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「石見タイムズ」が語る李承晩ライン

はじめに

 
昭和27(1952)年1月18日、韓国による李承晩ラインが不当に設置され、2月11日には日本船が韓国側から銃撃され船員1人が死亡、3月2日には最初の拿捕船が出た。『日韓漁業対策運動史』によると日本の拿捕漁船328隻、抑留船員3,929人、死傷者44人が李ラインによる日本側の被害総数である。昭和40(1965)年日韓漁業協定により李承晩ラインが消滅するが、同年11月6日付け「島根新聞」は、李承晩ラインによる島根県関係の被害は抑留121人、捕獲された船11隻と記している。今年は李承晩ライン設置の年から60年目にあたる年である。

 竹島問題研究会委員の藤井賢二氏が『第2期竹島問題問題研究会中間報告書』(平成23年2月刊行)にこれまでご本人が発表されて来た論文、島根県東部の漁業者からの聞き取り、朝日新聞等中央紙、島根新聞、山陰中央新報等島根県の地方紙に掲載された記事を駆使して「島根県の漁業者と日韓漁業紛争」と題する注目すべき論考を発表された。それに触発されて、藤井氏が取り上げられていない石見地方で刊行されていたローカル紙「石見タイムズ」(毎週土曜日発行の週刊紙)が記す石見地方の視点からみた李承晩ライン問題について以下に紹介してみたい。

1、「石見タイムズ」について

 
「石見タイムズ」は、島根県浜田市出身の小島清友(きよとも・1892〜1958)、小島清文(きよふみ・1919〜2002)父子が昭和22(1947)年7月、故郷に帰り創刊した石見地方を販路としたローカル紙である。清友は戦前満州で活躍したジャーナリストで、昭和3(1928)年新聞界の欧米視察団に参加した時、団長の朝日新聞杉村楚人冠(そじんかん)が推奨した地方紙の意義を実践したと思われる。子の清文は太平洋戦争に学徒兵として出陣、戦艦「大和」で暗号士官の勤務後フィリピン戦線でアメリカ軍の捕虜になりハワイの収容所で過ごす重い戦争体験を持った。その収容所で宣教師の子として日本で育ったオーティス・ケーリと知り合いとなった。そのケーリが戦後東京で式場隆三郎等と「東京タイムズ」を創刊し既存の日本の新聞と相違した民主主義を主張するローカル紙的新聞を発刊すると、それに呼応するように父と共に浜田へ帰り、父は経営全般を担うオーナーとしての仕事、子は実務を担当するローカル紙を発刊したのである。清文はこの時27歳だった。

 「石見タイムズ」は最盛期の頃7000部余の販売数を石見地区で展開した。小島父子と親交のあった棟方志功が版画でしばしば紙面を飾り、浜田で個展を開いたこともあった。紙面は民主主義、男女同権、労働問題、教育問題等に紙面を大きく割いたが、石見地方の漁業問題にも鋭い視点での取材をしている。「石見タイムズ」は清友の死で小島家の経営から他へ移ったが昭和47(1972)年10月まで刊行された。「石見タイムズ」については吉田豊明著の『伝説の地方紙「石見タイムズ」』(明石書房)が全体像をわかりやすく説明しているし、郷土誌『郷土石見』にも小島清文自身の寄稿でいくつかの経営の問題点が理解出来る。

 

2、「石見タイムズ」が語る李承晩ライン

 

 「石見タイムズ」を拾い読みして関心をもったものを書き出してみたい。まず昭和27(1952)年李承晩ラインが設定され、日韓両国の対立が激化していた昭和28(1953)年3月14日付けの同紙は近づいた日米合同委員会(3月19日開催)は注目すべきだと主張している。その理由として、竹島を爆撃訓練場にしていた米極東空軍ウェイランド司令官が去る2月27日爆撃訓練の停止を韓国政府に通報したが、日本政府には通報しなかったことをあげている。「竹島か独島か」という見出しで注目を呼びかけているが、結果的には合同委員会で米軍が利用する日本の施設区域のリストから竹島が削除されるという形で、竹島を日本領と米国が認めたことは周知の通りである。

 昭和29(1954)年1月1日付けの同紙は、島根県出身者で当時外務政務次官で、石見タイムズの顧問であった小瀧彬が「竹島問題ー国際司法裁判所に提訴以外に途なし」という主張を寄稿している。文章の横には前年の5月浜田にあった島根県水産試験場の試験船「島根丸」が、竹島に韓国人がいるのを発見した時の写真を掲載している。なお小瀧彬の竹島問題の解決を国際司法裁判所でという提案はその後日の目を見、同年9月26日、日本政府が韓国政府に通告したが、韓国側は9月28日拒否を伝えてきた。

 昭和30(1955)年2月、日本のトロール船「第6あけぼの丸」が生月島沖を航行中、韓国フリゲート艦の追突を受け船員21人が死亡した。それ以降以西底曳網漁船、以東底曳網漁船、沖合底曳網漁船、サバ釣漁船と拿捕される日本漁船が続いた。9月15日には浜田港所属の第1八束丸も拿捕された。第1八束丸は島根県八束郡千酌村大字北浦の渋谷兵次郎が所有する二艘曳底曳網漁船で当時浜田港を拠点に操業していた。この拿捕に日本政府は強く抗議を続けたが、韓国側も強硬な態度を見せ11月17日侵犯する日本漁船に砲撃を声明、11月19日には撃沈を声明するにいたった。11月26日付け「石見タイムズ」は「各船団に厳戒電報」と緊迫した事態を報じている。すなわち、浜田市にある日韓漁業対策島根県本部が出漁中の全漁船に打電で警戒を呼びかけたこと、浜田市が日韓漁業対策協議会の開催を要請したこと、当時40人にのぼっていた抑留船員から8月頃までは月に2、3回は便りが届いていたが、9月の半ば以降まったく音信不通になったこと等である。

 昭和31(1956)年4月18日、浜田港を拠点としていた第6浜富丸が拿捕された。4月28日付けの「石見タイムズ」は「韓国抑留船員56名に」として浜田港所属の拿捕された船5隻、抑留船員総数56名について報じている。拿捕された船は、昭和29(1954)年11月9日に拿捕された第1大和丸、第2大和丸(この2隻は浜田港を拠点に出漁していたが、本来は島根半島の美保関町稲積地区の住民によって構成された船団であることを藤井賢二氏が論文で触れられている)、同年11月20日の第3平安丸、前述の第1八束丸と今回の第6浜富丸である。なお、「石見タイムス」は同じ紙面でこうした緊迫した状況が続いている背景には当時展開されていた日本人の在韓私有財産の所有権をめぐる対立があると論説で分析している。

 同年5月19日付けでは平安丸乗組員石田儀一郎さんが、収容所から石見タイムズに送った手紙全文を「この世の地獄一日一日と弱る体力」のタイトルで掲載している。主な内容は、「韓国漁業資源保護法違反」という罪名で拿捕され、裁判所で船長1年、機関長、甲板長10ヶ月、甲板員8ヶ月の判決を宣告されたがすでに2年が経つのに釈放されず、一日も早い帰国を故郷や家族のことを想いつつ待ちわびている。コンクリートづくりの収容所は冬は零下15度にもなり、膚を裂く寒さで、夏は狭い監房の中で暑さに喘いでいる。私たちの苦しみを貴紙を通じて世論に訴えて欲しいというもので、石田さんのご両親、奥さん、3人の子供さんの集合写真も添えられている。浜田港関係の抑留者の帰国が実現するのは、昭和33(1958)年1月以降である。

 同年6月2日付けの「石見タイムズ」は5月29日の午前6時半から浜田市魚市場で抑留船員の留守家族や拿捕された船の関係者を含む約1000人が集まり漁民大会を開き、その後「わが子や夫を早く返せ」、「在日韓国人を早く本国に帰せ」、「政府は日韓漁業協定を確立せよ」、「留守家族を援護せよ」等のプラカードを持ち市内を行進した。また同日代表25人が政府に請願すべく列車で東京に向かったことを報じ、ハチ巻き姿の留守家族の代表と思われる女性の姿を写真で載せている。その後も折々「石見タイムズ」は李承晩ライン関係の記事を報じ、昭和47(1972)年10月28日付けの1325号で終刊を迎えている。

 浜田市の郷土史家森須和男氏は「石見タイムズ」以外の「朝日新聞」、「毎日新聞」、「山陰新聞」等多くの新聞等の資料も駆使して「李承晩ライン宣言から日韓条約発効までに拿捕された島根県の漁船」を図表化して発表されている。それによれば船数11隻、乗組員114人である。それを最後に掲載させてもらうことにする。

 

 

 

 

 

石見タイムズ本社前写真

写真1創設期の石見タイムズ社最前列中央が小島清友、2列目自転車に

 手をおくのが小島清文(『伝説の地方紙「石見タイムズ」より』)

 

石見タイムズ1面棟方志功

 

写真2小島親子の友人として同紙に挿絵を書いた棟方志功

(石見タイムズ昭和32年1月1日付「文殊慈賢両薩丸紋顔妙図」棟方志功画)

島根県立図書館所蔵

 

 

石見タイムズ

 

写真3李承晩ラインによる拿捕を報ずる同紙

(石見タイムズ昭和30年12月10日付1面)

島根県立図書館所蔵

 

森須和男氏作成

 

写真4森須和男氏調査の島根県所属船の拿捕状況

 

(写真2−4はクリックすると拡大します)

 

 

(竹島問題研究顧問杉原隆)

 

 

 

 

 

 

 


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