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『鬱陵島友会報』と元鬱陵島居住者の証言

はじめに

 

 過日、かつて鬱陵島で生活した日本人を紹介して欲しいと、数人の韓国人研究者が島根県竹島資料室を訪問された。具体的な来訪の経過を聞くと、鬱陵島で日本の人達と長期間交流の経験のある方からの依頼で該当者を捜されているのだという。その依頼者の名前を聞くと私には記憶にある人名であった。それは太平戦争の敗北により鬱陵島から引き揚げた日本人達が、昭和39(1964)年に鬱陵島友会なる組織を作り、機関誌として『鬱陵島友会報』なるものを年1回発行されているが、その中に掲載されている鬱陵島の現況を数回手紙として送り届けていた韓国人と同じ名前であったからである。

 竹島資料室には、寄贈を中心に8冊7年分の『鬱陵島友会報』が所蔵されているが、その分折はまだ行っていない。また、鬱陵島友会を組織された方々から1世代下って現在70歳代から80歳代のご健在である元鬱陵島居住者の方々11名の聞き取り調査もしている。今回この2点をはじめてレポートにまとめてみたい。

 

1.『鬱陵島友会報』について

 

 鬱陵島から日本本土へ帰国し、敗戦の傷跡も少しずつ復興のきざしに光と明るさを見出した時、元鬱陵島居住者の人々が昭和39年、鬱陵島友会なる組織を設立した。

 この年の鬱陵島友会第1回総会に合わせて発行された機関誌『鬱陵島友会報』第1号には、各家の戸主が代表する形で会員161名の名前が載り、その他に「引揚又は帰国後死亡した人」35名、「鬱陵島で物故した主な人」9名の名前もある。

 名簿を見ると同じ苗字の方がかなり多いが、初代の人が渡島して自分の兄弟を招いたり、自分の子や孫を独立させて一族の輪を広げた可能性が推測される。

 この第1号の記録には鬱陵島の歴史が点描されるが、明治35(1902)年6月に在島の人達が外務省の釜山理事庁の認可を得て、日本人による自治の共同体結成を実現している。共同体のリーダーはまもなく鬱陵島島司(とうし)と呼ばれる職名と決定したが、最初の3代の島司は警察官である人が兼ねたという。また、「日商組合規則」なる規約を作り、個々の拠出金の基準を明確にして平和裡に鬱陵島での集団生活が開始されたとしている。

 しかし、一方で最近入手した明治35年10月16日付の外務省通商局編纂『通商彙纂』に、「(前略)爾来年々在留民ノ増加スルニ従ヒ不良ノ徒入込ミタルヲ以テ取締ノ必要起リ、明治三十年日商組合会ナルモノヲ組織シ、在留民ノ安全ヲ保持スル為メ二名ノ監事ヲ置キ之カ取締ヲ為シタリシモ、人口頓二増加シ従来ノ取締法ニテハ到底整理スヘカラサルノミナラス渡航者ハ概ネ無智文盲ノ擠輩二シテ二尾紛擾ヲ起シ(中略)本年一月四日組合員中ニ紛議起リ元組合長ハ組合ヲ破壊セント欲シ自己ノ使役スル多数ノ木挽及ヒ労働者ヲ煽動懐柔セシメ(以下略)」とあるように、具体的には新天地での出発には苦難も多かったと思われる。

 

 『鬱陵島友会報』第2号は、冊子ではなく新聞の形態となっており、会の設立を喜ぶ記事が中心である。

 

 昭和40年11月発行の第3号は、「十数年の長い懸案の日韓国交正常化について、竹島問題は一応棚上げとして後日に譲り、先に調印した条約は、韓国では学生デモ、野党の反対があったにも拘わらず批准を終わり、また日本も来る特別国会で審議のうえ批准することと思われます。」と、この年日韓基本条約が成立した直後の緊迫した問題を伝えている。

 この竹島問題の棚上げについては、鬱陵島友会会長ほか78名の連署の「竹島は日本領土なり。われらは古きは父祖の代より明治大正昭和に亘って、問題の竹島に最も近い韓国慶尚北道に在住せし者である。」に始まる「竹島返還を要求する決議文」を、佐藤内閣総理大臣、椎名外務大臣等に提出している。この決議文の提出がこの第3号で報告されている。

 この号で心をなごませてくれるのは、元鬱陵島島司だった人の鬱陵島の名所の思い出の寄稿文である。

 

 第4号はまだ見つからず残念だが、昭和42年11月発行の第5号では「最近の鬱陵島−韓国よりの通信」が注目される。鬱陵島で共に生活した韓国人からの手紙等の紹介が中心だが、昭和41年末で鬱陵島に2、300人の居住者がいること、最近行政が島司制から郡守制に変わったこと、島に高校が1、中学校3、小学校9校があること、朝鮮本土の京城、大邱、釜山の大学へ進学している者が370余名もいること、交通は400トン級の連絡船が月10回朝鮮本土と島を往復しているが、昭和43年からは浦項と鬱陵島間4時間の快速船の就航が予定されていること、産業は漁業、農業が中心だが、特殊作物を栽培している農民は韓国のどの地方の農民より裕福であること等が記されている。

 

 昭和43年11月発行の第6号にも「韓国よりの通信」が載るが、この年から政府による毎年6、000万円の低利融資で肉牛飼育事業が開始されたこと、同じくこの年テレビが島に入ってきたが、韓国本土からの放送は映らず鳥取から放送の日本海テレビを受信出来ることを伝えている。

 

 第7号は目下未発見である。

 

 昭和46年5月発行の第8号は、鬱陵島司で警察官であったS氏の訃報を報じ、氏が島に作った演芸場でのエピソード等思い出を特集している。

 

 昭和48年5月発行の第9号は、鬱陵島友会会長の訃報と氏にまつわる思い出、島を離れて35年目に鬱陵島へ行った会員の報告を中心に編集されている。

 

 『鬱陵島友会報』は目下この第9号までしか存在が確認出来ない。鬱陵島友会は会報を発行すると共に、毎年家族も伴って親善を兼ねた総会を鳥取県大山町、島根県美保関町、大社町、松江市、隠岐西ノ島町で開催した。会を運営する中心メンバーが鳥取県境港市に居住していたので山陰地方が会場に選ばれたと思われる。しかし会の設立の中心メンバーがご高齢で次々死去される中で、会の活動も小規模になり参加人数も減少していったことが想像される。ただ、第9号に最終号とする表明は見出せないので、この後の号の存在を信じて調査を継続していきたいと思う。

 

2.鬱陵島元居住者への聞き取り調査

 

 昭和28および29年に、鬱陵島から日本へ帰国した人々に対し外務省と島根県が聞き取り調査を行っている。島根県の行政文書にも一部記録が残っているが、朝鮮本土から鬱陵島に移住した方が「蔚珍や竹辺湾周辺では高い場所へ行くと鬱陵島が見えた」と語ってくださったり、大正時代に鬱陵島在住の小学生だった方は「自分達は鬱陵島を竹島と呼んでいたが、海図には松島となっていることも知っていた」と証言されている。

 また、昭和15年8月17日に竹島は島根県の所管から海軍省の用地となり、舞鶴鎮守府に引き継いだ。そのため、竹島での土地使用許可申請が県から海軍省となり、昭和16年2月の八幡長四郎の出願に対し、海軍省が昭和16年10月1日から20年3月31日までの利用を許可している。この期間、鬱陵島で代々缶詰工場を経営していた方の、「昭和初期から材料のアワビ、さざえを、竹島での漁業権を持つ隠岐の八幡氏に(アシカ以外の)磯の権利の契約金を払って取りに行っていた。昭和17年まで契約金を払い竹島に行っていた。その後も昭和20年まで竹島に行っていた」(典拠:田村清三郎『島根県竹島の新研究』昭和40年)等は、竹島問題を考える上でも貴重な証言である。

 平成19(2007)年、島根県が設置した竹島問題研究会の下條(座長)、杉原(副座長)、舩杉(委員)、升田(委員)の4名は、文献や地図によってのみ認識している鬱陵島を実地検証するため渡島した。その結果数々の成果も得たが、新しい疑問も生じ、鬱陵島で実際生活された方々に確認する必要を痛感し、元鬱陵島居住者を捜しつつ聞き取りを始めた。

 竹島資料室のスタッフの協力もあって平成21年現在、11名の方から話を聞くことが出来た。結果は個々のご氏名を明記してまとめようと思っていたが、お一人の方が「父が鬱陵島の回想記を、知人等の個人名を書いて発表したところ、その方々から抗議が相次ぎ、父に代わって私が謝罪して歩いた」と語られたので内容を中心にまとめることにした。

 聞き取り対象者を概括的に示すと、87歳から70歳までの男性7名、女性4名で、現在居住されている場所は隠岐郡海士町4名、松江市3名、隠岐郡隠岐の島町、西ノ島町、鳥取県米子市、境港市各1名である。鬱陵島での居住場所は、道洞(トドン)10名、台霞(ハント)1名。家庭の職業は漁師4名、農林業2名、教師1名、鉄工業1名、下駄製造業1名、缶詰製造業1名、医師1名である。ほとんどが小学校時代に敗戦で帰国しているので子供としての記憶しかない。ある男性は聖山峰や、聖山峰から、より浜辺に近い三角山に登って竹島を見た経験があり、漁師を父に持つ男性2人は父に連れられ竹島と竹嶼へ行った経験がある。

 竹島へ行った男性は、カナギ漁をしていた父親の獲ったアワビが鬱陵島のものより断然大きかったことに驚き、父親が「隠岐の人が権利を持っている竹島のアワビを同じ日本人だからといって鬱陵島の我々が獲るのは気がとめる」と独り言まじりに言ったのを覚えておられている。

 竹嶼へ行った男性は、人の居住した住居跡を実見している。

 女性の皆さんはそろって苧洞(チョドン・もしげ)の浜辺で海水浴をしたことを覚えておられた。

 道洞の小学校では、日本人と朝鮮人は別々の学校だったが、台霞では一緒に学んだという。

 現地の朝鮮の人達とは日韓併合時代であり、特別のわけへだてなく生活しており、自分の家の仕事の下働きに来ている現地人との交流を覚えている人もおられた。

 帰国については漁師の一家だけが自分の家の所有船で家族全員隠岐へ帰っておられるが、その他は朝鮮本土の釜山へ指示によって集まり、貨物船に乗せられ下関経由で故郷に帰っている。帰国時については、島の現地人と涙を流し手を握りあって別れたことを覚えている人、朝鮮本土を通る時、あちこちで万歳を叫ぶ朝鮮の人達を見て目立たないよう緊張しながら帰ったことを覚えている人等さまざまであった。

 現在の竹島問題については、それぞれが関心をもっておられ、日本政府の積極的な取り組みによって日本の領土権確立を期待していると語ってくださった。

 

おわりに

 

 最近Web竹島問題研究所の質問コーナーに、日露戦争と竹島との関わりに関係して鬱陵島の望楼(見張り所)についての質問があった。確かに奥原碧雲の『竹島及鬱陵島』(明治40年)に掲載される「鬱陵島見取図」には、北望楼、南望楼、西望楼が載っており、加えて最近の韓国で発行された冊子には鬱陵島石浦の北望楼跡の写真が載っている。また、未発表だが隠岐から昭和初期のものと思われる『鬱陵島案内誌』なるものも発見されている。

 これらの新しい課題や資料にも取り組みながら、まだ見つかっていない『鬱陵島友会報』を探したり、鬱陵島で生活された方々の聞き取り調査も継続していきたいと考えている。

 

 

(主な参考文献)

『鬱陵島友会報』第1、2、3、5、6、8、9号(島根県竹島資料室所蔵)

 


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