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隠岐の漁師脇田敏、河原春夫が語る昭和期の竹島

はじめに

 

 隠岐諸島の島後の隠岐の島町で、江戸時代に鬱陵島や竹島へ渡海を続けたのは、五箇(ごか)地区の福浦や久見の漁師であった。そして、その末裔ともいえる久見漁業協同組合に所属する11名が、竹島における日本人の最後の漁労となる昭和29(1954)年5月の出漁に参加している。

 この時の状況は、唯一の生き残りの体験者八幡尚義氏(平成20年12月ご逝去)から直接聞くことが多かったが、この度、当時久見漁業協同組合長であった脇田敏氏が書かれた「竹島漁業権行使の経過」なる記録が発見され、より正確な情報がわかった。

 また、脇田氏と一緒に竹島へ渡航した河原春夫氏が、昭和40年6月の日韓基本条約、日韓漁業協定の締結で李承晩ラインは消滅したが竹島は暫定水域の中に置かれ、返還されなかった悲憤を、同月特集を組んだ週刊誌『女性自身』に語っておられることも知った。

 このお二人が語る昭和30年前後から昭和40年頃の隠岐の漁民の竹島への想いをまとめておきたい。

 

1.昭和30年前後の竹島

 昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約の締結で日本は国際復帰をするとともに、竹島の領有も確定した。

 この年の11月、竹島の現状を確認すべく、鳥取県立境高校水産科の教員等は実習船「朝凪丸」で竹島へ渡った。この渡航に参加し、竹島に朝鮮人達が残した遺物を確認した吉岡博教諭は、航海日記に「世人に島の現状を訴え、一刻も早く適切なる処置をとって日本漁民の出漁出来ることを願うものである。」と記している。

 サンフランシスコ講和条約が効力を発する直前の昭和27年1月18日、大韓民国の李承晩大統領は海洋自主宣言、いわゆる李承晩ラインの設定を発表し、竹島を自国の領海に取りこんだ。これに対し、日本政府は1月28日付け口上書で抗議した。

 昭和28年5月28日、日本海の対馬暖流の調査をしていた島根県水産試験船「島根丸」は、竹島において韓国旗を掲げた動力船6隻、無動力船6船が海藻や貝類を採取中であることを発見した。また、鬱陵島から渡って来た漁民が30名程度いることも判明した。

 試験船「島根丸」は、第2回の調査中の同年6月15、16日、竹島に朝鮮人がいるのを発見した。その1週間後の6月23日、外務省は韓国に厳重抗議をした。同日韓国側は、竹島は韓国領土であると回答して来た。

 また、6月25日に島根県立隠岐高校水産科の関係者は、校長市川忠雄の指示で、竹島の現況確認に実習船「鵬丸」で渡航し、6人の朝鮮人が島にいることを確認した。

 一方、島根県と海上保安部も合同で調査隊を竹島に派遣し、隠岐高校の鵬丸が島を離れるのを待って、6月27日に島根県職員2名、島根県警察官3名、海上保安官25名が島に上陸した。島根県水産商工部職員の澤富造、井川信夫は、この時の出来事の復命書を当時の恒松安夫知事に提出しており、竹島での韓国人6名への尋問、標柱等の設置や、昭和23年のアメリカ空軍射撃訓練で死亡や行方不明になった韓国人14名の慰霊碑の碑文銘がわかっている。

 その直後の7月12日には、海上保安部巡視船「へくら」が韓国側から発砲される事件も起こり、7月24日の島根県水産大会は竹島問題解決促進を決議し、各方面に陳情した。

 そして、その翌年の昭和29(1954)年5月3日に、今回報告する久見漁協関係者を中心とする竹島での漁労が行われている。

 この年、韓国は竹島の東島に灯台の建設を開始した。11月21日には竹島周辺を哨戒中の巡視船「へくら」、「おき」が、竹島から韓国側の砲撃を受けている。

 日本では昭和30年以降、国会で竹島問題についての質問が辻政信議員等によって続いているが、内閣の中枢である岸信介総理大臣、藤山愛一郎外務大臣等からは「円満な方法で解決をはかりたい」という趣旨の回答に終始している。

 昭和40年6月22日、日韓基本条約、日韓漁業協定が成立し李承晩ラインは消滅したが、竹島は日本側に返還されなかった。当時の隠岐の島民の思いを、河原春夫氏が前述した週刊誌上で語っている。

 

2.脇田敏の「竹島漁業権行使の経過」なる手記

 

 脇田敏の上記の手記は、昭和29年4月22日から日付を記しながら書かれている。この日島根県水産商工部の井川技師から電話があり、近く久見漁業協同組合へ出向くから会って欲しいとの連絡だったという。井川技師とは、前年竹島にいる6人の韓国人の対応に渡島した県職員である。

 4月27日に井川技師が隠岐を訪れ、2人は面談した。用件は、島根県は竹島での共同漁業権の免許は出しているが、漁業権行使の実績がないので久見漁協に漁業権行使のワカメ刈りを実施して欲しいということであった。具体的には、竹島への往復は島根県漁業取締船「島風」を使用し、李承晩ライン設定後の非常時であるので第八管区保安本部から巡視船5隻が護衛すること、現場で漁労を行う漁業者10名と小舟3隻を用意して欲しいこと、この行動は秘密裡に行いたいので、参加者には家族にも話さないことを徹底して欲しい等であった。

 井川技師が話を終えて漁協を離れると、脇田は協同組合の理事であった佃忠親に来てもらい、事情を話すとともに、竹島にわたる組合員の人選を行った。38才の脇田、41才の佃も参加し、その他60代のベテランからただ一人20代の八幡尚義(かつよし)まで総勢11人が4月28日までに打診を受け、受諾している。

 4月30日に久見に来航した島根県漁業取締船「島風」に3隻の小舟を積み込み、漁具は各自が用意して持ち込んだ。5月1日に出航が決まると、脇田は地域の神社の宮司八幡克明に仔細を語り、万一の場合の対応を依頼した。

 5月1日午後2時半に久見港を発ち、他の巡視船と合流するために島前の別府港にむかった。別府にすでに入港していたのは、「おき」、「くずりゅう」、「ながら」、「みうら」、「へくら」の5隻の巡視船だった。天候が悪くなったのでこの日の竹島行きは中止された。

 翌2日の午前中は出航命令は出ず、脇田だけが上陸を許され煙草等の買い物をした。5隻の巡視船は別府湾内で放水訓練を繰り返し、壮観だったという。夕食後、各船の責任者が「おき」に集められた。今夜中に出発するという指示であった。

 3日朝、脇田等11名の乗った「島風」の横を「おき」が護衛し、他の4隻は扇形に展開しながら進み、午前10時頃竹島に到着した。すぐ小舟を降ろし、操業にかかることになったが、万一の場合は赤旗を振りサイレンを鳴らすから「島風」でなく「おき」に向かうように言われた。

 11名は3隻の舟に乗り移り、ワカメ刈りを開始した。生前の八幡尚義は、ワカメが長く太かったことやアワビも取ったことを語っている。

 午後になり天候が悪くなって来たので、午後2時頃操業を終了して竹島を離れ、一路久見港を目指した。巡視船「おき」等は方向を舞鶴に向けサイレンを鳴らして去って行った。「島風」は4日午後久見港に入り、ワカメを降ろすと松江に向かって隠岐を離れた。

 出港の際、別府で待機したため、予定より1日遅れて帰港したので、万一の時のことを頼んでいた宮司は心配していたが、無事を喜んでくれた。

 この久見漁協組合員の竹島での漁業権の行使は、韓国側に認知されたかどうか不明であるが、6月から韓国政府が沿岸警備隊を竹島に配置する処置をとっている。

 

1954年竹島試験操業「島風」船上

写真:竹島試験操業に向かう「島風」船上での記念撮影(昭和29年5月2日)

久見漁協組合出漁者、県職員の11名。赤丸が脇田敏組合長、青丸が河原春夫氏。

 

3.河原春夫が語る日韓基本条約

 

 昭和40年6月22日、日韓基本条約、日韓漁業協定が締結された。

 同年6月30日付けの特別号で週刊誌『女性自身』が「ルポルタージュ「竹島」についての話し方」と題した記事を掲載した。最初の見出しに「竹島-日本海に浮かぶ、小さい小さい島です。その島が日本領なのか、韓国領なのか、日韓条約は、帰属をきめないで調印されました。漁場をうばわれた漁師は怒っています。それには、ベトナム戦争も関係するとか・・・」として、隠岐や島根県での取材を中心に特集を組んでいる。

 この特集の中で、隠岐の漁師の代表として多くを語っているのが河原春夫である。河原は昭和29年5月、脇田敏等と竹島で漁業権を行使した久見漁協の組合員の一人である。昭和40年の取材でも11年前の思い出から語り、子供の頃に竹島から父がよく連れて帰ったアシカが、自身が渡航した昭和29年には十数頭しか現地に見られなかったこと、アメリカ空軍の爆撃演習で死んだという韓国人の新設間もない慰霊碑が目に飛び込んできたこと、竹島は2、3時間でワカメを一人500貫(1875キロ)刈りとれ、アワビも一人で90貫(337.5キロ)もとれる宝の島だったと語っている。

 昭和40年頃は隠岐周辺は魚貝類の漁は不振で、ワカメ・コンブ刈りに頼っていたので、日韓基本条約で竹島が返還され、竹島での漁業再開が待望されていた。

 また、返還の可能性を佐藤総理大臣、地元の大橋武夫代議士等が語っていたので、竹島の返還が棚上げとなると隠岐の漁民の落胆と怒りは大きかった。「韓国人の漂流や密航で、年に二十隻の船が島根県に流れつく。そのお世話に各市町村は、なけなしの予算をはたいている。このうえ、竹島がタナ上げでは、戦後二十年間の漁場の補償をして欲しい。ふんだりけったりだ。」が隠岐の漁師の大多数から出た声だった。

 当時ご健在だった竹島問題にくわしい島根県総務課の田村清三郎氏も、竹島問題を棚上げにするなら、「せめて、国際司法裁判所か、第三国の調停にもっていくぐらいの方向を出してほしかった。」という談話や「李承晩大統領が竹島を日本から奪ったのは、大きな政治的意味があった。李承晩は反日的ムードのうえにのって人気を得ていた。竹島はそのために利用されたにすぎない。」という竹島問題の分析を発表している。

 『女性自身』の担当者は、日韓基本条約が超スピードで成立、調印されたことにベトナム戦争の影響を指摘している。すなわち泥沼化してヨーロッパからも批判が出ている中で、昭和40年5月16日韓国の朴正煕大統領が訪米し、韓国軍一個師団を南ベトナムに派兵することを約束し、ジョンソン米大統領が握手を求めながら「日韓会談妥結を期待する。」と述べたこと、日韓基本条約の6月22日の締結で竹島が棚上げになった他、日本が韓国に8億ドル(2880億円・借款も含む)を支払うことになった現実を指摘している。

(島根県竹島問題研究顧問杉原隆)

 

 


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