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「旧韓国外交文書」にみる松島

 

 2005年竹島問題研究会の発足後、県内外の多くの方から、竹島にかかわる資料について多くの情報が県総務課へ寄せられています。そのなかには従来の竹島研究でもとりあげられていない資料も多くあり、おかげさまで竹島研究を大きく前進することができました。

 昨年江津市在住の方から、韓国側の史料について次のような情報提供がありました。

 


 

 『旧韓国外交文書』第17巻ロシア編に収録された1031号文書「ロシア商船、鬱陵島近方で韓国人46名の救助事実通告」(1898年=明治31年4月)に「マツシマ島」(ロシア語)、「日本マツシマ」(韓国語)という島名表記を見つけたのでコピーを送ります。この「マツシマ」は鬱陵島のことを指しているかもしれませんが、韓国語訳に「日本」とわざわざ記されていることなどから、鬱陵島とは別の島(現在の竹島)だと思うのですが。
 


 

とのことでした。江戸時代わが国では今日の竹島を松島、鬱陵島を竹島と称していました。

 『旧韓国外交文書』は、1965年から1973年にかけて韓国・高麗大学校亜細亜問題研究所の旧韓国外交文書編纂委員会が編さんし、高麗大学校出版部が刊行したものです。全22巻で、日本、清、アメリカなど国ごとに文書が整理されています。日本の大学、研究機関で全巻を所蔵しているのは25機関しかなく、国内でも大変貴重な文献といえます。

 この外交文書は1898年4月29日(ロシア暦では4月17日)ロシア公使から韓国外部大臣に宛てられた照会文書です。文書には以下のようなことが記されています。

 ロシア水軍大提督からの電報によれば、ウラジオストクを出港し、日本海を航行し、旅順へ向かっていたロシア商船「ペテルブルグ号」号が、「日本マツシマ」付近で、韓国人46名を救助しました。46名のうち男は31名、女は7名、幼児が8名でした。彼らがどこから来たか分かりませんが、釜山へ向かっていたと言っています。「ペテルブルグ号」は彼らを長崎へのせて行きました。

 これに対し、韓国側は翌30日に外部大臣がロシア公使に対して照覆文書を出し、ロシア水軍大提督に対して感謝の意を伝えています(1032号文書)。さらに5月2日も韓国側は文書を出し、ロシア水軍大提督に対して再び感謝の意を伝えています(1033号文書)。

 重要なのはこの外交文書に記されている「マツシマ」が今日の竹島であるかどうかという点です。韓国側の研究では、明治期においても地図上で「松島」と表記されていれば、それは現在の竹島であると主張しています(例えば、2006年10月25日、朝鮮日報及び・東亜日報の報道)。また最近、このロシア商船による韓国人救助の件が、外務省外交史料館所蔵のわが国の公文書(『困難船及漂民救助雑件』)に記載があることが報告されました。文書には「韓国松島」と記されていることから、これは現在の竹島=独島であり、「韓国松島」を確認したことは重要であるとしています(半月城通信No.128)。

 しかしながら『旧韓国外交文書』所収の1072号文書、ロシア公使が韓国外部大臣に宛てた5月17日(ロシア暦では5月5日)の「ロシア船が救助した韓国人の名前を送付すること」には、遭難した場所の地名をロシア、韓国とも「ダジュレー」と記しています。さらに遭難者一覧の前には「ダジュレー(Dagelet)海口で破船した韓民姓名記録」とあります。ダジュレー島とは現在の鬱陵島のことを指します。1787年フランスが鬱陵島を発見した際に、発見者であるダジュレーの名前が付けられ、以後西欧の地図ではダジュレー島と記されました。また『旧韓国外交文書』所収文書の表題は、原文書に記載されたものではなく、編者である高麗大学校亜細亜問題研究所旧韓国外交文書編纂委員会が付けたものです。1031号文書の表題には「ロシア商船、鬱陵島近方で韓国人46名の救助事実通告」とあることから、『旧韓国外交文書』の編者も韓国人46名が遭難した場所を、現在の鬱陵島と解釈していたことが分かります。つまり、露韓両国の外交文書で記された「マツシマ」は現在の竹島ではなく、鬱陵島のことだったのです。鬱陵島は江戸時代日韓両国で領有権紛争が起こりましたが、朝鮮王朝は1882年に空島政策をやめて入植を開始し、日本政府も明治初期には朝鮮領と認識していました。したがって、日本の公文書に「韓国松島」と表記されたのは当然といえるでしょう。露韓両国の外交文書にある「日本マツシマ」という表記は、日本領松島という意味ではなく、日本のいう松島(日本名松島)という意味と考えられます。

 それではなぜ外交文書で「日本マツシマ」なる表記が出てくるのでしょうか。これは当時刊行されていた海図に、現在の鬱陵島を「松島」とも表記していたためです。当時刊行された日本の水路部発行の海図は、1981年(明治24)発行海図95号「日本本州九州及四国附朝鮮」、1896年(明治29)発行海図301号「朝鮮全岸」で、鬱陵島には「鬱陵島(松島)」と記し、現在の竹島には「リアンコールト岩」と記しています。こうした地理的認識は海図だけでなく、民間刊行の地図においても多くみられます。つまり、ロシア政府も韓国政府も海図をもとに、現在の鬱陵島を「松島」とも認識していたと考えられます。

 韓国側は、現在の竹島は当時「于山島」、または「松島」と呼ばれていたと主張しています。しかしながら、これまでの研究会の分析により、当時の「于山島」は、鬱陵島の東側2kmに位置する竹嶼(竹島=チクトウ)であることが明らかになりました。さらに今回の外交文書の発見により、韓国政府は現在の鬱陵島を当時「松島」とも認識していたことが判明しました。したがって、鬱陵島より南東約90kmに位置する現在の竹島は、当時の「于山島」、「松島」には該当せず、当時韓国政府は、現在の竹島を自国領として認識していなかった可能性が極めて高いといえます。今回の資料の発見により、現在の竹島が韓国領であるという根拠はまた覆されました。江津市在住の方からの資料提供がなければ、こうした成果を得られることはできませんでした。竹島問題の解決のためには、今後も地道に史料を発掘し、史料に基づいた分析が必要であるといえるでしょう。

(元竹島問題研究会委員島根大学法文学部准教授舩杉力修)

 

 

【文献】

高麗大学校亜細亜問題研究所旧韓国外交文書編纂委員会編『旧韓国外交文書』、高麗大学校出版部、1965年〜1973年

「19世紀日本地図に独島は韓国の地」(朝鮮日報、2006年10月25日)

「1895年日本軍地図にも独島を韓国の地と表記」(東亜日報、2006年10月25日)

「「韓国松島沖」での漂民救助」(半月城通信No.128、2007年8月)

 


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