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隠岐諸島、竹島、鬱陵島での潜水器漁業

はじめに

 潜水器漁業とは特殊な潜水服を身にまとった潜水夫が海底に降り、海上の船からパイプで空気を挿入、排気をしてもらいながら鮑 ( あわび ) 、栄螺 ( さざえ ) 等の貝や海鼠 ( なまこ ) を漁獲する漁業で、この方法で数時間は海底に居ることが出来るという。潜水器漁業は後竹島での海驢 ( あしか ) 猟で知られる中井養三郎が、明治 18(1885) 年漢学を東京で学ぶため上京するが折からの実学ブームに感化されて潜水器漁業での実業家を目指すことになり、機材をそろえると明治 23 年以降ロシアのウラジオストック沿岸、朝鮮の全羅・忠清道、鳥取県の御来屋 ( みくりや ) 、島根県の隠岐等で活動を開始したこと(1)や島根県安濃郡川合村 ( 現在の島根県大田市川合町 ) を本籍として島根県で最初の水産伝習所の卒業生の一人である庵原文一 ( いはらぶんいち ) が徳島県の水産技手になるや明治 20 年半ばから同県で潜水器漁業を指導し、特に現在徳島県阿南市に属する伊島では庵原の指導の下、島民の多くがこの漁業に取り組み朝鮮近海にまで進出し、莫大な漁獲と収入獲得を実現させたこと等はすでに研究者(2)によって報告されている。

 潜水器漁業は、同漁業の研究者である徳島県立博物館の磯本宏紀の論文(3)等によると、江戸時代末期長崎鮑ノ浦で後の三菱造船所の船梁を築造する海底作業にオランダから持ち込まれた潜水器が漁業用に転嫁したものだという。すでにこれまでの研究で、明治 10 年前後には現在の千葉、静岡、長崎、島根県等で漁業に利用されている実態が確認出来る。『長崎県漁業誌』 ( 明治 29 年刊 ) は「鮑採リ二三種類ノ法アリ、一ハ海士裸体ニテ海底ニ潜ミ手採リス。二ハ鉾ヲ以テ船中ヨリ海底浅所ノモノヲ突採ス。三ハ明治十二年ヨリ発行シタル水潜器械ヲ以テ手採リスル。鉾突キ、水潜器採リハ小鮑ヲモ採リツクス害ガアルタメ、一定ノ規則ヲ設ケ取締ヲスル」と潜水漁業開始の年と鮑漁業の方法を解説している。同じ長崎の地元紙「東洋日の出新聞」の明治 35 3 8 日付けの「本県の遠洋漁業」の記事には「潜水器明治 14 年始めて朝鮮海に試用せしより」とか「当時長崎市内の水産者のみで潜水器 80 台を有す」、「西彼杵南松浦では 300 名近い漁夫がそれに従事」等のことが述べられている。明治 16 年日韓通漁条約が締結され朝鮮沿岸への出漁権が容認される直前にこうした状態だったから明治 16 年以降は一気に朝鮮沿岸への潜水器漁業も展開したものと考えられる。

 島根県での潜水器漁業は隠岐諸島近海が最初である。確かに隠岐地方の漁業の歴史を調べると潜水器漁業はかなり古くから存在し、竹島や鬱陵島周辺でも行われていたこともわかってきた。以下に若干のその具体像を紹介してみたい。

 

 

1.隠岐諸島での潜水器漁業

 昭和 8(1933) 年島根県隠岐支廳が編纂、刊行し昭和 47 年にも復刻された『隠岐島誌全』によると、隠岐の近代化は明治維新前後の激動の歴史から始まった。すなわち長らく幕府からの預かり地として隠岐を支配していた松江藩の施政に不満を持つ隠岐島民が慶応 3(1867) 年に隠岐代官所を襲うことから始まった隠岐騒動により、隠岐諸島の所管が鳥取県に移った。明治維新を経た明治 2(1869) 2 月隠岐県が置かれ、久留米藩士真木直人が知県事として赴任したが、同年 8 月には石見銀山の地に設置されていた大森県と合併され、翌明治 3 年正月大森県が浜田県に併合されると隠岐はその管轄下にはいった。その浜田県が明治 9 4 月島根県に併合されると隠岐は島根県に含まれ今日に至ることになる。

 その隠岐はすでにあった島後の周吉 ( すき ) 郡、穏地 ( おち ) 郡と島前の海士 ( あま ) 郡、知夫 ( ちぶ ) 郡の 4 郡がそのままであったが、明治 9 12 4 郡統括の郡長として高島士駿 ( たけし ) が着任した。高島は鳥取藩の士族で鳥取藩が隠岐を支配していた頃から、高島律蔵の名で隠岐の官吏として過ごしており、その後明治 18 8 月までの隠岐 4 郡の郡長の期間を含めるとまる 20 年間隠岐の行政、殖産興業の近代化に尽力した。その具体像は藤田新の論文「隠岐四郡郡長・高島士駿明治前期地方官の生涯」(4)にくわしい。彼が隠岐で実現した功績の一つは隠岐の漁業に潜水器を導入したことである。当時の隠岐では鮑、栄螺等の捕獲は「其捕獲ノ方法ニテモ僅カニ竿頭ニ鉄鈎ヲ附着シタル器具ヲ用ヒ」 ( 西ノ島町美田舟越安達家文書 ) という漁法で漁獲量は少なかった。そうした中で肥前国五島松浦郡の漁夫御手洗時太郎なる者が隠岐へ来島して潜水器漁業の効用を高島士駿に話した。高島は「四郡ノ漁村ニ説諭シテ、該業ヲ特約シテ御手洗時太郎ニ興サシメ」 ( 『黒木村誌・昭和 43 年刊』 ) たのでその後数年にして隠岐やその近隣地域に潜水器漁業が広まったという。御手洗時太郎については平成 29 3 月藤井賢二氏等と長崎県の漁業に関する諸問題について調査したいと長崎大学水産学部を訪問し、同学部の名誉教授片岡千賀之先生に数々のご教示を得た。先生は五島列島の漁業史にも精通しておられるので御手洗のことを質問したが、記憶にない人名だとのことだった。高島は島前地区に明治 14 年設立された捕魚採貝の漁法の改善を目指す「海産社」という団体を支援したし、明治 16 年島根県は時勢に対応して「潜水器械漁業取締規則」も制定した。十四条からなるこの規則の中には、「第一条潜水器械ヲ使用シテ魚介蟲藻ヲ採取セントスルモノハ此規則ニ従ヒ第一號願書式ニヨり営業地ノ郡役所ヲ経テ縣廳ニ願出許可ヲ受クヘシ」、「第六条潜水器械ノ使用ハ出雲國石見國隠岐國各二器ヲ限リ許可スへシ」、「第九条借区内ト雖深サ二十五尺以内ノ場所ニ於テ潜水器械ヲ使用スヘカラス」「第十一条毎年九月廿一ヒヨリ十月廿日マテノ間ハ潜水器械ヲ使用スへカラス」等が具体的に定められていた。

 それより以前明治政府は明治 8 年太政大臣三条実美の名で全国に「従来人民ニ於テ海面ヲ区画シ捕魚採藻等ノタメ所用致候者モ有之候処右ハ固ヨリ官有ニシテ ( 以下略 ) 」いう通達を出し、沿岸海域を漁業等に利用する場合は各府県へ許可願を提出することが必要と命じていた。隠岐では 4 郡の郡長高島士駿と各町村の惣代の名で島根県へ「採貝採藻場区拝借願」が提出された。後述する知夫郡宇賀村は真野廣一、島後の穏地郡久見村は八幡源九郎、八幡銀次、野津惣吉が惣代として郡長高島士駿と共に署名、捺印をして提出している。また明治政府の農商務省は明治 15 10 月に「諸県布達甲第六十七号」で「潜水器使用規則」を布達した。それには潜水器鮑捕営業者が漁場に関する保証書と漁場の計画図面を添付して所属官庁に出願することや出願者は潜水器の使用台数を明らかにすること、営業許可期間は一ケ年以内とする等が命じられている。

 松江の岡崎運兵衛等が明治 23(1890) 年から発行した日刊紙に「松江日報」がある。その明治 30 4 28 日付の記事に、「鮑の養殖と探検」と題するものがある。そこには「数年来潜水器営業に従事し採鮑上にはすくなからず経験を有する中井養三郎氏は隠岐国沿岸に於いて採鮑の傍ら鮑の人工養殖を試みんとて目下しきりに運動中の由」、「之れが助力者は傳習所卒業生中西松太郎長谷川基両氏にて」、「同人等は隠岐国を隔る百哩位沖合に當り大なる暗礁ありとのことを聞き之を探検をもなさんと決心なるよし」等のことが書かれている。この記事からは、中井養三郎が明治 30 年には隠岐の島前地区で潜水器漁業を展開すると共に鮑の養殖まで考えていたこと、隠岐島後の藤田勘太郎と共に隠岐から最初に上京して水産伝習所で最新の水産技術を学んだ別府村の中西松太郎と親交があったこと、明らかに現在の竹島と思われる岩礁へ探検を企図していることがわかり注目される。なお「松江日報」にはこの記事に関する継続する内容の記事は見出せない。

 隠岐島前地区の潜水器漁業は西ノ島が中心であり、先駆者は宇賀村物井の真野哲太郎である。真野の潜水器漁業の実績はまず明治 29 11 月島根半島美保関で同地区の漁民惣代森半五郎の許可を得て、福岡治兵衛宅に寄留しながら美保関の長浜より地蔵ケ浜を経て赤島までの地先の範囲で 25 日実施した。次いで明治 31 11 月には隠岐の知夫郡別府、美田、宇賀の 3 村で戸長岩佐久一郎等の許可を得て行い、翌明治 32 3 月には八束郡長根岸千夫の許可を得て再び島根半島の獅子ケ鼻付近で 25 日間鮑、海鼠の漁撈を願い出て、県から許可されたことが『明治 31 32 年中外海漁業場区』という島根県農商務部の公文書綴り(5)に記載されている。真野は一方で明治 27 年隠岐の 4 郡が共同で山口県から購入した大型帆船「改良丸」を借用して鬱陵島に渡ったし、明治 30 年には竹島で鮑、海草、海驢猟を行っている。明治 30 年のことについては、川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(6)に「隠岐の知夫郡黒木村物井在住の真野鉄 ( ) 太郎が、西当佐太郎等を雇って機帆船で交易のため鬱陵島に赴き、その往復の途次今日の竹島において採藻、採貝およびあしか猟を行ない」と記されている。この間真野は明治 30 年第 2 回水産博覧会の明鮑 ( めいほう ) の部で褒状を得たことが、この時の『褒章人名録』でわかる。明鮑とは干鮑の加工方法の一つで灰鮑 ( はいほう ) と呼ばれるものと区別され西日本に多い方法だという。なお小松宮彰仁親王を総裁、大隈重信を副総裁として神戸で開催されたこの第 2 回水産博覧会では、製造の部で隠岐水産組合が鯣 ( するめ ) の品質の優秀性を評価されて、名誉銀杯を受けたし、個人では真野以外に浦郷村の鶴谷源太郎が海驢 ( あしか ) 油、島後の久見村の中脇信市が塩■(魚+暑) ( しいら ) で表彰されている。

 明治34年の島根県の『中外海漁業場区』には、明治33年9月から知夫郡美田村、別府村、宇賀村の海域での真野哲太郎の潜水器漁業を許可したことが記され、追記の部分に美田村の漁場は明治30年にも、別府村と宇賀村は明治28年にも真野に許可したとある。その後の真野については、明治38年中井養三郎等が竹島漁猟合資会社を設立し海驢猟をしている竹島へ明治40年潜水器業願を提出し却下されたり、大正5(1916)年12月から翌6年8月まで入漁料弐拾円を払って隠岐島後の周吉郡中村で鮑、海鼠の漁をしている。このように実像が不明であった真野哲太郎は終生潜水器漁業にかかわった人物であったことが判明した。現在の西ノ島町物井にある墓地には廃墓となって横倒しになっている墓石の一つに真野哲太郎と名前が刻まれたものが存在する。

 真野と同じ宇賀村の脇田庄太郎が、明治33年2月島根半島美保関の門脇太右衛門宅に寄留しながら真野と同じ同地の獅子ケ鼻の海域で25日間潜水器漁業を行っている。脇田庄太郎は明治25年鬱陵島で妻と共に越冬し同島への進出した日本人の最初の人とされている。同島では鍛冶職、木材業等多角の事業を行うと共に出身地の宇賀村とも頻繁に行き来しているので潜水器漁業は地元の真野の活躍に影響されての事業だったと思われる。

 真野、脇田に続いて西ノ島で潜水器漁業を展開したのは、美田船越の安達家である。明治期から昭和初期にかけての当主安達和雄、和太郎、武夫は大敷網等で一般漁業の経営者として幅広く活躍したし、自家で整備した潜水器で雇った漁師達に鮑採取をさせ加工したり販売も手掛けた。明治36年の第5回内国博覧会では、当時の当主和太郎の名で出品した「鮑水煮罐詰」が褒状を受けている。和太郎は明治45(1912)年動力付大型漁船を建造したが、民間においては島根県下で最初だったという。

 昭和9年に民俗学者桜田勝徳、山口和雄等は8月12日から同17日にかけて安達家に宿泊しながら隠岐島前の風俗を調査し『隠岐島前漁村採訪記』(7)にまとめて発表した。当時の安達家の当主は武夫が継いでいたが、隠岐島前から一人選出される島根県会議員や隠岐航路の大半を掌握する隠岐汽船株式会社の初期の社長等も務めた和太郎は(8)、高齢であったが健在で聞き取りに応じ、多くのことを語っている。特に『採訪記』の中の項目の一つに「舟越安達家の漁業」があるが当時の安達家は美田周辺の沿岸海域ではカンコ舟で、沖の水深のある海域では潜水器漁業で採穫した鮑の加工販売を盛んに行っていた。潜水夫は九州の天草から定期的に雇っていることや、干鮑の製造方法も詳細に記されている。昭和初期同じ美田村では高梨梅松なる人物も別に島根県の許可を得て、一時鮑漁を行っている。

 現在海士町のある中ノ島では豊田村の藤田順正と福井村の宮崎米榮が潜水器漁業を行っている。藤田順正は明治21年西ノ島の安達和太郎と一緒に上京して幅広い知識を身につけて地元に帰り、豊田村水産組合長、村長、県会議員等を務めた人物である。藤田が潜水器漁業を経営者として行った海域は西ノ島の美田村の海域が中心だったが、美田に住み水産組合長でもあった安達和太郎は友人の為に同村の水産組合員の同意をまとめ協力してやっている。福井村の宮崎米榮は西ノ島、中ノ島と共に隠岐島前地区を形成する知夫里島で広い海域の権利を獲得して漁をした。彼は大正5年4月から8月にかけて知夫郡美田村の高梨梅松と共同出資者として、海士郡豊田村、同年12月から大正6年8月には知夫郡別府村の海域で潜水器漁業を行っている。その他聞き取りで得た情報では、海士東の小谷松次郎、同中里の面谷傳次郎は明治36年島後の石橋松太郎に雇われて竹島でのアシカ猟に参加したことで知られているが、地元の中ノ島では潜水器を用いて鮑漁をしていたという。

 現在は隠岐の島町である隠岐島後では、明治17(1884)年穏地郡津戸村の會見常八等3人が潜水器漁業の許可願を提出して許可されているから、これが隠岐島後地区での最初の潜水器を用いての鮑漁だったと思われる。その後明治28年に西郷中町の永海綱次郎が周吉、穏地郡の海域での潜水器利用願を関係する村の戸長等と連署で島根県に願い出た公文書が残っている。そして明治30年4月鳥取県人中井養三郎が周吉郡西郷町中町135番屋敷に寄留しながら、西郷町西町354番屋敷の長谷川理一郎と共に島後の周吉、穏地両郡での潜水器漁業の許可を隠岐島司に願い出た。中井はその後西町字指向(さしむこう)に居を構えているから、中町寄留は隠岐島後進出の初期のことと思われる。隠岐島廳ではこれに対して島後の各町村に「潜水器械使用ニ付故障ノ有無上申」なる進達を出した。故障の有無すなわち支障があるかないかの問い合わせである。これに対して西郷中外二町戸長高橋秋津は「乱獲ノ弊ヲ免カレザル」とし、周吉郡元屋(がんや)中湊役場は同地区の明治23年から29年までの潜水器漁業での採鮑数量を記し「繁殖上ノ妨害アルコト判然ナリ」とし中井等の潜水器漁業を認められないとしたが、「故障ヲ申出ル町村無之」が多数で許可された。これによりこの年中井は、周吉郡犬来(いぬぐ)の海域で採鮑をしている。中井は「島廳へ提出せる履歴書」に明治23年潜水器漁業を開始したと記し、隠岐でも明治30年以前に同漁業をしていたことが明治33年提出した願書に添付した長文の陳情書の中で「明治30年以前は営業日1日漁獲平均凡ソ30貫前後、年額凡ソ5千貫前後」、明治31年以降は「営業日1日平均20貫、年額凡ソ3千貫乃至3千5百貫」としている。具体的には明治28年2月から同年4月、明治30年6月から翌31年6月までの期間、許可を得たことを記している。また漁場について、「毎年使用候場処」として周吉郡の犬来、大久(おおく)、釜、穏地郡の那久(なぐ)、都万(つま)を記し、「隔年若クハ二年ヲ隔テヽ断続ニ使用候場所」に二つの郡の布施、久見(くみ)、代(しろ)、北方(きたがた)、南方(みなみがた)、津戸(つど)をあげている。注目されるのは明治33年段階で竹島でアシカ猟をしている石橋松太郎や橋岡友次郎が活躍している時期の久見村へしばしば出掛けていることで、中井が潜水器漁業からアシカ猟に転身する要因の一つは久見の人々との交流や久見で得た情報が影響している可能性が考えられる。なお4郡の郡長高島士駿の時「島内ニハ潜水器械業取締規則ニ依リ該器ハ二基ノ外使用スヘカラサル制限アリテ」のため、中井養三郎、真野哲太郎が許可されている期間に明治31年穏地郡都戸村寄留の木村源一郎、明治33年周吉郡西郷町中町中西勝太郎が提出した「潜水器漁業許可願」は却下されている。

 明治 33 年中井と真野は共に、潜水器漁業許可更新の願書を提出した。中井の書類には隠岐島後の潜水器漁業の海域を 1 枚にまとめた海図も添付されている。中井はこの年は 9 23 日から同月 30 日と 10 1 日から 11 24 日の期間、穏地郡北方、南方、代、久見村と周吉郡津戸村の海域を願い出ている。それぞれの村では地元民が了承していることを示す水産委員という職名の者が中井養三郎と連署、捺印している。北方は永海勇太郎、南方は阿部弁丸、代は斎藤純一、久見は脇田禮造、津戸は田中文市がそれぞれ水産委員である。久見村の脇田禮造は後大正 15 年中井養三郎の長男中井養一が中井家が持つ竹島でのアシカ猟の漁業権を久見の八幡長四郎に売った時、銀行から金を借りる八幡長四郎に久見の住民の多くが自分の所有する土地を担保として提供して協力しているが、脇田はこちらの契約書にも署名、捺印している。

 明治 36 11 月久見漁業協同組合が作成した公文書があるが、当時の久見村の戸数は 73 戸、居民 356 人、漁業の専業は 5 戸、その他は兼業、漁業の種類では■(魚+暑)( しいら ) ■(魚+暑)漬け漁が中心とある。最近の隠岐の島町久見地区の情況は平成 22 年の国勢調査では世帯総数 60 世帯、人口 123 人である。

 さて、明治 33 年にも久見村を「隔年若クハ二年ヲ隔テヽ断続ニ使用候場処」として利用していた中井養三郎は、明治 37 1 月刊行の隠岐地方の情報誌『隠岐新報』(9)には「潜水器漁業中井養三郎」という広告を掲載しているが、同年の内に書いた「履歴書」に「明治 37 年一切潜水器漁業ヲ廃シ専ラ海馬猟ニ従事ス」と書くにいたった。この時長年隠岐の潜水器漁業を 2 人で担って来た真野哲太郎は自分を含めて隠岐島前の漁師が竹島のアシカ猟で成果を上げることが出来なかった体験を話してやめるよう忠告したという。このことを中井養三郎と交友のあった奥原碧雲はその著『竹島経営者中井養三郎立志伝』(10)に「明治三十六年氏は再びリアンコ島海驢捕獲業を企図せり、然るに、友人知己皆これを不可とし、ことに真野哲太郎氏の如き、大にその不可を鳴らし、隠岐国島前より、先はこの業に従事せんとして失敗せし歴史をひきて、熱心に忠告する処ありしも、氏の決心は牢乎として動かすべからず」と書いている。その後の中井の行動は周知の如くで、明治 37 年秋に上京して明治政府に「りやんこ島領土編入並ニ貸下願」を提出、翌明治 38 1 月閣議で承認、 2 22 日には島根県知事松永武吉が県下に布告、県の公募で許可を得た共に明治 36 年竹島で海驢猟を行った中井養三郎、橋岡友次郎、井口龍太、加藤重蔵が隠岐島司東文輔の斡旋で竹島漁猟合資会社を設立するにいたった。

 中井が撤退した後の島後の潜水器漁業は、西郷町東町の中畑兼繁、西町の永海寛市、久見村の池田北次郎が受け継いでいる。中畑は明治 39 年島根県調査団が竹島、鬱陵島へ出向いた時、隠岐島廳から参加を依頼された島前美田舟越の安達和太郎が自分は都合が悪いが潜水器漁業者の代表として中畑の参加を推したので、中畑は団員の一人となっている。中畑の「潜水器漁業願」は大正 4 5 年のものが残っているが、鮑と海鼠を漁獲の対象として周吉郡磯村、東郷村、西郷町東町、穏地郡都万村、五箇村北方の海域を願い出ている。永海は大正 4 年磯村の今津海域、大正 5 年東郷村字釜の鰐ガ口鼻から棒手川口大岩海域での潜水器の利用を許可されているが、同年の内に島根県知事折原巳一郎に潜水器漁業廃業届を提出している。永海は明治 38 年竹島でのアシカ猟の漁業権が公募された時、応募しているが許可されなかった。その後は同漁業権を得た湊村の井口龍太の資金援助を続けていた。島根県調査団の竹島、鬱陵島行きの際は団員に加えられている。久見村の池田北次郎は島根県の『竹島貸下海驢漁業書類』(11)によると同村の橋岡友次郎等と明治 37 年竹島へアシカ猟に行った人物でもあるが、大正 5 4 月から同年 8 月まで周吉郡中村の伊後専用区域で地元の許可を得て鮑、海鼠を潜水器で漁獲している。

 

 

2.竹島での潜水器漁業

 現在の竹島の鮑は、江戸時代には鬱陵島の「竹島鮑」と呼ばれるものと区別して、「松島鮑」と称されていたことが鳥取藩政資料『御用人日記』(12)等で確認出来る。明治39年島根県調査団の責任者の一人として竹島に上陸した隠岐島司東文輔はその報告書「竹島の視察」に「鮑ハ周囲海岸に多く棲息するものと認められる、本島の鮑ハ体躯大ならず、其介の量百目ヨリ百二十目許りのものより大なるはなし、而して其種類ハ本土のめたかに似てめたかにあらす、また介に似て介ならず、則ちめたかとまた介の間の子にしてめたかに近かき一種類なり、味に於てハ異なる所なきが如くなるも、其肉質は稍硬き方なり、製造上必らず歩留り多からん、明鮑として誉むべき原料ならざるも、罐詰用に供するニハ最も適当ならんと考へらる」と紹介している。

 川上健三の『竹島の歴史地理学的研究』に載る「熊本県天草二江町在住の中浦小平次氏の祖父中浦伊平次は、裸もぐりの漁場開拓のため朝鮮、済州島、鬱陵島に進出した。その次男小十が潜水器を購入して明治16(1883)年には鬱陵島において採貝、採藻に従事し、その帰途今日の竹島に立ち寄って、四、五時間の作業であわび一、二〇〇貫余、あしか三頭を捕獲して隠岐経由で帰郷したとのことである(要略)」は竹島での潜水器漁業の恐らくは最初の記録である。

 天草の漁民については、『天草の漁業ー漁業史と近年の漁業動向ー』(九州農政局統計情報部刊1975年)の潜水漁の項に「二江村で行われ、1隻に5~8人乗込んで壱岐、対馬及び朝鮮近海にまで出漁した。アワビ、トサカノリ等を漁獲するが明治18年(1885)同村の出島久八、同辰五郎の工夫により眼鏡が完成し普及するに及び、二江の資源が枯渇するに至るまで乱獲におちいった」と記載されている。島根県竹島資料室が所蔵する『近代天草漁業史料集成(五和町資料編4)』の二江村の項には、潜り漁による鮑漁が盛んで九州沿海だけでなく対馬、雲州(出雲地域)等へも出稼ぎ漁をしたと記されている。川上健三に昭和30年「竹島出漁事例調査」を報告したという元隠岐高校校長の田中豊治は自著『隠岐島の歴史地理学的研究』(古今書院・昭和54年刊)に天草の漁民の事例以外に隠岐島前の宇野操、隠岐島後の石橋松太郎が明治28年には竹島で鮑等を採取した事例も報告している。

 また明治36(1903)年出版された葛生修亮の『韓海通漁指針』(13)は明治30年代の竹島をヤンコ島の呼称で紹介しているが、「数年以前山口県潜水器船の望を●して出漁したるものありしが、潜水の際、無数の海馬群に妨げられたると」等竹島周辺の情況を紹介している。

 明治初期島根県八束(やつか)郡水産伝習所で幅広く水産技術を学んだ同郡加賀村(現在は松江市島根町加賀)の奥村平太郎は鬱陵島に渡り、現地で手に入る鮑や鯖を利用した罐詰製造を開始した。鬱陵島からの輸出品の資料には明治38年度から鮑の罐詰が加わってくる。奥村は竹島の鮑に注目し、総トン数5トンの発動機船に潜水器装備の船2艘を曳航して竹島に渡り鮑の漁獲をさせた。発動機船には日本人の船長等5人、潜水器船には1隻に7人その中の1人は日本人潜水夫でその他の6人は朝鮮人の人夫だったという(14)。

 中井養三郎等が明治38年竹島漁猟合資会社を設立し、本格的に竹島でアシカ猟を開始しようとしていた翌明治39年5月初旬、鮑漁を目的とする天草の漁民約30名が竹島に現れた。この年の会社の「業務執行顛末」(15)によると、来島していた会社の関係者と天草の漁民との間に一時不穏な空気が流れたという。つづく明治40年突然隠岐島前の真野哲太郎が竹島での潜水器漁業許可願を隠岐島廳経由で島根県に提出してきた。この許可願を隠岐島司東文輔は、中井等のアシカ猟に支障を来たすから許可しないで欲しいとの副申書を付して島根県知事松永武吉に送っている。こうした動向を知った竹島漁猟合資会社は代表者中井養三郎の名前で対抗するかのように竹島での潜水器漁業の許可願を島根県に提出した。提出理由には「他ノ漁業者ニ於テ竹島地先ニ於テ潜水器ヲ使用シ採鮑ヲ為スカ如キ事有之候テハ利害関係ヲ有セサルモノヽ事ニ候得バ海驢ノ群集蕃殖捕獲ニ多大ノ損害ヲ加フル義ニ付此ノ害ヲ可成少ナカラシメンカ為メ本社自ラ該潜水器使用ノ許可ヲ得候旨趣ニ出タルモノニ有之候」とある。島根県は真野にも竹島漁猟合資会社にも竹島の潜水器漁業を許可しなかった。ただ島根県は翌明治41年6月「漁業取締規則の一部改正」で、竹島及び其地先の海域の一部で「許可ヲ受ケタル海驢漁業及該漁業者カ石花菜海苔和布栄螺鮑貽貝等ヲ採取スルハ此ノ限リニ在ラス」と中井等海驢漁業の権利を持つ者には竹島周辺での鮑漁を認めている。なお中井養三郎は明治39年4月2日付けの東島司への書簡で、竹島の鮑はきわめて浅い海底に附着するので、「深海遺利採取ヲ本能トスル所ノ潜水器ヲ用フルノ必要ナシ」、「潜水器ヲ用セントセバ始メヨリ本県取締規則ノ海深制限ヲ無視セザルヲ得ズ」と記している。「本県取締規則ノ海深制限」とは、明治35年制定の「取締規則」第9条にある「水深五十尺(朔望低潮時)以下ノ浅所ニ於テ潜水器ヲ使用スルコトヲ禁ス」のことである。なお同じ取締規則には「縦徑三寸五分以下ノ鮑ヲ採捕又ハ売買スルヲ禁ス」や「潜水器漁業営業中ハ其船艫又ハ適宜ノ位置ニ左ノ雛形ニ示シタル旗章ヲ船舷上四尺以上ノ高サニ建ツヘシ」等も規定されている。

 竹島の鮑等を材料に鬱陵島で罐詰製造をしていた奥村平太郎は、道洞、苧洞、台霞洞の3ケ所に工場を持つほど事業を拡大させたが、病いに倒れ昭和13年逝去しその子奥村亮が後を継いだ。外務省アジア局第二課編『竹島漁業の変遷』(16)に載る「奥村亮口述書」によると、彼は90トン、20トンの母船、運搬船を派遣して、潜水器船2隻、小船5隻で漁獲した。総勢約40人が作業にあたったが、日本人は監督等にあたる2~3人だけでその他は鬱陵島の朝鮮人だったという。なおここでいう朝鮮人は、明治38年7月中井等が竹島で発見した密猟者8組の内訳に朝人、邦人の区別のある組が存在するが合計人数から計算すると、人夫の数の中に朝人はすべて入ることがわかる。奥村亮口述書の昭和13年以降竹島に行った朝鮮人はどういう立場の人達かはわからないが、「「ウツリヨー」島の朝鮮人は、竹島が日本領土であるということは認識しており」とあるし、鬱陵島の朝鮮人だけで竹島への漁撈が確認出来るのは、「私は(昭和)十九年六月に、軍の命令で馬山の工場に移って終戦を迎えたが、その後は、私の使用人尹相述(ユンサンスリー)ー朝鮮人使用人頭、金戌生(キンモーセー)ー漁船の監督者の両名が私の後をおそって「ランコ」島へ出漁していたとのことである。」がある。

 奥村亮は鬱陵島から隠岐島後の西郷町にあった島根県立商船水産学校で学び卒業していたので隠岐と竹島の関係も認知しており、父平太郎の竹島での鮑の漁獲は密漁に該当すると考え、自らはアシカ猟と竹島の地先の一般漁業権を持つ久見の八幡長四郎と地先での鮑漁許可の契約を結び毎年地先の使用料を支払った。

 隠岐島前の美田舟越の安達家では、当主安達和太郎時代に日本と韓国が合邦期に入ると朝鮮半島沿岸の土地も購入し、隠岐と朝鮮への船による往復が盛んで竹島での潜水器漁業も頻度が増えたという。西ノ島町浦郷にあった島根県水産試験場浦郷分場での勤務を体験された現在もご健在の浜田市居住の児島俊平氏を始め、安達家から置物として飾る大きな鮑の殻をもらった方は何人か確認出来るが、鮑の殻に竹島と墨書されたものを所持される方もある。

 

3.鬱陵島での潜水器漁業

 現在確認している鬱陵島での最初の潜水器漁業は、前述した川上健三『竹島の歴史地理学的研究』が記す明治16年熊本県天草の中浦伊平次の次男小十が「鬱陵島で潜水器を利用して採貝、採藻に従事した」事例である。この年は韓国の修信使朴泳孝の抗議を受け、鬱陵島に居た伐木者等の日本人全員が日本政府の指令で帰国させられたり、隠岐諸島では4郡の郡長高島士駿が長崎県五島列島の御手洗時太郎を通じ潜水器を隠岐に導入し、島根県では「潜水器漁業取締規則」も制定された年でもあった。

 続いて明治21年7月、大分県の姫野八郎次、三宅数矢等が漁船4隻に潜水機器2台を積んで隠岐経由で鬱陵島に到着し、島ではその対応に数々問題が派生したことを朴炳渉の論文「明治時代の欝陵島漁業と竹島=独島問題(1)」が紹介している。ただ島根県の資料にそれを証明するものは現在見つかっていない。

 下って明治35(1902)年10月10日の外務省通商局「通商彙纂」(17)の「韓国鬱陵島事情・漁業の現状」には、「本年ハ天草隠岐の漁業者都合潜水器八隻道洞ヲ本拠ト定メ又志摩蟹船二隻天草ノ海士船一隻ハ苧洞ニ仮小屋ヲ構ヘ何レモ全島ヲ巡漁セリ」としている。隠岐の潜水器船については中井養三郎が明治37年明治政府に提出した「りやんこ島領土編入並ニ貸下願」の文面に、「私儀欝陵島往復途次本島(りやんこ島、竹島ー筆者注)ニ寄泊シ」と記すが、鬱陵島への往復は潜水器漁業によるものと推測される。明治39年の隠岐島司東文輔の報告書「竹島の視察」は竹島の鮑について報告した後、その後訪れた鬱陵島でも「水産物ハ鮑ヲ以テ第一トシ、昨年ノ如キハ潜水器三基ヲ使用セル」としている。隠岐の行政のトップが認知している明治38年の潜水器三基は隠岐経由の出漁ということであろう。

 「通商彙纂」は明治38年7月31日の釜山駐在有吉明領事の「鬱陵島現況」で「本年4月熊本県民吉村某潜水器二個をもって採取に従事し潜水器一個に付一日生鮑平均三百斤なり、又三重県民■口某は本年五月漁船二艘に海士三十二人水夫十人を率いて其採取を為し一日平均約五百三十斤内外を採取す」(■は浜の異字体)の記事も載せている。この濱口某については、川上健三の前記の書にも「明治二十三年(1890年)には三重県志摩郡志摩町片田在住の奥村清助氏の祖父浜口清兵衛は、イギリスから購入した最新式潜水器を用いて、欝陵島であわびやてんぐさの採取を行ない、翌二十四年、翌々二十五年にも引き続き同様の方法で操業した。さらに明治二十六年(1893年)にも同島に出掛けたが、その際には潜水器は用いずに、志摩から海女三〇余名、その他合計五〇名を伴った」等のことが書かれている。この濱口清兵衛については三重県の地元紙「伊勢新聞」が明治19(1886)年12月1日付けの「有効の潜水器」という見出しで「ノルマントン号沈没場所を黒田参事官一行探求。片田村濱口清兵衛所有潜水器は海底37尋まで沈入。」という記事をのせている。ノルマントン号とはイギリス船籍の商船で明治19年10月24日横浜から神戸へ向かっていた折、和歌山県串本町潮岬沖で座礁している。この時の船探索に濱口清兵衛の潜水器船が活躍したのである。1尋は1・8メートル強の長さをいうから37尋は70メートル近くの潜水が可能ということになる。この時期彼の活躍は明治14年の第2回勧業博覧会への干鮑の出品、明治16年の第1回水産博覧会への干鮑、塩鮑、粕漬鮑、鮑貝殻の出品にも見られる(『明治前期博覧会出品一覧・三重県』)。志摩から鬱陵島へは海女の移動の歴史をみると、瀬戸内海から対馬を経由して釜山へ船で行き、朝鮮本土の沿岸を北上し蔚珍や三陟あたりから鬱陵島を目指すのが一般的だったが濱口清兵衛は隠岐島を経由したこともあると思われる。川上健三の前記の書には、鬱陵島への渡航は届け出を必要とした時期の隠岐西郷署の報告書に「明治二十九年志摩国ヨり渡航スルモノハ大概海士専業ニシテ採貝採海草ニ従事スルトノ事ニ有之候」、「志摩国人浜口某ノ一行男女五十人計及当國(隠岐)人数名密航中ノ聞ヒアリ目下取調中」等があることを載せている。下って明治35年5月鬱陵島警察署の警部西村■(金+圭)象が釜山駐在の領事官幣原喜重郎宛ての報告書に「漁業者ハ多ク熊本ノ天草、島根ノ隠岐、三重ノ志摩地方ヨリ渡来ス」、「本年天草隠岐ノ漁業者都合水潜器舩八隻道洞ヲ本據ト定メ又志摩ノ蛋舩二隻天草ノ海士舟一隻ハ苧洞ニ仮小屋ヲ構へ何レモ全島ノ海岸ヲ巡漁セル」とある。この時期も天草は二江村、志摩は浜口清兵衛が明治42年4月26日逝去だから彼を含む片田村の人達かも知れない。隠岐は潜水器を所有する島前の真野哲太郎。脇田庄太郎、島後の中井養三郎のいずれかは出漁している可能性がある。

 大正6(1917)年朝鮮水産組合刊行の『水産統計要覧』には「明治35年潜水器漁船ノ根拠地ヲ創トシ長崎、島根両県人移住シ其後経営シ以テ今日ニ至ル」と隠岐の漁民と考えられる島根県人が鬱陵島を越えて朝鮮半島に移住して潜水器漁業をしている現状を報告している。場所は慶尚北道盈徳郡丑山で戸数28戸、漁民数101人に及んだという。

 昭和8(1933)年総督府刊行の『朝鮮』7月号に総督府技師北野退蔵が「朝鮮に於ける潜水器漁業」なる一文を載せ、昭和4、5、6年の漁船等具体的な実態を報告している。それによると「空気ポンプ器を設備した肩幅七、八尺の日本型帆船が潜水器一臺、納屋材料、製造用品の外、食品・食塩等を積み込み、潜水夫一人、船頭一人、綱持一人、船員兼ポンプ押五、六人、それに陸上納屋番一人が乗り込んで出漁し、漁場付近の適当な地に納屋を構へ、此處を根拠地として毎日出漁し、漁獲物は根拠地に持ち帰り製品とする」というやり方だった。許可船数は昭和4年が170隻、5、6年は同数の168隻で後述する鬱陵島の海域を含む第二区が毎年一番多い船数だったという。

 昭和12年韓国で刊行された『朝鮮潜水器漁業沿革史』(18)は朝鮮沿岸の潜水器漁業は山口県萩市生まれの吉村與三郎なる者が鱶(ふか)漁から長崎で知った潜水器漁業に転業して明治10年代から操業を開始し、徳島県伊島から進出した潜水器漁業の漁師等と共に発展させたものだとしている。昭和初期には潜水器漁業の経営者達が水産組合を組織したり、操業の競合を避けるため朝鮮沿岸に漁区を設定し所属を決めた。漁区には元山を拠点とする第一区、釜山に本部のある第二区、全羅南道の麗水を中心とする第三区、京城に本部がある第四区があった。鬱陵島は二区に所属したが二区に登録されている潜水器総数は六十一基でその他のどの区よりも多かった。鬱陵島の経営者に片岡吉兵衛の名前がある。片岡吉兵衛は島根県簸川郡杵築村、現在の島根県出雲市大社町から明治期に鬱陵島に渡り、日本人居住地区の郵便局長、出雲大社が布教する大社教の神職等を務めて日本人移住者から元老の一人として尊敬されていたが、昭和初期には水産組合長も兼務しており、鬱陵島の潜水器漁業もこの時期経営者として関係していたものと考えられる。片岡の名と共に記されている潜水器数は二基である。なお第二区の潜水器漁業には徳島県伊島の神野(かんの)家の一族が多数関わっているが、伊島の潜水器漁業は島根県を本籍とする水産技師庵原文一(いはらぶんいち)が指導、発展させたことがわかっており(19)、間接的ながら鬱陵島の潜水器漁業に関係する人物として片岡と共に庵原の名も付記しておく。またこの第二区で活躍した伊島の神野家の人はその多くがこの地区で自ら潜水夫としての実績を持っている特色がある。ただ神野家の一族が鬱陵島で操業したことを示す具体的な記録は見つかっていない。慶尚北道漁業組合連合会が編集した「昭和18年度慶尚北道水産統計」(京都大学図書館所蔵)には、慶尚北道の漁場が鬱陵島の外3つの郡の海域にあり、鬱陵島道洞や水念等が漁船の碇泊、漁獲物の陸揚場であるとしたうえで、明治44年、大正元年、大正5年、昭和元年、昭和10年、昭和15年、昭和16年、昭和17年、昭和18年の漁獲高を統計にまとめ、昭和18年については詳細な分析を行っているが、鮑等の漁獲を目的とする潜水器漁業は太平洋戦争中で器材が整わないのか裸潜業と比較すると従業者も漁獲量も少ない。

 

 

おわりに

 隠岐諸島、竹島、鬱陵島という島嶼に関する点在する潜水器漁業に関する資料を今回整理してみた。隠岐諸島については、隠岐4郡の郡長であった高島士駿の行政的指導で長崎県五島列島から導入されたことが明白で、時期も明治10年代の日本全国で9県だけの中に入る古い時期の導入だった。島前の真野哲太郎、島後を中心に活躍した中井養三郎は隠岐諸島を中心に初期の潜水器漁業を発展させた双璧と評価すべき人物である。なお当初隠岐諸島での潜水器が2器までと制限されていたことは、乱獲防止への対応とカンコ舟の上から箱メガネで海底を覗き、先端に銛状の金属をつけた竿で挟みとる伝統的で零細な漁法との共存を意識した行政的措置と思われる。また潜水器漁業に従事していた中井養三郎が明治33年提出した「陳情書」に隔年もしくは2年おきに潜水器漁業に出向く所として穏地郡久見村を挙げいることは、かなり早くから石橋松太郎や橋岡友次郎等同村に住む人達との交流があり、その人達を通じての竹島のアシカに関する具体的な情報を入手できたので後の中井が潜水器漁業からアシカ猟に転身する要因の一つとなったことが推定されて興味深い。

 竹島での潜水器漁業は鬱陵島に住んで罐詰製造業を営んでいた奥村平太郎・亮親子の出漁と隠岐西ノ島の美田舟越の安達家の操業が具体像を伝えてくれる。特に奥村家は明治39年竹島、鬱陵島へ出向いた隠岐島司東文輔がその報告書「竹島の視察」で竹島の鮑の特色を詳細に記して「罐詰の材料に最適」としているから、罐詰製造をする者として竹島で潜水器二基を駆使して鮑漁を継続的に行っていたと思われる。先述したように奥村亮は、父奥村平太郎の竹島での潜水器漁業は密漁だったとし、アシカ猟と竹島の地先の一般漁業権を持つ久見の八幡長四郎に地先の使用料を払い続けた。鬱陵島に戦前居住し漁師の父に少年時代数回竹島に連れて行ってもらったという隠岐の島町加茂のN氏は過年の聞き取りの時「隠岐の人が権利を持つ竹島の鮑を断りもなく獲って申し訳けない」というのが父の口癖だったと語られた。鬱陵島から竹島への出漁する多くの日本人は竹島での漁業は隠岐の人の権利だと意識していたと思われる。竹島での鮑漁は中井養三郎が「竹島の鮑の多くは浅い場所にいるので、潜水器が不必要だ」と書いていることも先述したが、昭和10年頃久見の橋岡忠重等と竹島へ出掛けて鮑漁をしたという故吉山武氏は「自分はカンコ舟の上から箱眼鏡で海底をのぞき竿で獲ったが、済州島から雇われて来ていた海女さん達はもぐって鮑を獲っていた」と竹島では潜水器漁業以外の漁法も数多く利用されていたことを聞き取り調査時に話された。

 鬱陵島の潜水器漁業は明治10年代から熊本県天草の漁民の進出で開始され始めたと思われる。その後大分県や山口県等周辺地方の漁民により漁獲量も漁場も拡大していった。明治37年それまで潜水器漁業に専念していた隠岐の中井養三郎がたびたび鬱陵島へ往復していたと明治政府へ提出の文書に記しているのは、隠岐から鬱陵島への潜水漁業のための出漁を意味するものだと思われる。大正期になると朝鮮近海に潜水器漁業で鮑、海鼠、貽貝(いがい)、栄螺等を漁獲する勢力が多くなり、競合による争いを防ぐ為に「潜水器漁業操業区域」が設定された。釜山に大正12年設立された朝鮮潜水器漁業株式会社が統括する第二区は徳島県出身の谷禹三郎が長らく社長や組合長を務め、同じ県の伊島の神野房太郎等神野家の一族が潜水器船を所有し区内の各地で活躍した。鬱陵島もこの漁区に入ったが、鬱陵島に居住する島根県出身の片岡吉兵衛が同島の水産組合長を兼ねると共に、管理する二基の潜水器を駆使して鬱陵島沿岸の潜水器漁業を展開していった。

 以上が隠岐諸島、竹島、鬱陵島での明治、大正、昭和前期の潜水器漁業のあらましである。隠岐諸島と竹島では隠岐の人達による隠岐の水産業として持続し続け、そこに鬱陵島在住の奥村家が罐詰製造業の原料確保の為に竹島へは二基の潜水器で加わっている。鬱陵島では『朝鮮潜水器漁業沿革史』や最近水産史研究会が刊行された『帝国日本の漁業と漁業政策』(20)が紹介する日本と韓国の合邦期に生み出された多様で各地からの出漁者による潜水器漁業が展開し、漁獲された物の多くは釜山へ集積されたことが特色だと思われる。

 なお潜水器漁業全体の特色については、前記の志摩の水産業者浜口清兵衛に関する事業の展開史や同地区の海女達の潜り漁の実態等を研究されている三重大学の塚本明教授は、多額の設備投資を伴う潜水器漁業は資金回収の意識が強いために資源を保護して将来に備えるという感覚を持ちがたく乱獲になりやすいこと、命を落とす危険性も高い漁法で関わる人達には乱暴な言動も多く、沿岸の住民との紛争も多かったこと等を挙げられ、資源の持続可能性や人間関係の円満さ等から「海女が潜水器械と競争して多いに勝を制して居る。(「伊勢新聞」明治45年2月25日付」)という現象が各地に見られたとされる(21)。この小論の作成には、徳島県、特に伊島の現地調査や長崎大学水産学部の調査に同行してくださった藤井賢二氏、隠岐島前の現地調査をして多数の情報を提供いただいた山崎佳子、内田てるこ氏の協力があった。記して感謝申し上げる。

 

 


 

(1)杉原隆『山陰地方の歴史が語る「竹島問題」』ハーベスト出版2010年

(2)藤井賢二「日本統治期初期の朝鮮水産開発構想ー庵原文一を中心にー」(『帝国日本の漁業と漁業政策』北斗書房2016年)

 杉原隆「川合村の庵原文一についてー水産伝習所1回生から川合村長までの軌跡ー」(『郷土石見』105号2017年)

(3)磯本宏紀「潜水器漁業の導入と朝鮮海出漁」(『徳島県立博物館研究報告第18号』2008年)

(4)『隠岐の文化財第15号』(隠岐の島町教育委員会1998年)

(5)島根県公文書センター所蔵

(6)(古今書院刊1889年)

(7)『日本常民生活資料叢書第二十巻』(日本常民文化研究所編1973年)

(8)『隠岐航路史』(隠岐汽船株式会社刊1958年)

(9)(隠岐新報社1904年)

(10)島根県竹島資料室所蔵

(11)島根県竹島資料室所蔵

(12)鳥取県立博物館所蔵

(13)(黒龍会出版部刊1903年)

(14)(外務省1953年島根県竹島資料室所蔵)

(15)島根県竹島資料室所蔵

(16)(14)に同じ

(17)国立国会図書館所蔵

(18)(朝鮮潜水器漁業水産組合刊1937年)

(19)(2)に同じ

(20)(北斗書房刊)

(21)塚本昭「近代志摩海女の朝鮮出漁とその影響」(『三重大史学』第16号2016年)

 


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