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新発見の米子・村川市兵衛所持写「竹嶋之図」について

はじめに

 島根県竹島問題研究会第4期の委員であった方から富山、石川県で資料調査をしていた折、石川県金沢市立玉川図書館に1000点を越す「本岡家文書」なるものが寄贈されており、その中に大谷家と共に江戸時代初期竹嶋(鬱陵島)へ70年余り渡海していた村川家が所持していた絵図の写しが含まれているという情報を得たことをご連絡いただいた。

 1000点もの膨大な史料なら、すでに地元の研究者等によって整理されている可能性があると推測してインターネットで検索してみると、やはり石川史書刊行会なる組織が昭和63年に『金沢市元町(旧河北郡大衆免村)本岡三郎家文書目録』という冊子にまとめて目録とし刊行され、現在でも入手可能なことがわかった。早速同目録を入手して事実を確認した上で竹島資料室のスタッフが金沢に出向き、玉川図書館の協力を得て注目の「竹嶋図」を写真撮影して帰り、目下関係者で分析、検討している。以下に判明した若干のことを報告してみたい。

 

1.金沢の本岡家について

 本岡家については『文書目録』の解説に、江戸時代から金沢の北部の大衆免村(だいしゅうめむら)の百姓であったこと、苗字は村の元祖の意味でもと「本」と明治5(1872)年制度として姓が必要になると格別の意味はないが岡を付け加えて本岡としたと考えられるという。代々の当主の努力で明治初期には地域の戸長で豪農となった。代々の当主の世襲名は三郎右衛門である。残されている文書は農林業、治水関係や凶荒・普請等を中心とするが、その中に60点の地図・絵図がある。地図・絵図の内容はほとんどが石川県内に関するものであるが、県外のものが9点ある。具体的には江戸城下図、江戸絵図、名所絵入東京御絵図、武蔵国並東京古今沿革図、京都市街図、隠岐国海岸略図、隠岐国全図、米子城絵図、竹嶋之図の9図である。さらに整理すると東京、京都、隠岐、米子の関係する地図、絵図ということになるが、本岡家とこの4地域との特別の関係があったことは他の文書からは確認できない。意図的に収集したものでなく、偶然何かの縁で入手して所蔵し続けていたと考えられる。

 

2.米子の村川家について

 江戸時代約70年余り親しい大谷家と共に、一年交代で隠岐経由で竹嶋(鬱陵島)に渡海していたのが村川家である。『村川氏■記』(東京大学史料編纂所所蔵)や「郷土資料村川家附竹島渡海」(米子市立図書館所蔵)に載る一族の系図を粗描すると、村川家の元祖は武士で摂津の久松甲斐守の家臣山田二郎左衛門正斉(まさなり)である。彼は事あって切腹する運命にあったが、その子正員(まさかず)は米子の村川六郎左衛門の娘であった母に従い米子に移住、母方の村川姓を名乗ることになった。正員と続く正賢(まささと)は甚兵衛を名乗ったが、次の正純(まさずみ)から市兵衛を世襲名とした。(■は「旧」の俗字)

 この村川市兵衛正純は米子の町年寄であり、町人で廻船業をしていた大谷甚吉と親交があった。甚吉が元和3(1617)年越後からの帰途中、竹島へ漂着し島が無人島であることを確認して米子に帰ると、甚吉と正純は当時米子城主の交代により観察使として米子に来ていた旗本阿部四郎五郎を介して竹島渡海事業を幕府に願い出た。幕府から渡海許可を得ると、しばらく大谷家の当主である甚吉が自ら船に乗り渡海を指揮したが彼は竹島で病死したという。

 この甚吉と正純の時には「寛永十四年肥前島原一揆共御追討トシテ松平伊豆守殿摂津表御通行ノ時市兵衛甚吉等早速竹島渡海舩ヲ以テ水主悉ク之ヲ乗船致サセ摂津浪華ニ着津仕随テ伊豆守殿御陣ニ伺使ス」ということもあった。また村川正純は「空居ノ島ヲ甚吉相顕シ日本ノ土地ヲ広メ御式頂戴ノ段抜群ノ功」として寛永3(1626)年から公儀御目見得を許されている。

 大谷家七代当主勝房が元文5(1740)年寺社奉行達に接見した時、町奉行時代の活躍で知名度の高い大岡越前守忠相や牧野越中守等が竹島の状況を質問したが、勝房は「私先祖甚吉儀者自分ニ而渡海仕候得而其身竹嶋ニ而病死仕候、夫以来者嶋主共私共両人共ニ渡海自分ニ者不仕候」と大谷、村川家の当主で甚吉以外竹島渡海をした者はいないと答えている。

 この大谷九右衛門勝房と共に元禄9(1696)年幕府から鳥取藩経由で竹島渡海禁止を命じられたのは、村川市兵衛正勝である。その後村川家は夭折する当主もあり、松江の豪商新(あたらし)屋、中(なか)屋から養子を迎えたりしたし、大谷家とも親密な関係が続き両家の間に婚姻関係もある。竹島渡海禁止後は、大谷家は鳥取藩から鳥魚を扱う問屋、村川家は塩を扱う問屋の仕事を与えられた。幕末から明治初期には武士出身で代々町年寄りを務め、山陰地方で廻船業も広く展開する村川家は米子町下町の総締役に任じられ、現在の米子市界隈では『大日本持丸長者鑑』という関西方面の富裕者を大関、関脇、小結、前頭と相撲のようにランク付けをした一覧表では幕末から明治初期にかけ、前頭の一人として位置づけられ続けている。しかし大正時代に入ると家運が傾き、一族は分散し東京等へ移住していったと『米子商業史』(米子商工会議所・平成二年刊行)は記している。この間大谷家は長者番付に載ることは一度もなかった。

 

3.村川市兵衛所持写の「竹嶋図」について

 大谷家には享保9(1724)年将軍徳川吉宗から鳥取藩へお尋ねがあり、藩から所有する絵図の提出を求められた際、巨大な所蔵する絵図を粗描したいわゆる「有増之絵図」(あらましのえず)なるものを制作して残した。

 その図は大谷文子氏が整理された大谷家文書目録4ー35の大谷九右衛門、村川市兵衛連名の「元文三年十二月付竹島へ渡海の次第先規より書付之写」や大谷九右衛門単独の同じ文書、別に大谷家の歴史をまとめた「大谷家由緒実記上」にも載っている。

 竹島渡海を開始した大谷、村川家が、自分達の船の航路や目指した竹島、途中で立ち寄った隠岐、松島の状況等を書き入れた絵図を作成し持参していたはずである。大谷家の「有増之絵図」は同家で江戸期に火災があり、島根県へ寄贈された大谷家文書にも含まれていないため、巨大な原図の残存はほとんど可能性がないと思われる。

 一方村川家では現在の鬱陵島だけを描いた17世紀半ばに作成されたと考えられる「竹嶋図」と現在の竹島の女島(東島)と男島(西島)を描いた「松嶋図」があり、明治28年東京大学史料編纂所の田中義成助教授が米子の村川家でそれ等を模写されたものが現在も同史料編纂所に残されている。また昭和62(1987)年米子市制60周年の記念行事の一つであった「米子の商業100年史展」に出展されており、写真での両方の絵図が残っているが原図の方はすでに所在不明である。

 今回発見された村川家の「村川市兵衛所持写之「竹嶋図」」は大谷家の「有増之絵図」と同じように、竹嶋、松嶋、隠岐諸島、島根半島の一部を中心に彼等が活動した全体の海域が描かれているが、若干の相違もあるので検討してみたい。

 この度金沢市で発見された村川市兵衛所持写とされる「竹嶋図」は、大谷家の「有増之絵図」に類似する竹嶋、松嶋、隠岐諸島から日本々土の山陰海岸までの海域を書き込んだ広範囲な絵図である。大谷家の有増之絵図とも小谷伊兵衛家の絵図にも関連があるようなので、この図を中心に関係絵図も含めて概観してみたい。

 村川家のこの絵図の右上段に「竹嶋之図右者米子町人村川市兵衛所持写市兵衛先祖竹嶋通之役人也」と標題と村川家の解説がある。左上段には大谷家の有増之図にはない朝鮮国が一部描かれ、竹嶋迄「凡四拾四里斗」とある。竹嶋には濱田浦から時計廻りに竹ケ浦、北國浦、柳浦、北浦、大坂浦、古大阪浦の浦名が、有増之絵図と同じように描かれ、濱田浦には両方とも入津所と書かれ、島全体中央に縦書きで竹嶋とある。村川家の竹嶋だけを描いた絵図は竹嶋の文字が横書きで、濱田浦には「此処へ船入津仕候、併南風ニハ船懸りかたく御座候付、船すゑ置申候」と長文の説明がある。また今回発見の村川家の絵図には島内に猟小屋と文字で書かれ、さらに小屋の形の建物が四ヶ所描かれ、沿岸には鉄砲居場を文字で記した場所が二ケ所ある。アシカ猟をする場所のようである。この猟場と鉄砲居場の二つは大谷家の有増之絵図には全く描かれていないが、別の小谷伊兵衛家の絵図に継承されている。竹嶋周辺の海域には大谷家のものには「竹嶋大廻拾里斗」、村川家の方は「嶋大廻拾里斗」と島周回の距離が記され、東端の小島には「まの島」、西端には「唐舩カハナ」が書かれている。

 松嶋から竹嶋へは「是ヨリ濱田浦へ四拾里斗」と両島間の距離がそれぞれ示されるが、今回発見の村川家の絵図には女島(東島)の方に「松嶋大廻り三拾里斗、竹嶋迄四五拾里、鉄砲居場、舟付所」と書き込みがある。松嶋大廻り三拾里は小谷伊兵衛の絵図に「松嶋大廻り三拾町」とあるように里と町の書き違いがある。女島と男島の間に瀬があるが、共に「四拾間」である。なお前述するように村川家には単独の島だけを描いた「松嶋図」が所蔵されていたが、その図には「松嶋之絵図、嶋之惣廻り壱里之内、隠岐国より松嶋江之渡海道範百里餘、松嶋より竹嶋江道範三拾里餘」と最も古い時期の距離の認識と思われる内容が記されている。

 松江藩が江戸幕府に提出した「隠岐国絵図」に、「竹嶋渡海ヘ之渡海ノ舟此湊ニ而天気見合申候」とされた隠岐・島後の福浦から松島へは今回の村川絵図は「是ヨり松嶋江七拾里斗」とし、大谷家の有増之絵図も全く同じ記述をしている。その一方で「小谷伊兵衛ニ所持被成候竹嶋之絵図之写」はこの間の距離を八拾里、享保9(1724)年幕府からのお尋ねに関する聞き取りで生存していた水主達は六拾里と答える等距離の認識に相違がある。

 隠岐諸島については現在の隠岐の島町を「隠州島後」、島前を隠岐嶋前三嶋とした上で、現在の西ノ嶋町を「隠州焼火山」、海士町を「隠州中ノ嶋」、知夫里村を「隠州千振」と大谷、村川家地図とも同様に記している。出発地点である島根半島については大谷家の有増之絵図が雲州美保関と雲津浦までを記すが、今回発見の村川家の絵図は続いて雲州宇龍津、石州温泉津、石州濱田津まで書いている。これ等の浦名は元禄9(1696)年の「小谷伊兵衛より差出候竹嶋之絵図」と全く同じで竹嶋内の猟場小屋、鉄砲居場・鉄砲場の書き込みも含めて関連が推測される。さらに隠岐島後の海域に書き込まれている「嶋後福浦●松嶋江戌亥ニ當ル」も同じ文言である。福浦から松嶋への方角が戌亥すなわち北西であることは、1667(寛文7)年にまとめられた隠岐の最古の地誌『隠州視聴合記』に「戌亥間行二日一夜有松嶋」と記されている。この頃は大谷、村川家の竹嶋渡海の最盛期で、戌亥の方角も彼等の体験から確認された方角と思われる。(●は合字の「より」)

 なお享保9(1724)年に小谷家が鳥取藩に提出した「小谷伊兵衛殿ニ所持被成候絵図之写」は隠岐島後の福浦から竹島までの海域の絵図で描かれていて範囲に相違がある。この二つの小谷家の絵図は当時世上に多く用いられていたという鬱陵島の島名である磯竹嶋を記しているので、大谷、村川家の竹嶋とは異なっている。また小谷家の二つの絵図は元禄9年正月25日伊兵衛が幕府へ提出した書付の「覚」に「一、福浦より松嶋江八十里」の記述があることからそれに符合させてか大谷、村川家の絵図が福浦、松嶋間を七十里にしているのに対し八十里としている。また今回発見の村川家の絵図には、海域の三ケ所に小舟が描かれたり広く波も表現されているが、写筆の際に懐旧の念で追記されたものと考えられる。

 

おわりに

 今回発見された「村川市兵衛所持写之「竹嶋図」」は、従来村川家にあった単独の「竹嶋図」と「松嶋図」以外に大谷家の「有増之絵図」に匹敵する実務にも利用できる絵図を村川家も所持していたことを明白にした。また明治28年東京大学史料編纂所の田中氏が村川家を訪問して同家所蔵の文物を写筆した折、この絵図の写筆図は含まれていないことから、すでに村川家に所蔵されていなかったことを意味すると思われる。さらにこの図が小谷伊兵衛家に関係する絵図に数多くの類似点をもつことも注目したい。

 島根県は2019(平成30)年1月に大谷家の関係者から500点を超す大谷家文書の寄贈を受けた。その中には、世襲名で大谷久右衛門と連名で村川市兵衛の名が記載されているものも多い。現在東京大学史料編纂所が所蔵するいわゆる『村川氏■記』や米子市が大正時代に市史編纂のため収集したいわゆる「村川家文書」もコピーで島根県竹島資料室は所蔵しているが、新しい絵図が発見されたこの機会に、村川家の視点での竹島渡海事業を再検討してみることも大切だと思われる。(■は「旧」の俗字)

 

村川市兵衛所持写之「竹嶋図」の画像

「竹嶋之図」米子町人村川市兵衛所持写(石川県金沢市立玉川図書館所蔵)(無断転載禁止)

(前竹島問題研究会研究顧隆)


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