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『隠岐新報』と日露戦争

はじめに

 

 隠岐の島町図書館長の小室賢治氏が、明治時代隠岐島で『隠岐新報』という冊子が刊行されていたという情報をくださり、竹島資料室で調査した結果、東京大学明治新聞雑誌文庫に、明治37年1月から毎月1回発行されていた冊子16号分が所蔵されていることがわかった。明治37、38年といえば、中井養三郎が明治政府に「りやんこ島領土編入並びに貸下願」を提出し、政府は閣議決定でリヤンコ島を島根県所属と決定し、島根県では知事松永武吉が全県下にこの島を竹島として告示した時であり、隠岐における最新の情報を載せた新資料が出現する可能性もあり、是非閲覧したいと思った。

 その後、島根県立図書館のご厚意で『隠岐新報』16冊全文のコピーが入手でき、この度時間をかけて目を通させてもらった。

 明治37年1月4日発行の第1号には正月を祝賀する「潜水器漁業中井養三郎」の広告や、この冊子の刊行を祝う隠岐島司東文輔の祝辞等が掲載されており、竹島問題に関する多くの記述が期待されたが、関連するものは明治37年分には皆無であった。ところが、日露戦争に関する内容が隠岐から出兵した兵士の情報を中心に非常に多くの記事として掲載されていた。以下に『隠岐新報』の概要と日露戦争と隠岐をテーマに小論をまとめてみたい。
また『隠岐新報』については表題の字は少し小さく、毎月1、11、21日発行とした薄ページの刊行物が明治40年1月1日から発行されていることが、隠岐で平成元年発行された『日本海に浮かぶ−ふるさとアルバム西郷−』なる冊子に写真として掲載されていることに最近気づいたが、明治37、38年のものとの関係は実物を目下入手できないので不明である。

 

1.『隠岐新報』について

 

 『隠岐新報』は明治37年1月発刊の第1号から残存する明治38年3月の第16号まで、すべて発行所は島根県周吉(すき)郡西郷町大字西町355番地の隠岐新報社で、発行人は長田能一郎氏である。長田能一郎氏は当時の布施村の出身で、明治期隠岐の地理、歴史を総合的にまとめた『隠岐島誌』の編集に心血をそそぎ、その時集めた竹島関係の資料を後に島根県へ提供した隠岐島庁書記官長田和加次氏の実兄である。長田家は江戸時代廻船業で財をなし、布施村の重職にもあった家柄でもある。

 第1号で長田能一郎氏は「発刊の辞」を書き、社会が激変のうねりの中にあるのに隠岐島民はその変化を意識せず旧態のまま日々を過ごしていること、新しい知識や改革の目標を涵養、実行するためにこの雑誌の発刊を思いたったことを述べている。友人の斎藤一郎なる人物も、長田能一郎氏が日ごろ公共事業の仕事にいそしみつつ、現在の隠岐島の文化、経済の遅れを嘆いていたことを披露しながら、この雑誌の発刊に期待していることを祝辞として記している。

 島根県の隠岐地区の行政上のトップとして島司(とうし)という職にあり、リアンクール島の島名を竹島に変更命名した東(ひがし)文輔氏も、祝辞と共に「隠岐新報てふ書を世に弘めしを寿まいらせて」と末尾に記して祝賀の意を示している。なお東文輔氏については、明治37年8月の『隠岐新報』第8号の口絵に、「隠岐島司東文輔の家庭」と題して文輔氏と奥様、4人のご子弟の写真を掲載している。

 『隠岐新報』の明治37年度分に多くの紙幅が割かれているのは、隠岐4郡内の町村の合併に伴う問題と将来への展望等に関する記述である。すなわち明治37年1月に島根県告示で島後(どうご)の周吉郡、穏地(おち)郡と島前(どうぜん)の知夫(ちぶり)郡、海士(あま)郡下の3町50村が4月から1町12村に合併縮小されたことに伴う諸問題についてである。

 また第1号から「詞林」というぺージに漢詩、短歌、俳句等を掲載し文芸誌の雰囲気も入れて、雑誌の内容に読者との交流も大切にしている。その他、隠岐島から島外へ転居する人の新しい住所を掲載し読者の便宜を図っているし、資金確保のためか広告も受付け、隠岐島外からもかなりの広告の依頼があったようで島根県、鳥取県を中心に各方面の広告が掲載されている。

 なお、隠岐島内にも印刷所があるにもかかわらず、全号とも島根県大原郡木次町の木次活版所が印刷所で、印刷人も同町の森脇甚助なる人物の名が記載されている。『木次町誌』(昭和47〔1972〕年)によると木次活版所は明治34年5人の出資者により設立され、設置場所の木次町23番地は出資者の一人石橋氏の地番である。印刷人森脇甚助は木次町459番地寄寓とあるが、その地番は出資者の一人細木氏宅のあった場所である。現在の雲南市木次町には森脇姓の家が3軒あるが、どのお宅の祖先にも甚助を名乗る方は存在しないので、印刷技術を持った他所から招かれた人物の可能性が大である。

 『隠岐新報』は第13号から明治38年に入った。13号の新年祝賀の広告には、この年も「潜水漁業中井養三郎」の広告がある。この頃から「周吉郡磯村通信」のように、各町村の通信員の存在を推測させるぺージが登場している。明治38年1月には臨時の形で第14号が発行されているし、残存する最後の3月発刊の第16号には「社告」として「来月よりは月に2回発行」と『隠岐新報』の拡大、充実ぶりをうかがわせる記載がある。

 さて、この第16号に、同年2月22日に隠岐島司の所管となった竹島のことが初めて掲載されている。まず「社説」の部に「隠岐国境の膨張」と題する一文が掲載されている。内容は古くから隠岐島民が渡航していた二つの島嶼と数多くの小島嶼が、この度公的に竹島という名で隠岐の領土となったことは喜ばしい。島自身が矮小なので海獣その他の海産物は濫採せず、無限の利益の地としたいといった所感である。また「雑報」の部にも「隠岐の新島」という記事があり、竹島の位置、隠岐島からの距離等を記し、詳細は次号に掲載するとある。その次号の第17号が目下見つからず残念である。

 

隠岐新報第1号表紙

 

写真1:『隠岐新報』第1号(明治37年1月1日発行)個人蔵

 

 

2.『隠岐新報』と日露戦争

 

 『隠岐新報』が発刊された直後の明治37年2月、日露戦争が勃発した。隠岐発の日露戦争前半の情報が『隠岐新報』から提供されている。それを以下に報告してみたい。

 日露戦争に関する従来知られていた隠岐での事柄は、明治38年5月27、28日竹島の近海で日本海軍とロシアバルチック艦隊の間でいわゆる日本海海戦が勃発するが、この時竹島では中渡瀬仁助等、隠岐の漁民がアシカ漁をしていたこと、この海戦で死亡したロシア兵の遺体が多数隠岐へ漂着したこと、日露戦争後竹島等に見張り台として仮望楼が建設されたが、隠岐西ノ島の高崎山望楼から竹島へは連絡の電信施設が作られたこと、旅順口の戦いで敗北したロシアのステッセル中将が日本の乃木希典大将に贈った軍馬ス(寿)号(乃木大将の命名)が隠岐海士町で飼育されたこと等である。

 『隠岐新報』創刊号、明治37年1月1日発行分には「対露問題」と題する記事が掲載され、全国の新聞等は盛んに対ロシア問題を日々記事にしているが、本誌では紙面の都合で今回は省略するとある。

 2月1日発行の第2号には、「寄書」と題する投書欄に匿名氏が「時世を鑑み敢て諸氏に告ぐ」と題し、「鷲露虎佛」としてロシアを鷲(わし)、フランスを虎と表現しつつ、「彼れ緑眼髯児毎に眼を東洋の動静に注ぎ、機に応じ変に投じて其攫慾を逞うせんと欲す」とロシア、フランスへの警戒を呼び掛けている。また、「雑報」の部に、「日露協商廃棄の声明」という記事があり、ロシアが日本政府に連絡せずに韓国のソウルに兵隊を入れたので、日本政府は日露協商の無視としてロシア政府に同協商の廃棄を通告したとある。

 いよいよ日露開戦を伝えるのが3月15日発刊の第3号で、巻頭の「社説」に「戦争と国民」と題する一文を掲げ、去る2月10日対ロシアの戦争が勃発したこと、戦局の結果は国家の存亡にかかわるから必ず勝つべく国民一丸となって頑張らねばならないが、戦時にあっても国内の平和は忘れてはならず、上下一致して同心協力、農工商漁等各職に励み国家の実力培養に励まねばならない。軍属として出征者のいる家庭には、保護やいつくしむことを心がける必要があること等を強調している。また「雑報」の戦争諸報の部には、まず「宣戦の詔勅」全文が御名御璽として掲載され、内閣総理大臣兼内務大臣桂太郎、海軍大臣山本権兵衛、陸軍大臣寺内正毅等9人の大臣が署名していることがわかる。続いて早くも日本陸軍の上陸地点となった仁川、旅順口で戦火が交えられたこと、隠岐では東文輔島司が2月26日国弊中社水若酢神社で勅使代理として宣戦奉告祭を挙行したことが記されている。またこの号の「論説」の部に、「日露交際と国際公法」と題する専門家の論説も載り、日露開戦の理由や戦時における国際法の確認の必要も説明されている。

 『隠岐新報』第4号は明治37年4月15日発刊されているが、その中に「露西亜国勢一斑」なる記事があり、ロシアの行政のしくみ、当時の具体的な閣僚の名前、財政や教育制度、軍隊の組織等が列挙されている。戦争の状況については旅順口封鎖のための海軍の行動が精細に報告されており、第2回閉塞作戦に奮戦する兵士と部下を思いやる上官の杉野兵曹長と広瀬中佐の有名な行動が綴られている。隠岐内のことでは「軍資献納」として数多くの日露戦争に献金した人名や団体名が列挙されているが、献金の中には五箇村に周囲に禁酒を宣言し毎月拠出している人のことも記載している。

 続く第5号には「隠岐国在郷軍人会」の設置と旅順総攻撃の戦況が報じられている。

 6月15日発刊の第6号は、「社説」で「戦費と軍国民の家計」を掲げ勤倹と国家への奉仕の精神涵養を訴えている。また、初めて隠岐出身の戦死軍人4名の名前を記し、その名誉を讃えている。さらに、軍隊上官の昇任発表を報じているが陸軍では乃木希典、海軍では東郷平八郎がそれぞれ中将から大将に昇任している。

 7月15日発刊の第7号は、「雑報」の部のうち「軍事要報」に紙幅をさき、朝鮮北部を中心に戦場の激戦を報じ、ロシア兵の捕虜93名が松山へ到着したことも伝えている。文芸の部の「詞林」には戦争に関する短歌も多いが、「家兄の出征を送る」には「勇ましきほまれを残し武夫(もののふ)の花と歌はれ潔く散れ」、「武夫の花と歌はれ君散らば我も男の子ぞいかで泣かなむ」や、恐らくは乃木希典大将のご令息の戦死を詠った「南山の戦に名誉の戦死を遂げたる乃木中尉を吊ふ」には「温き血潮を野辺に染めなして我友逝けり勲し高く」、「勝鬨の声を幽に聞きなして笑み漏らしつつ君は眠りぬ」、「大君のへにこそ死なめと勇み行ける君が姿のまのあたり見ゆ」等も載っている。

 8月15日発刊の第8号には、五箇村から出征し戦死した宇野広氏を、友人が思い出と最後に送られた書簡でたたえる一文が光彩を放っている。

 9月30日発刊の第9号は、冒頭に6人の戦死者の遺影を掲げると共に、他の戦場での戦死者、負傷者を列記、帰郷した英霊の葬儀に隠岐島司東文輔氏が参列したこと等戦時色が濃厚な紙面となっている。

 10月15日発刊の第10号も戦死者や負傷者の名を記したり、戦場からの兵士の書簡紹介等が掲載されている。

 11月15日発刊の第11号は、巻頭に隠岐出身の6人の兵士の写真を掲げ、続いて10月10日に発表された「開戦以降朕ノ陸海軍克ク其忠勇ヲ致シ、官僚衆庶其心ヲ一ツニシ、以テ朕カ命ヲ遵奉シ著々其歩ヲ進メ今日ニ及ブ、然レドモ前途尚遼遠ナリ、堅忍持久益々奉公ノ誠ヲ竭(つく)シ、以テ終局ノ目的ヲ達スルコトヲ努メヨ」という、天皇の「勅語」を掲げている。また、「雑報」の部には22名の戦死者、41名の負傷者を戦場ごとに記している。

 12月15日発刊の第12号は、年末らしく社説に「明治三十七年を送る」を掲げ、「忠勇無二の我将卒は今尚満州の野に砲烟弾雨を冒して国難の衝に当りつつあり」と日露戦争のことと、「我隠岐国は十数年来待ちに待ちたる自治制度の施行に遇し」と、町村合併による行政上の新しい出発を中心に一年を振り返っている。また「雑報」には都万村出身の兵士が戦死したがその軍服のポケットに父親宛の遺言書が見つかったとして、その全文を掲載している。

 明治38年1月1日臨時として第13号が刊行され、新年を祝賀する広告が中井養三郎を含む数多くの人によって巻頭に掲載されている。しかし、幸せな一年を願う広告の次は、9人の戦死者と負傷者の写真が載っている。「社説」の「明治三十八年を迎ふ」には「国民は如何なる犠牲をも辞することを得ざるの責任と光栄とを有するものなり。吾人は斯くも大なる責任の横はれる例なき新年を迎ふ」と、日露戦争への国民の団結と必勝を呼び掛けている。

 1月15日発刊の第14号は、6人の戦死者、負傷者の写真から始まる。「談論」の部には「見る、聞く、感ずる、有りのまま」と題して、満州の戦場から西町出身の一歩兵少尉が送った見聞記が紙幅を大きくさいて掲載されている。厳寒の中で金属物を持っていると凍りついて、離すには皮膚も一緒にはがれる等、なまなましい報告がなされている。戦場の兵士からの短歌等も載せられており、「一人一人敵の斃るるかけ見えてたまの下とも覚えさりけり」、「時ならぬ紅葉に草をそめなしてゆふくれさむく駒のいななく」等がある。この号に「旅順陥落」が大きな見出しで報じられ、約1年かかったこの要塞の陥落への道程、隠岐島庁での祝勝会の模様等を報告している。

 2月15日発刊の第15号は、巻頭に前年隠岐を訪れた島根県庁の堀信次書記官を、東島司と隠岐の全町村長が囲む集合写真を掲げている。また、島根県知事に着任し、初の隠岐訪問をした松永武吉氏の行動を報告している。日露戦争については、隠岐出身兵士からの手紙や戦死者名を載せている。

 残存する最後の3月15日発刊の第16号『隠岐新報』は、日露戦争に関しては戦死者を記すと共に捕虜のロシア兵が松山、丸亀、似島、福知山、姫路、大阪、名古屋、静岡、大里(埼玉)、福岡の収容所に総人数30,255名いること、日本側は464名がロシア側に捕らえられていることを記している。

 

隠岐出身の日露戦争出征兵士

 

写真2:日露戦争出征の隠岐出身兵士(『隠岐新報』第13号明治38年1月1日発行)

(東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫所蔵)

 

おわりに

 

 明治37年1月から刊行された『隠岐新報』は号を重ねるごとに内容が豊富になり、隠岐島内の情報も各地に通信担当者が配置されて、島後、島前とも均等化されたニュースを伝えている。明治38年2月22日隠岐島司所管で五箇村所属となった竹島についての報道がもっと多くあると期待したが少なかったし、第17号に竹島問題の詳細を記すと予告があるが、その第17号以降が未発見なのは残念である。

 その反面、明治37年2月に勃発した日露戦争の一地域での反応は興味をもたせた。しかしこちらも明治38年5月の隠岐近海での日本海軍とバルチック艦隊の激突部分の号が残っていないことは、今後の島内外での第17号以降の『隠岐新報』発見をめざす調査の必要を痛感させるものがある。

 

(島根県竹島問題研究顧問 杉原隆)

 


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