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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第42回

子平は竹島を「朝鮮ノ持也」とはしていなかった

 7月17日付の韓国中央日報一面トップは、「林子平(1738~93)が制作した1802年版『大三国之図』」が、独島を朝鮮領(「朝鮮ノ持也」)としていたとして、大々的に報じていた。この『大三国之図』に関連して、韓国東国大学の韓哲昊教授は、「これまで韓国と日本の学者達が『三国通覧輿地路程全図』の欝陵島(竹島)の横の島が独島かそうでないかを巡って熾烈に争ってきたが、今回、発掘された『大三国之図』でその間の論争に終止符」が打てるとし、「独島が自らの固有の領土であったとする日本の主張を全面的に反駁できる資料」とコメントした。だがそれは『大三国之図』を恣意的に解釈したもので、事実ではない。

 今回、『大三国之図』を公開した社団法人「我が文化を育てる会」も、「『大三国之図』はすでに学会で広く知られている林子平の1785年の地図『三国通覧輿地路程全図』を生前に修正、補完したもので、林子平の死後である1801年から1802年にかけて出版された」と解説しているが、多少とも林子平と『三国通覧輿地路程全図』に関心がある者からすれば、それは荒唐無稽な解釈である。

 『三国通覧輿地路程全図』を収録した林子平の『三国通覧図説』と『海国兵談』は1792年、江戸幕府の忌避に触れて版木を没収され、版元も処罰されている。林子平は1793年に没しており、その状況で「1801年から1802年にかけて出版」することは困難である。時代の要請で『海国兵談』が再刻されたのは、嘉永四年(1851年)である。

 社団法人「我が文化を育てる会」では、『大三国之図』は、林子平が「『三国通覧輿地路程全図』を生前に修正、補完したもの」と見ているが、事実は確認したのだろうか。中央日報紙上に公開された『大三国之図』(写真版)で見る限り、欝陵島の属島である竹嶼に松嶋と書き込まれたこと以外は、修正・補完の痕跡は認められないからだ。確かに『大三国之図』には、原図の『三国通覧輿地路程全図』にはない書き込みがなされている。だがそれは『三国通覧図説』の記事を『大三国之図』に書き込んだだけである。実物を見ていないので断言はできないが、この『大三国之図』は、『三国通覧輿地路程全図』を模写した後人が、『三国通覧図説』の記事を書き込んでいただけのようである。それを林子平が「生前に修正、補完したもの」とするのは、独断である。

 これは「『三国通覧輿地路程全図』の欝陵島(竹島)の横の島」を独島と決めつけた韓哲教授の判断も、独断だったことになる。後述するように、林子平は、最初から『三国通覧輿地路程全図』には、松島(現在の竹島)を描いていなかったからである。それを『三国通覧輿地路程全図』を模写した『大三国之図』では、後人の賢しらで、「欝陵島(竹島)の横の島」に、「松嶋」と書き加えてしまったのである。

 その後人の過失は、林子平の『三国通覧図説』で確認することができる。林子平は、『三国通覧輿地路程全図』(『三国接壌之図』)を作成する際、長久保赤水の『日本輿地路程全図』を中心に、そこに『朝鮮国之図』、『琉球国之図』、『蝦夷国之図』、『無人島之図』の四図を繋ぎ合せて、『三国接壌之図』を完成させていた。林子平自身、『三国通覧図説』の中で、「此数国ノ図ハ小子敢テ杜撰スルニアラズ」、「一モ私照ナシ」としているからだ。

 従って、『三国通覧輿地路程全図』に描かれた朝鮮半島や欝陵島には、それぞれ典拠があったのである。朝鮮半島は、『三国通覧図説』の付図である「朝鮮国之図」に由来し、竹島(欝陵島)に関しては長久保赤水の『日本輿地路程全図』が基になっている。それには竹島の下に記された、「此ノ嶋ヨリ隠州ヲ望又朝鮮ヲモ見ル」の注記が証左となる。

 これは『隠州視聴合記』(「国代記」)に従って、長久保赤水が竹島(欝陵島)を日本領と認識していたことを示す注記で、『日本輿地路程全図』では「見高麗猶雲州望隠州」(注1)と記されていた。

 だが林子平は、それを「竹島(欝陵島)からは朝鮮も見え、隠岐も見える」と意訳し、竹島(欝陵島)を日本領とした長久保赤水の見解を曖昧にしたのである。林子平は長久保赤水とは違って、竹島(欝陵島)を「朝鮮ノ持也」と認識していたからである。それを知ることができるのは、長久保赤水が『日本輿地路程全図』に描いた欝陵島と、林子平が『三国通覧輿地路程全図』に描いた欝陵島の形状が異なっている事実である。長久保赤水は『隠州視聴合記』の記述(注2)を参考に、竹島と松島の二島を描いていたが、林子平の『三国通覧輿地路程全図』では竹島(欝陵島)と隠岐の間にあった松島が消され、竹島(欝陵島)だけが描かれているからである。それも林子平の『三国通覧輿地路程全図』では、竹島(欝陵島)の北東に小島が描かれている。これは林子平が参考にした地図は、長久保赤水の『日本輿地路程全図』ではなかった、ということである。

 では林子平は、長久保赤水の『日本輿地路程全図』以外に、どのような地図を参考にしていたのだろうか。ヒントは『三国通覧図説』にある。その中で、林子平は「小子敢テ杜撰スルニアラズ」とした後に続いて、「朝鮮大象胥ノ伝ル所ノモノ。崎陽人楢林氏秘蔵ノ珍図アリ是ヲ以テ據トス」とし、二つの地図によって作図したとしているからである。

 この二つの地図の内、一つは『三国通覧図説』所収の「朝鮮国之図」で、『三国通覧輿地路程全図』に描かれた朝鮮半島の原型となった地図である。するともう一枚は、欝陵島だけを描いた地図ということになる。長久保赤水の『日本輿地路程全図』を基にした林子平の『三国通覧輿地路程全図』で、異なっていたのは欝陵島の形状だけだからである。

 では何故、林子平は「朝鮮大象胥ノ伝ル所ノモノ。崎陽人楢林氏秘蔵ノ珍図」を参考にすることができたのか。『三国通覧図説』の中で、林子平は「安永年中小子肥前ノ鎮台館ニ遊事シテ崎陽ニ至リ、和蘭人アヽレントウェルレヘイトニ会ス其地理書。セオガラーヒノ説ヲ談シテ」としているが、長崎ではオランダ商館長のアーレン・ウィリアム・フェイトとも出会い、オランダ通詞達との交流がなされていたからである。林子平は、そこで朝鮮の通詞が伝えた地図と、長崎のオランダ通詞楢林氏が秘蔵する珍図を見たのであろう。

 そしてそのいずれかの地図には、竹島の東側に小島が描かれていたのである。当時、朝鮮半島には『増補東国輿地勝覧』(「八道総図」)系統の地図と、朴昌の『欝陵島図形』に由来する『欝陵島図』が流布し、その『欝陵島図形』系統の地図では、欝陵島の東二キロほどの小島を「所謂于山島」としていたからである。以来、欝陵島の属島とされた于山島は竹嶼(テイソム)とも呼ばれるようになるが、今日の竹島とは全く関係がない。

 今回、発掘されたとする『大三国之図』が、林子平の『三国通覧輿地路程全図』を模写していたとすれば、中央日報が報じた「松嶋」は、『欝陵島図形』に由来する竹嶼でなければならない。何故なら林子平は、『三国通覧輿地路程全図』を作図する際に、竹島(欝陵島)のみを描いて、松嶋を描いていなかったからである。

 この『大三国之図』に関して、韓哲教授は「今回、発掘された『大三国之図』でその間の論争に終止符」が打てたとし、「独島が自らの固有の領土であったとする日本の主張を全面的に反駁できる資料」と、希望的観測を述べていた。だがそのような事実無根の解釈には、終止符を打ってもらわねばならない。林子平は竹島(独島)を「朝鮮ノ持也」とはしていなかったからである。

 この8月、社団法人「我が文化を育てる会」では、その『大三国之図』を含め『日本古地図選集』を発刊するという。その試みは、「欝陵島(竹島)の横の島(竹嶼)」に、「松嶋」と書き加えてしまった後人の賢しらと同類の浅知恵である。

(下條正男)

 


(注1)『隠州視聴合記』(「国代記」)には「見高麗如自雲州望隠州」とあったが、長久保赤水が『日本輿地路程全図』に引用する際に、漢文を簡潔にして「見高麗猶雲州望隠州」としたのである。

(注2)『隠州視聴合記』(「国代記」)には、「戌亥間行二日一夜、有松島。又一日程有竹島」(西北の間、行くこと二日一夜、松島あり。又一日の程で、竹島あり)とある。長久保赤水はそれを『日本輿地路程全図』に、描き入れたのである。


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