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朝鮮側作製の官製地図にみる竹島

 

 韓国側では、2005年「竹島の日」条例制定後も、竹島に関する研究が続いており、国際学会が開催され、研究成果が発表されています。2005年5月には、慶尚北道の嶺南大学校で嶺南大学校独島研究所及び独島アーカイブ開設記念国際学術大会が開催され、「独島:韓国と日本の関係、そして東アジアの未来」というテーマで、韓国、中国、日本の研究者8名が発表したとのことです。その学術大会で、保坂祐二世宗大学校教授が「日本古地図が証明する韓国の独島領有権」と題する発表を行い、発表論文が慶尚北道のホームページなどで公開されています。この論文によれば、日本外務省のホームページ「竹島問題」を批判し、「歴史的に日本が独島を領有してきたということが事実なら日本の領土を明示する各種日本地図に独島がはっきりと描かれていなければならない。ところが江戸時代と明治時代日本で作成された官製、官許の日本地図には独島が入っていない。これは江戸幕府と明治政府が鬱陵島と独島を含めて朝鮮領土と認めたという事実を確実に証明している」、独島に対する日本の歴史的な領有権主張が崩れれば、彼らの国際法上の独島領有権論理もその延長線上で崩壊する」としています(全文をご覧になりたい方は竹島資料室にありますので、ご覧下さい。)保坂氏の指摘をみると、多くの方は「わが国では、官製、官許の地図には現在の竹島が描かれていない。それでは韓国側では官製地図には現在の竹島描かれているのだろうか」と思われることでしょう。今回は韓国側の官製地図について検討したいと思います。

 韓国側作製の絵図、地図については、中間報告書、最終報告書で成果をまとめましたが、保坂氏が重要視する官製地図かどうかについては特に大きく触れませんでした。ここでは官製地図に絞って、韓国側が現在の竹島と主張する「于山島」がどのように描かれているのか検討します。


 

1)『新増東国輿地勝覧』所収「八道総図」

 『新増東国輿地勝覧』所収「八道総図」は官撰地図で1530年の刊行とされます。特に韓国側の研究ではよく使用される絵図です。鬱陵島・于山島の二島を描いており、于山島を西側、鬱陵島を東側に描いています。韓国側はこの絵図をもって、韓国側が現在の竹島とする于山島は鬱陵島の東側ではなく、西側に描かれているものの、それは地図製作上の未熟さを示しているのであって、少なくとも日本海上に二島を認識していたことが重要である、したがって位置は不正確であるものの、この絵図によって、朝鮮王朝が現在の竹島を自国領として認識していたことが分かると主張しています。しかしながらこの分析は正確ではありません。

 この絵図は測量に基づいた地図ではなく、朝鮮国内の道や主要な地名を記した絵図にすぎません。また『新増東国輿地勝覧』の本文をみると、鬱陵島の記載は「蔚珍縣」にあり、「于山島、鬱陵島、一に武陵と云う、一に羽陵と云う、二島は縣び正東の海中に在り、(略)風日清明なれば即ち峯頭の樹木及び山根沙渚歴歴見るべし」とあります。下條所長の分析(2005年)によれば、地誌の編纂には編輯方針となる「規式」が存在し、島嶼の場合には、陸地からの距離を明記する原則があったことから、ここでは陸地である朝鮮半島の蔚珍から于山島、鬱陵島の順に島があり、蔚珍から島が見えるということになります。実際に蔚珍と鬱陵島の間には、島はありませんので、蔚珍から見える島(于山島)というのは鬱陵島のことを指すとみられます。したがって、この絵図の記載は実際の現地調査に基づいたものではなく、地誌の記載に符合したものであったことが分かります。このように、当時朝鮮王朝では、鬱陵島周辺の地理的認識が正確でなかったことが読み取れます。これは朝鮮王朝が1417年以降鬱陵島への入島・居住を禁じた空島政策を行なっていたことが関係していると考えられます。島へは朝鮮王朝によって数年おきに調査が行なわれましたが、『朝鮮王朝実録』をみると、記載内容から于山島、武陵島など現在の鬱陵島と考えられる島の記載がみられます。したがってこの絵図は、日本海に二島あることを認識しているのではなく、鬱陵島を混乱して認識していることを示しているといえます。

 

2)『欝陵島図形』

 この絵図は、鬱陵島全体を描いた絵図で、ソウル大学校奎章閣の所蔵です。1711年鬱陵島の捜討官であった朴錫昌により作製されました。朴錫昌が1711年に建てた石碑は現在も残っており、鬱陵島の郷土資料館に展示されています。絵図には「備辺司」の印があるとのことです。「備辺司」とは朝鮮王朝で国境警備を管轄していた機関で、後に機能が拡大、強化され、軍事はもちろん政治・経済・外交・文化など国内の一般行政すべて協議・決定するようになりました。したがって、この絵図は朝鮮王朝から派遣された鬱陵島の掃討官朴錫昌が、鬱陵島での調査に基づき作製したものであり、それを朝鮮王朝の協議・決定機関である「備辺司」が印を押していることから、官製地図といえます。絵図と現地調査の結果と対照の結果、近代的な測量図ではないものの、港、河川、集落などをほぼ正確に描いた絵図であることが分かりました。絵図の記載のなかで注目されるのは、鬱陵島の東側に描かれた島の記載です。在韓米国人のGerryBevers氏の分析によれば、島には「所謂于山島、海長竹田」との記載があり、「海長竹」とは女竹のことで、現在の竹島は竹などが生える島ではないことから、鬱陵島の東2kmに位置する竹嶼(竹島=チクトウ)であるとしました。現在の竹島は鬱陵島の南東約90kmに位置しています。したがって韓国側が現在の竹島と主張する「于山島」は、朝鮮王朝作製のいわゆる官製地図において、現在の竹島でないことが明らかとなりました。なおGerryBevers氏の分析結果に対して、「于山島を描いた地図は数百枚くらいはあるでしょうか。そのうちの数枚の地図から于山島を独島でないと結論づけるのは針小棒大の感があります」(竹島=独島ネットニュース6号)との反論がありました。それに対して、最終報告書において「「于山島を描いた地図は数百枚くらいはある」というのであれば、どの地図に于山島が現在の独島を描いているのかを提示する必要があるのではないだろうか」と反論しました。しかしながら、それに対して現在のところ韓国側から明確な反論は提示されていません。

 

3)『朝鮮地図』所収「欝陵島図」

 『朝鮮地図』は1770年李氏朝鮮21代国王英祖の命によって作製されたとされる、朝鮮八道の郡縣図です。ソウル大学校奎章閣の所蔵です。郡縣ごとに方眼または経緯線を描き、位置情報の距離と方向の正確性を期して作製されたとされています。方眼線は20里ごとに引かれ、備辺司の印があるとのことです。したがってこの地図も官製地図といえます。鬱陵島の形状がこれまで円であったのが、東西にやや長くなっていること、山地に稜線を描いていることなどが特徴です。島の南側には存在しない島が描かれているものの、現地調査の結果、港、河川、集落などほぼ正確に描いていることが分かりました。この地図でも鬱陵島の東側約30里のところに「于山」と書かれており、GerryBevers氏、ソウル大学校奎章閣ともに、現在の竹島ではなく、鬱陵島の東2kmに位置する竹嶼(竹島=チクトウ)であるとしています。つまり、朝鮮王朝によって作製されたこの朝鮮八道の図においても、現在の竹島は描かれておらず、韓国側が現在の竹島とする「于山島」は別の島であったことが分かります。

 

4)『鬱陵島外図』

 1882年朝鮮王朝により鬱陵島検察使として派遣された李奎遠によって作製された絵図です。ソウル大学校奎章閣の所蔵です。この絵図も官製地図といえます。絵図とともに作成された『鬱陵島検察使日記』に「松竹于山等の島、僑寓の諸人、皆傍近の小島を以て之に当てる」とあり、「松竹于山等の島」は鬱陵島の近くの小島にあてていたとしています。しかしながら『鬱陵島外図』に記載されている属島は東側の「島頂」と「竹島」のみであり、現在の地図に比定すると「島頂」は観音島、「竹島」は竹嶼(竹島=チクトウ)となります。つまりこの絵図には、鬱陵島とその属島しか描かれておらず、李奎遠は現在の竹島を調査していなかったことが分かります。1882年に朝鮮王朝は、長年の鬱陵島の空島政策をやめ、鬱陵島の開拓を始めます。つまり、鬱陵島の開拓を始める時期に至っても、朝鮮王朝は現在の竹島を地理的に認識せず、さらには自国領として認識しなかったといえます。

 

5)『大韓全図』、『大韓輿地図』

 『大韓全図』、『大韓輿地図』はいずれも大韓帝国の学部編輯局が刊行した地図です。学部とは学務行政を司る官庁で、1895年に設置されました。学部には大臣官房、学務局、そして編輯局があり、観象所、成均館、師範学校、中学校などを管轄していました。したがってこの地図も官製地図といえます。

 『大韓全図』は1899年の刊行で、朝鮮全図では初めて経緯度が表記されたものです。この地図では、これまでの朝鮮地図と同様に、鬱陵島を西側、于山島を東側で、鬱陵島のすぐ脇に記しています。なお同じ年に刊行された『大韓地誌』では、朝鮮の東限は鬱陵島(東経130度)としています。現在の竹島(独島)の経度は東経131度52分であることから、朝鮮の東限は1899年の時点で、地図、そして文献でも鬱陵島であったことが確認されます。

 『大韓輿地図』は1900年頃の刊行とされています。『大韓全図』の記載と同様に鬱陵島を西側、于山島を東側で、鬱陵島のすぐ脇に記しています。韓国側は、1900年10月の大韓帝国勅令41号により、鬱陵島を郡に昇格し、同時に石島も韓国領とし、この石島こそ独島であるとしています。しかしながら、この地図には、鬱陵島の属島として東側に于山島を記すほか、鬱陵島の南には実際にない島を記しているものの、石島や独島の記載はみられません。鬱陵島の南に島を記したのは、『朝鮮地図』などの地図を参考にしたと考えられます。このようにわが国が現在の竹島を日本に編入する(1905年)直前においても、韓国側の官製地図では現在の竹島の記載はなかったことが指摘できます。保坂教授は「江戸時代と明治時代日本で作成された官製、官許の日本地図には独島が入っていない」と主張していますが、最終報告書で触れたように、韓国側では現在のところ官製地図においても、民間が作製した地図においても、現在の竹島は描かれていないのです。

 

 さて、最近地図の分析について次のような指摘がありました。「元来、地図は視覚的に訴える力が大きいだけに、ややもすると数枚の古地図をとりあげて領土を論じがちですが、実のところ、不正確な古地図は国際裁判においてはせいぜい伝聞証拠くらいの価値しか持たず、特に測量にもとづかない地図は証拠能力に乏しいのが実状です」(半月城通信No.127)。国際法が専門の荒木教夫氏の論文を引いて、不正確な古地図は国際裁判には価値がないとしています。しかしながら、荒木氏の論文を読むと、一部のみの引用であることが分かります。荒木氏は、国際裁判において価値が認められてきた地図は、過去の国境画定作業に基づいた国境条約に附属した地図でも「当事国の合意」を示すものが基本であること、紛争当事国の公的地図は紛争解決の決定的証拠とならないものの、関係領土において、主権を享有しないことを自ら認めているような地図は重要な意味を有するとしています。しかしながら、韓国側では、係争地(竹島)を自国にとって有利に描いた公的地図など1枚もなく、それ以前の問題であり、係争地そのものを描いた公的地図が存在しないのです。さらに、係争地での主権を行使した記録すらないのです。つまり、韓国側には、国際裁判において証拠となる地図が1枚もないということが明らかになったといえます。

(元竹島問題研究会委員 島根大学法文学部准教授 舩杉力修)

 

【文献】

堀和生「一九〇五年の日本の竹島領土編入」(朝鮮史研究会論文集、24号、1987年)

李燦『韓国の古地図』(韓文)、汎友社、1991年

荒木敦夫「領土・国境紛争における地図の機能」(早稲田法学、74巻3号、1999年)

下條正男『竹島は日韓どちらのものか』、文藝春秋、2004年

下條正男『「竹島」その歴史と領土問題』、竹島・北方領土返還要求運動島根県民会議、2005年

保坂祐二「日本古地図が証明する韓国の独島領有権」(韓文)(嶺南大学校独島研究所及び独島アーカイブ開設記念国際学術大会・発表論文、2005年)

韓国・国立中央博物館編『行ってみたいわが領土、独島』(韓文)、韓国・国立中央博物館、2006年

「江戸時代の地図の取りあげ方、舩杉氏への批判」(半月城通信No.127、2007.7.25)


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