竹島を松嶋と呼称していたという理由だけで、『大三国之図』の「松嶋」を竹島としていたのである。

 だが「第42回、実事求是」でも明らかにしたように、『大三国之図』には、『三国接壌之図』に描かれた小島を竹島とする証拠能力がないのである。社団法人「我が文化を育てる会」の関係者は、『大三国之図』を『三国接壌之図』を修正、補完したものと強調するが、『大三国之図』の付記はいずれも『三国通覧図説』の記事の抜書きで、補完や修正とは言えない。それに『三国接壌之図』を模写した古地図の中で、欝陵島の右上の小島を「松嶋」としたのは『大三国之図』だけである。この例外的な古地図を根拠に、あまた流布する『三国接壌之図』に、竹島が描かれていたとすることはできない。それに林子平は、最初から『三国接壌之図』の中に、松島(現在の竹島)を描いていなかったからである。

 林子平の『三国接壌之図』は、長久保赤水の『日本輿地路程全図』を中心に置き、そこに「朝鮮国之図」、「琉球国之図」、「蝦夷国之図」、「無人島之図」の四図を繋ぎ合せて作図されていた。それは林子平が『三国通覧図説』の中で、「此数国ノ図ハ小子敢テ杜撰スルニアラズ」としている通りである。

 これは『三国接壌之図』に描かれた朝鮮半島や欝陵島には、それぞれ典拠があったということなのである。その中で朝鮮半島の全域は、『三国通覧図説』の付図の一つである「朝鮮国之図」に由来している。『三国接壌之図』に描かれた朝鮮半島と、「朝鮮国之図」に描かれた朝鮮半島の形状がほぼ同じだからである。

 だが『三国接壌之図』には、二つの欝陵島が描かれているのである。これは「朝鮮国之図」とは別の地図に依拠して、欝陵島が描かれていたということである。そのもう一つの欝陵島は、長久保赤水の『日本輿地路程全図』に由来する欝陵島である。『日本輿地路程全図』には「見高麗猶雲州望隠州」とした付記があり、『三国接壌之図』でも「此嶋ヨリ隠州ヲ望ム/又朝鮮ヲモ見ル」としてその付記が踏襲されているからだ。

 従って、林子平が「朝鮮ノ持也」とした欝陵島は、長久保赤水の『日本輿地路程全図』が基になっている。だが林子平は、『日本輿地路程全図』をそのまま踏襲していたわけではなく、『日本輿地路程全図』に由来する欝陵島に、修正を施していた。それが欝陵島の右上に新たに小島を書き加え、『日本輿地路程全図』にあった松島を削除したことである。

 これは『三国接壌之図』を作図する過程で、林子平が別の欝陵島地図を参照していたと言うことである。その新たな欝陵島地図の存在と松島を削除した事実を裏付けているのが、林子平の『日本遠近外国之全図』である。この『日本遠近外国之全図』は、『三国接壌之図』の原図ともいえる地図で、そこには「竹シマ」(欝陵島)だけが描かれており、「朝鮮ノ持」とした表記がなされている。これは欝陵島を日本領と認識していた長久保赤水とは違って、林子平には「竹シマ」を朝鮮領とする知見があったということである。では林子平はその知識をどこで得ていたのだろうか。

 それは『三国通覧図説』の中で、「安永年中小子肥前ノ鎮台館ニ遊事シテ崎陽ニ至リ、和蘭人アヽレントウェルレヘイトニ会ス其地理書。セオガラーヒノ説ヲ談シテ」としているように、長崎ではオランダ商館長のアーレン・ウィリアム・フェイトとも出会い、オランダ通詞等との交流があったからである。林子平は、その地で「朝鮮大象胥ノ伝ル所ノモノ。崎陽人楢林氏秘蔵ノ珍図」の二種の朝鮮関連の地図に触れる機会があったのであろう。

 それを暗示する記述が、『日本遠近外国之全図』の付記の中にある。そこには「朝ノ全図ハ対州ノ大象胥ノ伝ル所也」とし、朝鮮半島の全図は、対馬藩の通詞が伝えたものとしているからである。その「朝ノ全図」は『三国通覧図説』所収の「朝鮮国之図」のことであろう。

 だがそれだけでは、林子平が松島(竹島)を削除して欝陵島の右上に小島を描き、「朝鮮ノ持也」とした理由が説明できない。『日本輿地路程全図』を基本として、林子平が『日本遠近外国之全図』を作図する際に、竹島(欝陵島)だけを残すことになった地図が存在していたはずである。それは林子平が『三国通覧図説』の中で、「朝鮮大象胥ノ伝ル所ノモノ。崎陽人楢林氏秘蔵ノ珍図」とした、「崎陽人楢林氏秘蔵ノ珍図」であろう。

 その「崎陽人楢林氏秘蔵ノ珍図」について、現時点ではどのような地図であったのか明らかにできないが、朝鮮側の欝陵島地図であったとみてよいであろう。日本側には、『三国接壌之図』に描かれたような欝陵島の形状をした地図が確認できないからある。

 そこで当時、朝鮮半島で流布していた欝陵島の地図を確認すると、欝陵島が描かれているのは『新増東国輿地勝覧』系統の地図と、朴錫昌が1711年に作図させた『欝陵島図形』に由来する地図である。その二つの系統の地図で『三国接壌之図』の欝陵島に近いのは、『欝陵島図形』系統の地図に描かれた欝陵島である。『欝陵島図形』系統の地図では、欝陵島の東二キロほどの位置に、今日の竹島とは無縁の于山島(竹嶼)が描かれているからである。

 この事実は、『三国接壌之図』に描かれた欝陵島は、『欝陵島図形』系統の地図に由来していたということになり、『三国接壌之図』に描かれた欝陵島附近の小島も、今日の竹島とは無縁の于山島(竹嶼)であったということになるのである。

 今回、『日本古地図選集』を刊行した韓国の社団法人「我が文化を育てる会」では、その林子平の『三国接壌之図』を模写した『大三国之図』を、「独島が日本の固有の領土という主張が虚構であることを明白に示している重要な資料」だとしている。

 だが長久保赤水の『日本輿地路程全図』を基にした林子平の『三国接壌之図』では、最初から「松嶋」を描いていなかったのである。それを『三国接壌之図』を模写した『大三国之図』では、『三国接壌之図』には描かれていなかったはずの「松嶋」の文字を書き込んで、「朝鮮ノ持也」としていたのである。

 『日本古地図選集』を刊行した韓国の社団法人「我が文化を育てる会」は、『三国接壌之図』を模写した『大三国之図』が、「松嶋」でもない小島を「松嶋」とした賢しらを、見抜くことができなかったのである。

 以上、シン・ヨンハ教授とイ・ヂンミョン教授の竹島研究を通観して明らかになったことは、独島(竹島)は歴史的にも地理的にも韓国の領土ではなかったという事実である。

(下條正男)


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