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明治17年鬱陵島から再渡航を依頼された松江人


1.『困難船救助一件島根県之部』について


 昨年末、知人の協力で外務省外交史料館から明治時代島根県へ漂着した朝鮮人に関する『困難船漂民救助一件島根県之部』を入手し調べた結果、26件の漂着記録があった。

 江戸時代については過去に私が調べて「島根史学会会報」や『湖都松江』に書いたことがあるが江戸時代はすべて地元を中心とする日本側負担での送還や死人があった場合塩漬けにして持ち帰っていたものが、明治時代になると朝鮮側の費用負担、日本の地で死体埋葬等漂流民の扱いが大きく変わってきたことがわかった。具体的な漂着事例でも思いがけない事例もいくつかあったが、鬱陵島からのものが2例あり、その一つに出雲国松江新材木町の田村正太郎に関するものがあった。


2.明治16年鬱陵島からの強制退去について


 朝鮮国が李氏朝鮮時代から貢納、軍役を忌避する者達が住みつく鬱陵島を空島にする政策を長らくとったことから、巨木が生え周辺海域には魚介類が豊富なこの島へ江戸時代、明治初期と日本人の進出があった。明治15年修信使として日本を訪れた朴泳孝は明治政府に日本人の鬱陵島進出に抗議した。明治政府は日本全国に鬱陵島渡航の禁止を布告すると共に、明治16年政府から内務省書記官桧垣直枝を責任者とし船を鬱陵島に派遣し島に居た日本人255人を全員強制退去させた。その中に島根県関係者は木挽き職の者を中心に22人おり、石見人が20人で松江人が2人だった。そのことはすでに私が『郷土石見』第92号(2013・4に発表した。


3.田村正太郎について


 松江人2人は共に新材木町を本籍とする田村正太郎当時26才と伊東金太郎19才であった。新材木町は明治22年まで松江の大橋川沿いにあった町名で材木商、米問屋等が居住し東端は漁師町に接していた町である。その田村正太郎が再び鬱陵島に渡航して、翌明治17年朝鮮国東南諸島開拓使金玉均の随員白春培に直属して、5月から「伐木開墾等ニ使役スル人夫ノ指揮ニ従事」していた。同年12月に自分達の食糧が不足してきたので、江原道出身の人夫金祐誠、梁在文の案内により江原道平海へ田中正太郎外10人乗込みの船が食糧調達に向っていた時嵐に遭遇し、隠岐の知夫郡美田村に漂着した。彼はそこから金、梁の朝鮮人を松江の自宅に連れて来て逗留させ、神戸に来ている自分の傭主白春培の元に出かけて金、梁の本国への帰国方法を相談しているという資料で、明治18年1月12日付け島根県令藤川為親から外務省への報告書である。


4.金玉均について


 なお外交史料館の別の資料に明治17年5月鬱陵島から木材を神戸港へ運んだ田村正太郎に関する神戸警察署の「調書」もある。そこでは自分を木挽き職で本籍は松江新材木町、鬱陵島から神戸へ今回で6回木材を運んだ、開拓使金玉均が鬱陵島へ渡る旅券を手配してくれたし、今回の神戸への木材運搬も彼が支援してくれているとしている。また同じ船に乗っていた宮崎県の渡邊末吉の「調書」には傭主はハクシンパイで、自分達の頭は田村正太郎だとある。金玉均はこの年の12月朝鮮王室の主流をなす中国清王朝に従う親清派を日本との関係を重視する親日派を結集して「甲申政変」と呼ばれるクーデターを断行し、いったん実権を掌握したがまもなく出動してきた清の軍隊に追われ日本に亡命している。その後の日本での金玉均についてはWeb竹島研究所のホームぺージに「清水常太郎の「朝鮮輿地図」について」(2008・2・28)として若干のことを私が報告したことがある。

 従来鬱陵島への日本人の渡航は一方的な進出か侵略の形で説明されることが多いが、明治政府が全員を退去させた翌年には朝鮮側からの要請で若い松江人が鬱陵島に渡り活動していたことになる。


5.鬱陵島を「竹島一名松島」とする新しい文書について


 また明治16年の「朝鮮国蔚陵島へ犯禁渡航之日本人引戻処分一件」に関する資料を再調査していたところ外務大臣井上馨が明治14年10月7日欝陵島を「竹島一名松島」とする上申書を提出し、太政大臣三条実美がそれを同年11月7日承認して捺印した文献を見つけた。またこの文献は文面に「「竹島所属考」に明瞭なるが如く」と同年8月20日北沢正誠が作成した「竹島一名磯竹島又松島と称す韓名は欝陵島又芋陵島と称する者此なり」と書かれた報告書の概要の記述にも触れている。島根県令境二郎が鬱陵島を松島として「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」を同年11月12日付けで内務卿山田顕義と農商務卿西郷従道に提出し、島根県の「明治14、15年県治要領」の明治15年1月31日の項に「松島ノ儀ハ最前指令ノ通本邦関係無之義ト可相心得依開墾ノ義ハ許可スヘキ筋ニ無之候」と内務卿から指令があったことは良く知られている。島根県の伺いの明治14年11月7日前に中央政府では竹島一名松島という認識があり、それは「最前指令ノ通り」と明治10年の太政官指令にも遡る認識であることが明白となった。境二郎の「松島開墾願」にも「該島ノ義ハ過ル明治九年地籍取調ノ際本県地籍編入ノ義内務省へ相伺候処同十年四月九日付書面竹島外一島ノ義ハ本邦関係無之義ト可相心得旨御指令相成」と該島すなわち松島については島根県の伺いも同じことを意味するとしている。

 現在竹島が日本の固有領土だとする主張に、明治10年「竹島外一島之儀本邦関係無之」と太政官が定めたいわゆる「太政官指令」をめぐって「外一島は松島」という記述もあることから江戸時代竹島とよばれていた鬱陵島と松島と呼ばれていた現在の竹島が日本領でないという公的な指令と考える研究者がおられる。一方で江戸時代末期にヨーロッパの船が鬱陵島の位置を測量上誤ったことから鬱陵島を竹島としたり、松島とよんだりしていたことの影響で、竹島とか松島とよばれていた鬱陵島を日本領でないとの指令で現在の竹島には関係がないとする研究者もおられる。明治9、10年に鬱陵島開拓願を竹島開拓願、松島開拓願の名で政府や東京都等へ出願した数名の人がいる。明治10年「太政官指令」に署名した最高責任者は太政右大臣岩倉具視である。太政右大臣は明治4年成立した官制の中で天皇を補佐する最高位の太政大臣の下位の納言が改編されて置かれた官名である。

 実権は太政右大臣が保持していたことや、「太政官指令」から4年たった段階の明治14年の文献であるが今回太政右大臣の上位の太政大臣三条実美が欝陵島を「竹島一名松島」とした公文書を承認している資料が存在することは後者の立場の研究者に優位な資料の一つと考えられる。

 なおこれらは外務省側の動向であるが、内務省は「太政官指令」の段階では鬱陵島を竹島(アルゴノート島)と松島(ダジュレー島)とする認識だったが、明治14年島根県令境二郎の「松島開墾願」の際、外務省へ照会し12月1日付けで得た回答から一島の認識となり、それが内務省で明治14年作成された「大日本府県分割図」から明治15年8月の「朝鮮国全図」での鬱陵島の表記の違いとなっていることをある研究者が自分達のブログで平成27年1月発表された。

杉原隆(島根県竹島問題研究会前顧問)


 

田村正太郎調書

写真1【田村正太郎の調書】金玉均との関わりにも触れている「欝陵島材木差押ノ件」(外交史料館所蔵)

 

金玉均の写真

写真2【金玉均】明治17年12月親日派を組織し「甲申政変」を起こした

 

田村正太郎の住んでいた松江市新材木町の位置図

写真3【田村正太郎の住んでいた松江市新材木町】鳥取島根両県交通明細地図より(竹島資料室所蔵)

 

三条実美

写真4【外務大臣井上馨と太政大臣三条実美が交わした公文書】鬱陵島を「竹島一名松島」としている(外交史料館所蔵)

 


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