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明治3年の浜田県と竹島(鬱陵島)


ー和木浦の住人の竹島スケッチ画、大森・浜田県元少属三角十郎の「竹島渡海願」についてー

 

はじめに

 私は平成27831日、島根県竹島問題研究所のホームページに「明治4年提出の二つの「竹島(鬱陵島)渡海願」」というレポートを発表した(平成293月刊行の『竹島問題に関する調査研究報告書』平成27年度に収録)。その大意としてまず一つは現在の島根県に明治初期設置されていた隠岐県、大森県、浜田県の大参事であった藤原茂親(藤茂親)が退官して出身地の福岡県に帰り、同県に「竹嶋航行漁猟願書」、「竹嶋再検届」を提出したこと、もう一つは現在の大田市に属する温泉津今浦の住民が浜田県に「御願申上候事」として「石州沖無名ノ大島有図」なる図を添付し、竹島渡海を明治4年に願い出たこと、そして前者には竹島が「小磯竹又は松嶋とも称する」と記されていること、後者の「石州沖無名ノ大島有図」は天保竹島一件の松原浦の八右衛門が描いて所持していた「竹島図」が利用されていることを問題提起としたつもりでいる。今回はこれ等の願い書の提出前年の明治3年にも、さらに竹島(鬱陵島)に関する別の2つの興味ある史実が存在したことを知る機会があったので紹介したい。

 

1.和木浦の長濱屋熊市が描いた「竹島(鬱陵島)のスケッチ画」

 島根県庁総務課竹島対策室がホームページで呼びかけている竹島や鬱陵島に関する地図の提供に応じて、親族の一人が所持されている鬱陵島を現地で描いたスケッチ画を見る機会を、大阪在住(島根県江津市出身)の方が私達に用意してくださり、結果的には島根県竹島資料室にご寄贈くださった。その画の表には「明治三年庚午七月廿五日従石州濱田二十一人渉渡」、「竹嶋東西丑受之図」、裏には「島根県石見国那賀郡和木村長濱屋用」、「嶋田熊市」等の墨書が確認できる。長濱屋は江戸時代和木浦にあった廻船問屋で、姓は嶋田で当主の世襲名は重治(次)郎である。絵には海上から傍眺した鬱陵島が描かれ、明らかに聖人峰と推測できるドーム形の大きな山、錐岳と思える直立した柱状の山、海上には有名な三本立岩も描かれている。自分達が乗って来たと思われる帆船も図の中に描かれ、当時の船を考える参考になる。さらに寄贈者から、江津市にいる親族が「長濱屋系図」なるものを保存していると聞き、過日竹島資料室の関係者や浜田市在住の郷土史家森須和男氏等と共に当家にお邪魔し、系図を見せてもらった。森須氏によると和木浦は現在の江津市で、都野津(つのづ)浦と共に大きな浦であり長濱屋は本家が小濱屋といい、両家の廻船は石見地方の廻船問屋の『客船控帳』によく登場するとのことであった。

 「長濱屋系図」でまず注目したのは、天保期からの当主長濱屋重治郎、本名嶋田民治である。系図には「賢明なる性なれど冒険的にも海外航路をなさんとし、遂に慶応年間に至り韓国に近き日本海の孤島竹島を発見したり、これ即ち今の鬱陵島なり。時の浜田城主松平左近の頭に申告したれば、松平侯より特命を受け、開墾致す目的にて大工木挽き人夫数十名を引き連れ再び竹島へ向かいたり。船員には名高き亀重、善作等有たり。不幸にも風浪高く且つ良港無くかろうじて島陰に廻りて上陸す。然るに毎夜海獣本船を襲来し且つ喚叫するに人夫等大いに恐れ充分なる目的を得ず浜田港に反帆す。然るところ、まもなく徳川幕府に探知される所となり、海外密航の犯罪として捕縛され三十八歳を一期として大坂監獄に入監され其後生死不明。獄中にて死亡したるものの如し。」と民治について記してある。この民治に関する事件は慶応年間(1865~1868)とされているが、鬱陵島をめぐる事件であることや、大坂町奉行所による逮捕、尋問は天保7(1836)年松原浦の八右衛門と同じであり、天保竹島一件との関係をうかがわせるようで興味がある。森須氏によると天保竹島一件での大坂町奉行所へ連行された人物をまとめた文書は現在発見されていないとのことで、長濱屋についても八右衛門と関係があったかどうかは知らないとのことであった。ただ天保竹島一件で八右衛門と共に江戸で処刑された浜田藩の家老岡田頼母の家士で、八右衛門と親密な間柄であった橋本三兵衛は現在の江津市敬川(うやがわ)の出身である。そのため江津の素封家である釜屋(飯田家)、後藤屋(藤田家)、油屋(森本家)等は橋本三兵衛に資金提供をし、特に都野津の油屋は天保竹島一件に関与した疑いで江戸の評定所に出頭させられた、と山本熊太郎氏の著書『江津市の歴史』は記述している。

 明治3年に竹島渡航をした嶋田熊市は「長濱屋系図」によるとその民治の甥であることがわかる。系図の中には熊市の竹島渡航について特に記述はない。しかし熊市が描いたと思われる竹島のスケッチ画には、自分達の乗って来たであろう船が三本立岩の近くにある。後年明治、大正期の石見地方から鬱陵島に出漁する漁民達がよく利用した寄港地竹岩(てばお)がすぐ傍にあるので、この時が竹岩に石見の人達が寄港した端緒のようで興味深い。

熊市が描いた竹島のスケッチ画(島根県竹島資料室所蔵)

【写真1】熊市が描いた竹島のスケッチ画(島根県竹島資料室所蔵)

 

長濵屋系図(江津市個人所蔵)

【写真2】長濱屋家系図(江津市個人所蔵)

 

和木浦長濵屋船の寄港を記載す京都の「客船帳」(森須和男『八右衛門とその時代』)

【写真3】和木浦長濱屋船の寄港を記載す京都の「客船帳」(森須和男『八右衛門とその時代』)

 

2.秋月藩三角十郎の「竹島渡海願」

 前述の、「明治4年提出の二つの「竹島(鬱陵島)渡海願」なる私のレポートを島根県のホームページに発表すると、まもなく神奈川県在住の藤姓の方から連絡があり、自分は藤茂親の子孫であると名乗られた。更に数回にわたって所持されている関係資料を竹島資料室に送ってもくださった。藤原茂親は藤原朝臣の歴史的権威を利用したのか隠岐、大森、浜田県大参事時代は藤原の姓を用いているが、本来は藤一字の姓だったようである。

 さて藤姓の方が送ってくださった資料の中に、明治3庚午年閏10月18日に民部省御役所宛に秋月藩の三角十郎なるものが書いた「竹島渡海願」があった。三角十郎については藤原(藤)茂親が明治4辛未年5月に福岡藩へ提出した「竹嶋航行漁猟願書」の中に「昨年同志秋月藩三角十郎ヲ出京セシメ民部省ヘ差出候書面ニ精載事件候」とあったので、いただいた文書が藤原茂親との関係があることがわかる。福岡県の田中一郎氏が『福岡地方史研究』第32号(平成6年6月発行)に「秋月藩行事役楠屋三隅十郎ー勤皇の志士を助けた商人ー」なる論文を発表され、その中で三角十郎について紹介しているので彼の略歴をまず記しておく。なお藤原茂親の福岡藩は、黒田長政が関ヶ原の戦いの功労で18万石の豊前中津藩主から52万石のほぼ筑前全体を掌握し、その福岡藩主となって出現した。そして三角十郎の秋月藩は、黒田長政が三男黒田長興に福岡藩の内5万石を分知して生まれた支藩である。三角十郎は天保9(1838)年に誕生した。幼名は三隅勘二郎であった。三角十郎と姓名とも変えるのは、明治維新後官途についてからである。実家は元結・びんつけ油の製造と林産物の販売を営む大商家、屋号は楠(くす)屋といった。母の実家遠藤家も秋月藩屈指の商家で、両家が交代で秋月藩の年行事の指揮を任されていた。彼は幼少期から学問を好んだが、父の弟の博多で商業を営む三隅惣五郎に可愛いがられた。惣五郎は尊王攘夷思想の持主であったため、十郎もそれに感化され叔父の家に出入りする学者や志士達とも交流することになっていった。そこで知り合いになった人物の一人が藤原茂親であった。明治維新後、時代の大きな変化の中で十郎は約束されていた商人の仕事を捨てて官吏の道を模索した。明治新政府は各藩より雄偉な人物を徴士又は貢士として公募していた。彼は身分が商人だったため秋月藩から推薦されることはなかったが、官吏への道を開いてやったのは、自らも隠岐県で大参事の要職に就いた藤原茂親であった。明治2年に隠岐県が誕生してから短期間で大森県、浜田県と庁舎の移動と共に県名が変わったにも関わらず、そのすべての県の大参事を茂親は務めている。現存する『浜田県官員履歴』という文書綴には茂親等と共に少属、聴訟掛・鞠獄掛として三角十郎の名前がある。少属は各府県共通の職制で、県令(知事)、参事、大属、中属に次ぐランクであり、その内部にいくつかの掛がある。聴訟は司法関係、鞠獄は牢獄に関係する仕事である。田中論文によると現在の島根県での十郎の在勤は1年半で明治3年9月免官とあるから、隠岐県、大森県、浜田県で藤原茂親と共に過ごしたことになる。

 三角十郎の「竹島渡海願」を見ると、「先般濱田県奉職中、臣ノ僕某ト本国博多ノ商家安永善之助ヲ一先右ノ島エ航海セシメ検査ヲ加ヘ候」とある。浜田県に在職中だから、臣の僕某とは大参事藤原茂親が「竹嶋航行漁猟願書」で具体的に記した大庭善五であると思われる。他に茂親や十郎の故郷にいる博多の商人も一緒に竹島を視察したことがわかる。「草木森々トシテ繁茂セリ實ニ是ヲ開墾セハ有益無害ニシテ米穀菜蔬ハ勿論材炭魚塩ノ利尠カラサルへシ」では藤原茂親の漁猟だけでなく島の開墾の意義を述べており、「長州馬関ヨリ箱館松前カケテ北国運輸ノ繁舩如何程ノ便利ト相成可」では海上交通の要地として、「窮迫之民四五十名ヲ渡海セシメ各長所ニ随ヒ使役仕候者屹度無量ノ利ヲ得ン事瞭然タリ」と窮民対策となる利点まで披瀝している。三角十郎による民部省への願書提出は明治3年閏10月だから、すでに浜田県の官吏を退官した後である。同じ浜田県の大参事だった藤原茂親も退官後福岡藩経由で民部省に提出しているが、明治4年7月2日付で島の地籍が日本か朝鮮か明確でないことを理由に却下された。十郎の結果とその後については、福岡県立図書館所蔵の秋月資料の一つ「三隅十郎事歴」に「父ノ漸ク老ユルヲ称シ職ヲ辞シテ去リ藤等ト相謀リテ朝鮮ノ鬱陵島ヲ開拓セント欲シ或ハ大坂ニ出テ一新工業ヲ起サンコトヲ謀ル然レドモ時運未タ進マス事動モスレハ意ノ如クナリ難キ者アリ乃チ郷ニ退キテ家ヲ守ル是ヨリ専ラ力ヲ地方ノ殖産興業ノ事ニ致シテ身ヲ終フ十郎明治二十三年六月廿二日病ヲ以テ家ニ歿ス享年五十七」としている。

三角十郎の民部省への願書(神奈川県個人所蔵)

【写真1】三角十郎の民部省への願書(神奈川県個人所蔵)

 

三隅十郎事歴(福岡県立図書館所蔵)

【写真2】三隅十郎事歴(福岡県立図書館所蔵)

 

三角十郎の名が載る「浜田県官員履歴」(島根県公文書センター所蔵)

【写真3】三角十郎の名が載る「浜田県官員履歴」(島根県公文書センター所蔵)

 

おわりに

 明治3年に石見地方から竹島(鬱陵島)へ渡ったことが確認されたり、同年浜田県での経験から竹島渡航を目指した者がいた新しい事例2つを紹介してみた。翌明治4年に、別の2つの竹島渡航願が提出されたことについてはすでにレポートにしている。その内の元浜田県大参事藤原茂親が5月に福岡藩庁へ提出した「竹嶋航行漁撈願書」を受け取った民部省(明治政府の民政担当の中央官庁)は、「福岡藩士藤茂親ヨリ竹嶋航行漁猟願致勘弁候處願文ニハ云々日本嶋ノ様申立候ヘ共伝聞己而確證無之一体右嶋ノ位置ハ本朝ト朝鮮ノ間ニ在テ従来版圖不分明ニ付往々両國間議論モ有之土地ノ趣ニ付假令試験ニモセヨ本朝人恣ニ漁猟イタシ候テハ夫カ為葛藤ヲ生シ小事ヨリシテ如何様ノ難事引起シ可申哉モ難量候間版圖確定有之迄ハ御聞届不相成方可然仍テ御下知按相添別紙返進此段申進候也」としている。すなわち竹島の所属は日本と朝鮮の間でまだ確定していないので、漁猟等での渡海は許可出来ないとしたのである。明治4年当時のこの明治政府の裁決は、続いて明治9年浜田県と鳥取県を併合した直後の島根県に内務省が竹島の地籍について問い合わせをし、島根県が「山陰一帯ノ西部ニ貫附スヘキ哉ニ相見候」という伺いの形で回答する歴史につながっていく。また藤原茂親が明治4年6月に私費で竹島に渡航させた者が語ったことを「竹嶋再検届」として追加提出しているが、その中で竹島のことを「此島皇国ニテ小磯竹又松嶋ト称スルヲ朝鮮ニテ欝島ト唱ヨシ但小磯竹ト隠岐ノ中間ニ巨岩二ツ並ヘルヲ松嶋ト云説アリ恐ラクハ誤りナラン」と記しているのは特に注目される。

 この鬱陵島を竹島又は松島ともいうとする藤原茂親の認識は、茂親を知る島根県参事の境二郎が明治政府の内務省へ明治9年に提出した「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」、参事から県令に昇格した境二郎が明治14年に内務省へ提出した「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」にも受け継がれたし、明治16年内務省から各府県長官宛てに「日本称松島一名竹島朝鮮称蔚陵島」への渡海禁止が命じられた時、島根県では県令境二郎が県下に通達しているが、境二郎は明治9年当時の自分の認識がその後と変わらないことから何ら違和感なく布告したと思われる。

 また明治初期の竹島(鬱陵島)と現在の島根県との関係において、明治20年代からの隠岐の人々の進出以前に石見地方の人々や同地方に関係する人々によって竹島進出が開始されていたことは、明治16年竹島を強制退去させられた者のうち島根県関係者は22名中20名が石見地方を本籍とする人達であったことも含めて証明されることになる。

(前島根県竹島問題研究顧杉原隆)


参考文献

  • 山本熊太郎『江津市の歴史』(島根県立図書館所蔵)
  • 「長濱屋家系図」(江津市個人所蔵)
  • 『浜田県官員履歴』(島根県公文書センター所蔵)
  • 「三隅十郎事歴」(福岡県立図書館所蔵)
  • 田中一郎「秋月藩行事役楠屋三隅十郎ー勤皇の志士を助けた商人ー」(『福岡地方史研究』第 32 号)

 


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