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隠岐の『隠州視聴合記(紀)』について

はじめに

 

 最近隠岐島の知夫(ちぶ)村の神職家にあった『隠州視聴合記』を安政5(1858)年に写したという筆写本が発見された。この写本は他の『隠州視聴合記(紀)』の「国代記」が「日本ノ乾地以此州為限矣」とする「此州」の部分が「此国」となっている点が注目される。すなわち「州」を「しま」と解釈する研究者と「くに」と考える研究者の論争の存在する中で数多くある写本に「此国」と記されたものは初めてである。

また隠岐に遺る『隠州視聴合記(紀)』は、従来島後(どうご)の隠岐の島町釜(かま)の佐々木家本と田中豊治氏が『隠岐島史料(近世編)』に採用された隠岐の島町今津の服部家所蔵の筆写本が知られていたが、この機会に隠岐全体に存在する筆写本を調査してまとめておきたいと思う。

 

 

1、『隠州視聴合記(紀)』概観

 

 『隠州視聴合記(紀)』は寛文7(1667)年松江藩士斎藤豊宣(とよのぶ)が書き、その子斎藤豊仙(とよひと)が補訂したと考えられている隠岐地方に関する最古の地誌である。すでに名古屋大学の池内敏氏がその著『大君外交と「武威」』で散逸したものも含めれば24種類の定本、写本が存在することを示され、その解釈等にも幅広い追及を展開されている。それによると松江藩主の直系松平直亮が寄贈し、現在島根県立図書館所蔵のものが原本もしくはそれに近いものと推定されること、隠岐の産物の記載の違い等19ヶ所の異同で系列が分類出来るとのことである。また隠岐出身で現在大阪在住の大西俊輝氏が『続日本海と竹島』なる著書でくわしい解読を試みられている。

 『隠州視聴合記(紀)』の内容は序、隠岐全体を扱った巻一の「国代記」、島後を扱った巻二の「周吉(すき)郡」、巻三の「穏地(おち)郡」、島前(どうぜん)を扱った巻四の「島前紀」に分かれ、巻二、三、四はそれぞれの郡の郷・村里単位の地理的特色や名所、旧跡等を紹介している。巻四は島前の知夫郡、海部(あま)郡について紹介した上に、延喜格式神名帳、隠岐国内の神社仏寺、名所を詠んだ和歌、知夫郡焼火山縁起(たくひさんえんぎ)、隠岐に流された僧侶文覚(もんがく)についての論考等が記されている。また序に続いて目録(目次)と島後図、島前図の簡単な地図も記されているが、島後図に現在は鬱陵島当時は竹島と呼ばれていた島や現在の竹島当時の松島は描かれていない。

2、隠岐の『隠州視聴合記(紀)』筆写本について

 

 (1)佐々木家本について

 佐々木家本とは、隠岐島後の釜村の庄屋(公文・くもん)佐々木家に伝わるもので、巻末に「隠岐国周吉郡釜村公文拾九代目佐々木吉左衛門源重延代」とそれとは異なる筆跡で「秘蔵書釜村佐々木真一延熙代」とある。斎藤勘助(豊宣・とよのぶ)が松江藩主松平綱隆から隠岐郡代に任命され、隠岐に着任した時釜村の庄屋は拾八代佐々木吉左衛門で、彼が協力して完成した『隠州視聴合記』を筆写させてもらい、拾九代吉左衛門が名を記して佐々木家の蔵本としたと考えられている。佐々木真一の方は第二十八代で嘉永元(1848)年生まれ、大正9(1920)年死去した人物である。続く第二十九代当主佐々木章氏が当時の西郷町に寄贈され、現在隠岐の島町教育委員会が管理されている。大西俊輝氏の『続日本海と竹島』はこの佐々木本を底本として、他の数種類の筆写本で補いつつ論考を進められている。島根県の石塚尊俊氏が『日本庶民生活史料集成』に掲載された『隠州視聴合記』も佐々木家本を底本にし、後述する服部家本と大正3(1914)年谷口為次氏が出雲文庫に掲載された西ノ島町の松浦家本で補いつつ構成されている。この石塚氏による『隠州視聴合記』は隠岐の焼火神社の神主で歴史研究者であった故松浦康麿氏が『隠州視聴合記(紀)』の中で善本と評価されている。

 佐々木家本は文字の面で、記が「紀」、島を「嶋」の字で統一したり「飯山ノ南二建福寺ト云アリ」のようにかな部分がカタカナで書かれている特色がある。また国代記の「行二日一夜有松嶋又一日程有竹嶋」の竹嶋の文字の行間に「五十猛嶋ト国史二云」の挿入の記載があることが知られている。さらに隠岐の産物について多くの写本等が漆(うるし)、椿実(つばきのみ)、山椒(さんしょう)、紫藻(のり)、鯛(たい)、鰯(いわし)、鰤(ぶり)、●(魚へんに昜)(とびうお)、鯖(さば)、石决明(あわび)、乾海参(ほしなまこ)、烏賊(いか)、馬皮(うまかわ)をあげているが、佐々木家本には乾海参が欠落している。また島後と島前を描いた地図の島後には「嶋後図」と大きく書かれているが、島前にはその表示が漏落している。

 (2)知夫村宮司佐藤家本『隠州視聴合記』(筆写本)について

 最近出雲大社の神官で国学者であった冨永芳久が安政5(1858)年隠岐の知夫里島の佐藤宮内家で筆写させてもらったという筆写本が発見された。冨永芳久(とみながよしひさ)

は文化10(1813)年生まれの出雲大社の神職で和歌に通じ『出雲国名所歌集』を著し、また本居内遠(うちとお)に師事して国学を修めた人物である。彼が筆写した『隠州視聴合記』を所有していた佐藤宮内家については『隠岐国神社秘録』が知夫郡の項に「一宮大明神神主佐藤宮内郡ノ里ニ在リ、社地広く大松列立り、(中略)知夫村中の産神ニて、造営も村中懸れり、社領高壱石棟札ハ万治二年とあり、(中略)当社ハ国内神名帳なる天佐自彦大明神ニて式ニも天佐志比古ノ命神社とある是也、一宮と云ハ知夫村の一ノ宮なる申の名也とぞ」とその祭司する神社のことを記している。佐藤家本の『隠州視聴合記』は目下発見されておらず、この家が昭和期に火災で全焼したこともあり、原本が見つかる可能性は低い。冨永芳久が奥書に時間をかけて筆写し、さらに時間をかけて原本と校合したと書いているので、原本に近いものとして内容をみてみたい。

 佐藤家本は目次の形式やふりがながカタカナ、隠岐の産物に乾海参や地図の表示に島前図には「嶋前図」の記載がない等佐々木本と同じである。ただ合記(紀)の記(紀)が記であったり最初に記したように「国代記」の「日本ノ乾地以此州為限矣」の州の字が「国」であったり違いがある。『隠州視聴合記』の研究において、この部分の州を「しま」とするか「くに」と解釈するかの論争が続いているなかで国と記したものは初めての発見である。冨永芳久が国学者であることで注目したいのは本居宣長がその著『玉勝間』二の巻で「国を州といふ事」と題して州は中国からの影響による慣習的漢字の活用で「国々の名を某州といふことは、いづれの御代の御さだめにもあらざること也」として国の字を使用することを主張しており、冨永芳久が本居家の養子本居内遠に師事していることから本居宣長の主張に沿ったことも考えられる。石見国浜田の学者斎藤彦麻呂も文化6(1809)年書いた『諸国名義考』に「国号を何州某●(刀三つのしゅう)などといへるハ後世小ざかしき儒者外国に習ひて書き始めて広がりたるにて朝廷の御制にあらず」と国の字をもちいることを勧めている。池内敏氏の研究によれば『隠州視聴合記』に州の字が66ヶ所使用されているとのことなので、今回冨永芳久の筆写本でその他の州を集中的に調べてみた。結果は「日本ノ乾ノ地以此国為限矣」の部分以外、州が国になっている部分はなかった。それどころか雲州、伯州の一部は雲●(刀三つのしゅう)、伯●(刀三つのしゅう)と筆写されていた。なお冨永家は現存し、最近『大社町史』編纂委員の方々が同家所蔵の古文書を調査され目録も製作されたが、その中に『隠州視聴合記』の筆写本はなかったという。

 佐藤家本のその他の用語では石决明をその他の本が「あわび」としているのに対し、「イシガレイ」とカタカナのふりがなをつけている。

 (3)焼火(たくひ)神社宮司松浦家蔵の『隠州視聴合記』

 焼火神社は現在の隠岐郡西ノ島町美田(みた)の海抜451.7メートルの焼火山の頂上にある神社である。『隠州視聴合記』にも「焼火神社縁起」の記載があり、10世紀末から焼火権現、焼火山雲上寺等と呼ばれた修験霊場で航海安全の守護神として全国的に有名であった。江戸時代安藤広重が描いた「六十余州名所図会」にも描かれている。この神社の宮司を永く務めた松浦家に所蔵される『御巡見御社参記』には、寛永10、寛文元、延宝9、元禄4、宝永7、正徳2、正徳6、享保2、延享3、宝暦11、寛政元、天保9年に幕府の巡見使が参拝したことを記録している。その松浦家にも『隠州視聴合記』がもともと所蔵されていた。「此本元ハ隠州島前知夫郡●(崎の大が立)(美田村の誤り)雲上寺之什物也、天保六甲未歳ニ伯州会見郡弓ヶ濱上道邑足立玄脩(あだちげんゆう)仲夏上中旬までに写之」とある筆写本が鳥取県境港市東(あずま)家と島根県立図書館にそれぞれ所蔵されている。足立玄脩については、『隠岐の文化財』一号(1983年)の「隠岐国代記考証(国代考証)について」なる論文で井上寛司氏が医者で隠岐と関係のあった人物とされている。奥書から天保7(1835)年足立玄脩が隠岐の焼火権現・雲上寺のものを筆写し長らく所蔵していたが、大正14(1925)年東家が譲り受け、さらに東家のものを誰かが昭和59(1984)年写させてもらいそれが島根県立図書館へ寄贈されていた。

 松浦家本が佐々木家本等と異なるのは、地図に「島前図」の表示があること、島の字が大半は「島」であるが、国代記の最初に隠岐嶌、嶌前と「嶌」、「見高麗如自雲州望隠●(刀三つのしゅう)」の部分には「●(刀三つのしゅう)」、嶋根郡のところでは「嶋」と異字が混在する等がある。一方ふりがながカタカナであること、隠岐の特産物に「乾海参」(ほしなまこ)がないこと等は一緒である。

 東家本、島根県立図書館蔵の筆写本には「国代記」の後に「国代記考証(国代考証)」が掲載されている特色がある。「国代記」は隠岐国の代々の支配者を綴った部分であるが、享保17(1732)年頃この「国代記」だけを別冊の再検討、考証した本として氏名不明の人物が作成したのが、『国代記考証』である。内容は「視聴合記云、昔対馬守源義親国也、其後薩摩守平忠教在雲州美保関領之者未考也」と最初に考証の必要を記して、検討を開始している。前述の井上寛司氏の論文によれば、『国代記考証』は海士町村上家、隠岐の島町松浦家、同横地家、同村上家に所蔵されているのを確認されているが、また別に西ノ島町松浦家にも当初所蔵されていたが紛失しており、足立玄脩が筆写した『国代記考証』が松浦家本によっている。『国代記考証』の作者については井上寛司氏は「隠岐在住ないし長年隠岐に住み、隠岐で没した人」、「島前の村上、笠置家の資料に全く触れていないので、島後の隠岐の島町に居住した人」、「検討に『雲州守護記』、『太平記』、『後太平記』等幅広い歴史書を読み、批判的精神をもっていた人」を想像されている。なお松浦家本の原本については、現在の松浦家当主松浦道仁氏の祖父松浦静麿氏が「自分の父が出雲文庫の編集の時、編集事業を手がけた新聞社に貸与した」と手記に記されているので、谷口為次氏の名で残る出雲文庫の『隠州視聴合記(紀)』の底本は松浦家本の可能性が強いが、原本の所在は不明となっている。

 (4)今津の服部家本について

 服部家本は島後の今津村の庄屋で、斎藤勘助に協力したことがわかっている服部家の所蔵である。ただその服部家の子孫は隠岐を去られ関西地区に移住しておられ、原本は隠岐にはない。最初に記した『隠岐島史料(近世編)』が服部家本を採用しているのでそれにより考察してみたい。

 服部家本は合記は「合紀」である。島前、島後の最初の地図は1枚に一緒に描かれている。「国代記」や「焼火山縁起」、「文覚論」は返り点はあるがすべて漢字でふりがなはない。

巻二の「周吉郡西郷」からはふりがながひらがなで入ってくる。文章の配置では「名所和歌」が最後に回っている。佐々木家本と同様初期の筆写本の色彩を濃く残している。

 (5)その他の隠岐の『隠州視聴合記(紀)』について

谷口為次氏の名で残る出雲文庫の『隠州視聴合記』は『懐橘談』と共に、一冊の本に製本されているが、隠岐の島町の郷土史家故永海一正氏は『隠州視聴合記』の部分だけを抜き出して一冊の本として後世に残された。海士町の大庄屋村上家の現在の当主村上助九郎氏は自分の家にも筆写本の『隠州視聴合記』があったが、隠岐の歴史資料編纂事業に提出した後、返却されず行方不明になっていると語っておられる。

 

写真1

 写真1:佐藤家本表紙【古代歴史博物館所蔵】

 

 

 写真2

写真2:国代記部分

 

 

 

 


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