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レザーノフとクルーゼンシュテルンの日本図

はじめに

 私は県外に江戸時代全国を測量し「大日本沿海輿地全図」を作成した伊能忠敬や緯度・経度を記載してより正確な「改正日本輿地路程全図」を作成した長久保赤水等を研究されている友人をもっている。平成22(2010)年島根県で刊行された郷土史関係の書物に彼は伊能忠敬日記や山島方位記に関する論考を、私は出雲の庄屋高見家と朝鮮の関係についての小論を書いて掲載してもらったことがある。

 彼は平成29年の8月、日本地図学会で、「西欧で名も無く約70年写しで刊行され続けた長久保赤水の改正日本輿地路程全図」と題する研究発表をされ、大会での発表要旨や資料の掲載されている冊子を郵送してくださった。その発表内容の具体的なものに、「Rezanovが持ち帰った赤水図で作成の露訳日本図」があるが、すべてロシア語で書かれたその地図の複製は、以前にこちらもいただいており私も島根県庁文化国際課に籍を置かれるロシア人の国際交流員の方に協力をお願いし、地図内の島根県部分の地名を日本語訳していただいたりしているところであった。彼は研究者仲間の大学教授等の助けをかりて1809年刊行とあるこの地図がレザーノフが持ち帰りロシアで刊行された赤水図であると解明されて発表されたのである。

 一方で私は最近神戸市立博物館で別の調査をされていた島根県竹島資料室のスタッフ等からクルーゼンシュテルンが1807年刊行したというロシア語の地図を同博物館の許可を得て持ち帰り複写された日本図もいただいていた。クルーゼンシュテルンは、前記のレザーノフがロシア帝国から日本派遣全権大使として1804年9月通商を求めて長崎に来た時、レザーノフが乗船したナジェジダ号の船長として同行した人物である。2人は航行中に意見の不一致することが多かったといわれているが、1807年、1809年とほぼ同じ時期に帰国後持ち帰った長久保赤水の地図を利用して別々に種々の情報を発信していたことになる。一見して共に赤水図を基に作成されたことがわかる日本図であるが各所に相違点もある。レザーノフの地図内のロシア語の部分は複数の県内の関係者に翻訳していただき新たにわかったこともあるので以下に紹介してみたい。

レザーノフの肖像の画像  
写真1、レザーノフ(向かって右)とクルーゼンシュテルン (「ロシア国旗とレザノフ等肖像」、国立公文書館所蔵)

 

長久保赤水の改正日本輿地路程全図の画像

写真2、長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」第2(島根県竹島資料室所蔵)

 

1.レザーノフの「日本図」 (1809年)

 ニコライ・レザーノフ(1764ー1807)はロシア皇帝アレクサンドル一世の命を受け、日本に通商を求める為に1804(文化元)年長崎に来航したロシア全権大使である。一方で彼は植民会社である露米会社の経営者で毛皮等の販路を求める商人でもあった。彼は首都ペテルブルグの西方にある軍港から戦艦であるナジェダ号とネヴァ号を率いて出港、大西洋を横断しホーン岬を廻り南太平洋に出た後ハワイに寄港した。ここで北アメリカに向かうネヴァ号と別れている。ネヴァ号の船長はリシャンスキーであった。

 その後1804年7月カムチャッカ半島の港町ペトロパブロフスクに到着してこの地で1ヶ月近く逗留して日本に向けて出航し、9月に長崎に入港した。すでに1792(寛政4)年根室に来たラックスマンが鎖国の為開港地長崎への入港許可書の信牌を得ていたのでそれを提示したが、江戸幕府の指示を待つとしておよそ半年長崎に足止めされた。幕府から派遣された目付遠山景晋(かげくに)と会談に臨んだものの通商の申し出は拒否され、船にロシアから乗せていた仙台藩の石巻船「若宮丸」で漂流し日本への帰国を希望した津太夫等4人の漁師を引き渡し翌1805年4月長崎を後にした。レザーノフは長崎から出帆するまでの日々を「日本滞在日記」に記録しているが、その中で特筆すべきは若宮丸の乗組員の一人でギリシャ正教に改宗しロシアへの帰化を決めながらレザーノフの日本語通訳としカムチャッカ半島のペトロパブロフスクまで同行した善六なる人物の存在である。レザーノフは日々船内で善六から日本語を学び、ロシア語アルファベットによる『露日辞典』を作っている。その辞典には日本語の部分で仙台弁、ロシア語の部分でシベリア地方の俗語が多く使用されているという。後作成されるレザーノフの「日本図」に載る日本の地名の呼称は善六が教えた知識が影響していると思われる。善六は帰途のレザーノフがペトロパブロフスクで船を降りるまで同地に留まり、その後も行動を共にしている。さらに善六は文化(1813)年の遣日使節にはロシア側の通訳として箱館に来たが、その後もロシアに留まりイルクーツクで日本語教師としてその生涯を終えたという。イルクーツクはシベリア地方の都市で、1753年から日本語学校があり1782年伊勢から江戸に向かう途中でロシアへ漂着した大黒屋光太夫も一時期滞在したし、光太夫と共に漂着した新蔵は帰化し、善六と共に日本語学校の教師となっている。

 レザーノフが長崎で日本側へ贈呈した品物は幕府の外交文書を集大成した『通航一覧』巻二八二等に掲載されているが、その中には地球儀や地図もある。一方レザーノフもオランダ商館の通詞から二十品、オランダ商館長ドウーフからの十五品を贈られているがその中には地図類はない。ただレザーノフは密かにドウーフに日本製品を数多く購入を依頼して去ったとされるから、官撰の「伊能図」は後のシーボルト事件にみるように海外持ち出し厳禁であるが、広く日本中に出回っていた「赤水図」は入手が可能だったと思われ、知人の言う「Rezanovが持ち帰った赤水図」、「Rezanov由来の赤水図」が存在しても不思議ではないと推測していた。ところがこの点について知人は地図内のロシア語の説明で、イルクーツク在住のフレデリック男爵の所有していたものをレザーノフが編集して作成した元来の地図名は「日本列島と周辺諸国総図」だと解明されて発表されている。

 この1809年作成のレザーノフの日本図は、全体の形状から赤水図によるものであることは明白なうえ、木版刷りの第2版を利用していると断定できる。その理由は明和5(1768)以前作成されたという原図と安永8(1779)年印刷された初版の赤水図には、日本内の港と港を線で結び里数の書き込みがないが、第2版から第5版のものにはそれが書き込んであること、第3版は文化8(1811)年印刷された図だから、1806年航海からの帰国、1807年逝去のレザーノフには年代上も関連しない。

 レザーノフの日本図と第2版赤水図を比べると、前述の港と港を結ぶ距離では美保関から宇竜三十六里、宇竜から浜田二十六里、現在の島根半島の七類から隠岐島後の西郷近くの今津まで五十七里等すべて同じである。地名で現在の島根県の範囲で検証すると国名の出雲、石見、隠岐や郡名の島根、大原、美濃(みの)、隠岐の知夫(ちぶ)、主な町の松江、浜田、津和野等は赤水図の漢字とレザーノフのロシア語のアルファベットは完全に一致する。また別に隠岐の中ノ島の郡名は一般に海士(あま)だが赤水図の第2版は「海夫」とし、レザーノフの日本図はそれに沿うように「かいぶ」とロシア語で記している。郡名の安濃(あんの)が「あんろ」、鹿足(かのあし)が「かにき」、隠岐の周吉(すき)が「ひろよし」とロシア語で少し違うのは、日本語解読の協力者善六・ロシア語名KiSSeloff等の方の読み方が間違っていた可能性もある。なお今回取り上げたレザーノフの「日本図」には、地図内の下段の説明部分にロシア語で彼の名も見出せる。

レザーノフの日本列島と周辺国総図の画像

写真1、レザーノフの「日本列島と周辺国総図」 ( 個人所蔵 )

 

同図内の竹島と松島の画像

写真2、同図内の竹島と松島赤水図と同じ

 

2.クルーゼンシュテルンの「日本図」  (1807年)

 エストニア系ロシア人でイギリスの海軍で航海術を学び、各地で測量をしながら世界一周をしたいという希望をもっていた人物にクルーゼンシュテルン(1770ー1846)がいた。彼はロシアに帰り軍人として活躍していたが、大尉の身分の時、ナジェダ号の艦長として海外に出向く機会を得た。ナジェジダ号には前述のように対日全権大使のレザーノフが同乗していた。二人は人間関係で対立することも多く、クルーゼンシュテルンが帰国後1809年から1812年に刊行した『世界周航記』には折々その悩みも記されている。

 クルーゼンシュテルンは自分等が目指す世界一周の航路の状況を明確にするため、1,一日平均の緯度と経度、2,羅針盤の偏角、3,潮流力、4,寒暖計と気圧計の目盛、5,風向を毎日欠かさず記録させた。また上陸して江戸幕府派遣の重臣との接見や長崎港の状況の記述には多くの紙幅をさいている。通商が不成立となっての帰路は日本海を航行したが、ダジュレー島(鬱陵島)を測量し従前知られている緯度、経度がほぼ正確だったことを確認しているし、日本海航行中に三瓶山や隠岐も望見したことを記録している。サハリンを半島と誤認する等のことも記録でわかるが世界一周の偉業と共に1806年無事帰国した。

 クルーゼンシュテルンの1827年刊行された英語のアルファベットで日本地名を記した「日本帝国の図」は、赤水図の詳細な記載まで書き込まれていて有名である。この地図は知人の研究によるとワイマール公所持の赤水図を写して自分の位置観測データで修正して入れ、パリで刊行したものだという。

 今回神戸市立図書館所蔵の秋岡武四郎コレクションから確認された1807年刊行のクルーゼンシュテルンの日本図は、赤水図を利用して自分等がナジェジダ号で測量したデータやその航路がくわしく書き込まれている。日本の港と港を結ぶ線と里数を書き込む赤水図第2版以降の特色はレザーノフの日本図と異なってまったく無いから、この地図は初版の赤水図か第2版が部分的に省略されているかのどちらかである。

 この1807年のクルーゼンシュテルンの日本図には日本の地名等はわずかしか書かれていない。島根県の部分では、出雲、石見、隠岐の国名と二つの符合不明な地名だけである。日本語をロシア語に変換する協力者がまだ近辺にいなかったことや航路等測量の成果を書き込むことを目的にした図であったことからと推察される。その中で注目されるのは、「世界周航記」で綿密に測量したという鬱陵島をダジュレー島・竹島と地図内に記していることである。レザーノフは同じ海域に長久保赤水の改正日本輿地路程全図と同じ竹島(鬱陵島)と松島(現在の竹島)をロシア語で載せている。クルーゼンシュテルンは1787(天明)年フランス人の海軍大佐ラ・ペルーズが日本海を東上中に乗組員ダジュレーが発見した鬱陵島をダジュレー島と命名したことを熟知しており、その名と赤水図の竹島を合わせて記載したと思われる。鬱陵島についてはその後1789(寛政元)年イギリスの軍艦アルゴノート号が発見したが測量を誤り、架空の海域にアルゴノート島も誕生した。こうして同じ鬱陵島であるが、誤った位置のアルゴノート島と正しい位置のダジュレー島が1811(文化8)年アロースミスの地図から登場するといわている。そうした中で長崎へ来たシーボルトが1840年帰国後作成した「日本図」は日本地図の竹島をアルゴノート島、松島をダジュレー島と結びつけたものとしたので、それ以降のヨーロッパ地図はダジュレー島を松島とするのが通例となる。その意味ではクルーゼンシュテルンの1807年の「日本図」のダジュレー島・竹島の記載はヨーロッパ勢力のアジア進出の連続する時代にあって測量したのがダジュレー島だけであったから竹島と併記するのもその時期の歴史を反映するものとして関心をひくものでもある。

 さて島根県竹島資料室は「日本帝国の図」を中心にクルーゼンシュテルンに注目して、彼に関する資料を収集し続けている。放送大学からは膨大な外国諸国の200点におよぶ地図関係の写真データを複写させいただいたし文献類もかなり増えた。その文献の中に『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』(2006年3月)掲載のウラジミール・ソボレフ氏の「日本地図作成と水路測量調査の歴史ーロシア国立海軍文書館所蔵史料よりー」という論文がある。その中にクルーゼンシュテルン航海時の調査の結果作成された日本地図として「日本島および日本海図」と命名された画像が掲載されている。

 その地図は神戸市立博物館所蔵のものと同じであり、「この地図の正確さと情報量の多さが十八世紀後半の多くの地図に比べて格段に優れている」と評価されている。この日本図は国立国会図書館にも所蔵されていることが後日判明した。

 なお『東京大学史料編纂所紀要第16号』にはタチアナ・S・ヒョードロヴァ氏の「ロシア所在日露関係史料目録」も掲載されており、日本への来航の先駆者ラックスマンも含めて、レザーノフ、クルーゼンシュテルンの書簡等も収録されており参考になる。

クルーゼンシュテルンの日本島と日本海図の画像

写真1、クルーゼンシュテルンの「日本島と日本海図」 ( 神戸市立博物館所蔵 )

 

クルーゼンシュテルンの「日本島と日本海図」のダジュレー島・竹島の画像

写真2、 同図のダジュレー島・竹島

 

おわりに

 長久保赤水は自らが作ったという「日本輿地路程全図」に緯線、経線を入れた「改正日本輿地路程全図」を安永8(1779)年大坂から木版刷りで出版した。原形をとどめるものは天保11(1840)年の第5版までとされるが、官撰の地図でなかった為に民間に広まり旅の携帯品としても利用されたという。その為諸外国にも比較的早くから伝わり、東京大学馬場章教授等の研究によるとイギリスのケンブリッジ大学やイギリス議会図書館、ドイツ国立民族博物館等に所蔵されていることはかなり早くからわかっていたという。その他の研究成果も加えると2014年までに、海外6ケ国に44点の所蔵が確認されているそうである。今回島根県竹島資料室の調査でクルーゼンシュテルンが航海中の測量資料を書き込んだ1807年刊行の赤水図を利用した地図がロシア国立海軍文書館や日本の国立国会図書館、神戸市立博物館に所蔵されていることは地図や絵図の研究者にはすでに衆知のことだったと思われるが、クルーゼンシュテルンの著名な1827年の「日本帝国の図」にだけ注目していた私には、新しい日本図として斬新な地図であった。

 レザーノフは日本との通商交渉に専念する全権大使であったから、彼が帰国直後日本を中心とする地図がロシアで彼の名を記して編集されていたことは予想外のことであった。しかもクルーゼンシュテルンとレザーノフの名でわずか2年違いで初期の赤水図を利用したロシアで作成された日本図が今回一緒に確認出来たので、さらにそれぞれの内容や作成にいたる過程を追求していきたい。さらに最近松江市の小泉八雲記念館にアメリカ在住のギリシャ人の方が寄贈されたイギリス製の「日本図」があると八雲会関係者が教えてくださり、同館のご厚意で画像も入手し調べてみると大阪大学、近畿大学の中央図書館にも所蔵される1835年イギリス人彫版師ウォーカーが作成した「日本図」であることがわかった。明らかにこの図も「赤水図」に拠っておりこの図内の最下段にはクルーゼンシュテルンとケンペルの図を利用したことが書かれている。ウォーカーの「日本図」も今回主題の一つとしたクルーゼンシュテルンの1807年刊行の「日本島および日本海図」、有名な1827年の「日本帝国の図」に続くクルーゼンシュテルンの「日本図」研究に追加すべきものであるが、この図の鬱陵島はアルゴノート島とダジュレー島の2つの島として描かれている。

善六達のロシア漂流を記す環海異聞の画像

写真1、善六達のロシア漂流を記す『環海異聞』 ( 国立公文書館所蔵 )

 

ウォーカーの日本図の画像

写真2、 ウォーカーの「日本図」 (©Lafcadio Hearn Memorial Museum)

 


参考文献

レザーノフ「日本滞在日記」(大島幹雄訳、岩波書店)

クルーゼンシュテルン「世界周航記」(オランダ語訳を利用して、高橋景保校訂『奉使日本紀行』)

クルーゼンシュテルン「日本紀行」(抄録、羽仁五郎訳、駿南社)

・『ラングドルフ日本紀行クルーゼンシュテルン世界周航・レザノフ遣日使節随行記』(露蘭堂、2016)

大槻玄沢・志村弘強「環海異聞」(大槻玄沢・志村弘強、国立公文書館所蔵)

池田晧「海外渡航記叢書2 環海異聞」(雄松堂)

吉村昭「漂流記の魅力」(新潮社)

・「石巻若宮丸漂流民の会会報」(インターネット資料)

・『東京大学史料編纂所研究紀要第16号』(島根県竹島資料室所蔵)

・中村拓「赤水図の欧州における評価」『地理』(古今書院、1968)

・秋岡武次郎「欧人の初期日本地図作成史」(『岩波講座日本史』1935)

 

(前島根県竹島問題研究顧問杉原隆)

 


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