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勝海舟模写の「竹島図」について

はじめに

 東京在住の知人が蘆田文庫所蔵の古地図の中にあったと一枚の地図のデータを送ってくださった。蘆田文庫とは旧福井藩士の子として明治10年に生まれ、歴史地理学者となった蘆田伊人(あしだこれと)が蒐集していた地図類等のことで、現在は明治大学に所蔵されている。

 データを拡大して見ると、地図の南を差す部分に「原田氏一図ヲ懐ニシ来リテ余ニ示シテ曰、此レ世間称スル竹島ナルモノ也ト、取テ閲スルニ稍鮮明後證ニ備スルニ足レリ、因テ乞フテ燈下ニ拙写スト云己酉冬物部義邦」と朱色で書き込みがあった。物部義邦は勝海舟の別名である。竹島図については、私は過去に「八右衛門、金森建策、松浦武四郎の「竹嶋之図」について」という小論を書いたことがあるが、その中で取り上げた松江藩蘭学教授金森建策が『竹島図説』と共に松江藩に提出した「竹島図」、言うならば『竹島図説』附図というべきものと極似していると思った。地図内の書き込みを比較してみると「自隠岐国七十里而有此島俗号竹嶋是也島之廻り大●(=がい:概の俗字)十六里有大河」という図全体の説明が東端と西端の別方角に書かれている相違があることや、地勢に関する1行の記述が2行に書かれている所もあるが内容は全く同じであった。

 金森建策は江戸で松江藩主松平斉貴(なりたけ)によって藩の蘭学教授に採用され、己酉年の嘉永2(1849)年9月に「竹島図」とその解説書『竹島図説』を藩主に提出しているから、勝海舟が同年冬原田氏から同図を写させてもらったのはそれから数ケ月後で、ごく短期間の間に同じ「竹島図」が金森から原田、そして勝に渡ったという推移が想像される。

 勝海舟は一方で慶応3(1867)年自らが監修した竹島も載る「大日本国沿海略図」を刊行しており、これも蘆田文庫にあることはすでに知っていたが、それにはすでに竹島がアルゴノート島と松島がダジュレー島として2つの島名で描かれているので、島の形状等で彼が筆写した原田氏によって持ち込まれた「竹島図」の竹島との関連があるか、金森建策や勝海舟は蘭学者であったからその人脈の中の原田氏とは誰か等を考察してみたい。

勝海舟

【写真1】勝海舟

 

勝海舟模写の「竹島図」(蘆田文庫所蔵)

【写真2】勝海舟模写の「竹島図」(蘆田文庫所蔵)

 

金森建策の「竹島図」

【写真3】金森建策の「竹島図」(国立公文書館所蔵)

 

長崎にある勝海舟寓居跡(平成29年2月個人撮影)

【写真4】長崎にある勝海舟寓居跡(平成292個人撮影)

 

1.勝海舟と原田氏

 勝海舟は文政6(1823)年江戸本所亀沢に生まれ、幼少期から永井青崖のもとで蘭学を学んだ。弘化4(1847)年には日蘭辞典『ズーフ・ハルマ』の写本、翌年にはオランダ兵書『ソルダート・スコール』の写本を作製している。原田氏が「竹島図」を持って訪れた嘉永2年は、勝が27才で氷解塾という蘭学の塾を開いた年である。一方の原田氏を『勝海舟日記』等で探すと、蘭学者の中では箕作玩甫等多くの蘭学者を輩出した鴨方藩(現在の岡山県の備前にあった岡山藩の支藩)の原田一道(後に敬作(敬策)、吾一と名乗って江戸で伊東玄朴に師事していた人物)に行きあたった。すでに蘭学者としての地位を築いていた勝や箕作は江戸幕府から異国人応接係や西洋の学問を調べる蕃書調所の設立をまかせられていた。彼等の推挙で、原田一道は第一陣の蕃書調所教授手伝となって勝等との親交を深めたようである。安政2(1855)年に勝が記した「江戸在住蘭学者姓名」には原田の名前がある。勝は列記した人々について「誰れも皆諸侯の臣籍者にして何れも洋学の伝播普及に努め泰西文明の紹介に力を尽くした人々なり」としている。

 備中の蘭学者である緒方洪庵は大坂で適塾を開き、門下生に大村益次郎、福沢諭吉等がいた。大村と原田は親しい関係であった。『近世偉人百話』なる書に「大村益次郎原田一道を物色(さがしだ)す」として、「原田一道備前の人、学東西に通じ、夙に工学を修め、築城法に長ず、大村益次郎等と幕府の蕃書取調所にあり、王政維新大村の江戸に入るや、先づ人を使はし原田一道を物色し之を深川の辺に得て、朝廷に薦む、大坂砲兵工廠及び東京砲兵工廠皆な一道の設計に成る、或る人呼んで岡山の工学大博士といふ。」とある。文久3(1863)年ヨーロッパ諸国に開港していた横浜を閉じたいと、明治政府が池田長発筑後守を正使として派遣したいわゆる横浜鎖港談判使節の一員に原田は選ばれ、渡欧した。フランスから使節が帰国する時、彼はヨーロッパ(主にオランダ)に留まり、外国の文化を学んだ。帰国した後は陸軍所教授、開成所教授として洋学を教えたが、勝との交流は継続し、『勝海舟日記』には慶応2年5月23日に「原田吾一来る。頗る不平。心裡恢々。」とある。

 明治6(1873)年岩倉遣欧使節団が派遣された時も原田は随行員の一員となっている。なお原田一道の長男豊吉は地質学者、次男直次郎は画家として著名である。勝海舟が「竹島図」を渡された原田氏とは間違いなくこの原田一道であろう。

原田一道

【写真1】原田一道

 

原田一道が外国で使用した名刺

【写真2】原田一道が外国で使用した名刺

 

勝海舟列挙の「江戸の蘭学者姓名」(大槻如電「新撰洋学年表」より)

【写真3】勝海舟列挙の「江戸の蘭学者姓名」(大槻如電「新撰洋学年表」より)

 

2.金森建策と江戸の蘭学者達

 金森建策は『松江藩列士録』によると、「本国備前、生國備中」、「少年西遊長崎」と現在の岡山県で生まれ、原田一道と同じ備前を本國とし、幼くして長崎でオランダ人から蘭学を学んでいる。金森はその後江戸へ出て坪井信道の日習塾に入った。学友に緒方洪庵、川本幸民がいた。川本幸民の記録に「天保元年十月塾長金森建策、緒方洪庵等ト初メテ和蘭ノ文章ヲ輪講ス」とある。緒方洪庵とは終生の友で、大坂に移った洪庵の嘉永6年の日記には「二月十八日金森建策より書状到来、三月八日江戸金森建策、長崎小川慶左衛門、肥後奥山有叔へ書状差出」とある。また洪庵の故郷の師で津山の五峰と称された宇田川玄真の元へは嘉永5年の日記に「二月二十八日金森謙作来、謀立社会」とあるように、洋学の組織設立を提案するために訪れたりしている。また松江藩儒桃家の江戸屋敷にも出入りし、桃好裕、号して節山と交流があった。節山の嘉永7年の日記『公私要記』には、節山の借金の保証人に金森がなってくれたことが記されている。節山の孫の桃裕行氏は東京大学史料編纂所教授や同所の所長、東京大学名誉教授でもあった方で、「松江藩の洋学と洋医学」、「『鉄熕鋳鑑』の訳者金森錦謙に就いて」、「雲藩洋学補考前篇」等の松江藩の洋学や金森建策についての論文を残されている。金森は江戸で幕府の砲術師範であった下曽祢信敦方に長期にわたり滞留し、西洋砲術に関する『鉄熕鋳鑑図』(てっこうちゅうかんず)や『萬国風説書』等オランダ語の本の解読、訳注に心血を注いでいた。松江藩主松平斉貴(なりたけ)はある時期下曾祢信敦に師事して洋学を学んでいたから、金森の蘭学教授としての松江藩登用は下曾祢の推挙によると考えられる。

 当初蘭学を学び自ら氷解塾を開いていた勝海舟は安政2年「江戸在住蘭学者姓名」を書き、58人の名を4段に列挙するが、最上段に金森建策を記し3段目に原田敬作の名がある。また原田の名の次には布野雲平なる人名があるが、布野は出雲の今市町に生まれ大坂で緒方洪庵に学んだ松江藩の洋学者で、文久2(1862)年松平斉貴が江戸藩邸内に洋学校を開設するとその教授を命じられた。文久3年斉貴死後は松江に帰り、藩校文武舘の一角の洋学所で指導にあたった人物である。勝が意識していた江戸在住の蘭学者58人の中には間宮繁之進もいる。彼は直接金森から松江藩江戸藩邸で蘭学を学び、文久2年蕃書調所教授手伝となった人物で、繁之丞と名乗った時期もあり、後に観一と改名もしている。また手塚律蔵なる人物もいるが、彼は明治初期外交官として活躍することになる瀬脇寿人である。

 さて金森建策は諱は錦謙、号して鳶巣、通称建策と名乗り、蘭学好みの松江藩主斉貴に江戸詰の蘭学教授として採用された。『松江藩列士録』の「江戸新番組」の部に、「嘉永二己酉年閏四月十六日蘭学為御用以来御出入被仰付」、「同九月日不知竹島図説一冊・同図面一枚差上之」とあり、その「竹島図」と同じ図が恐らく原田一道を介して同年冬に勝海舟の手元に届いたのである。嘉永2(1849)年に『竹島図説』と「竹島図」を金森建策が藩主に提出したのは、この年松江藩の預かり地隠岐国の周辺海域にフランス船リアンクール号をはじめ多数の外国船が姿を見せ、松江藩は大砲を隠岐に配備して警戒する等の緊迫した情勢が反映していたように思われる。なお松江藩主松平斉貴と勝海舟についてであるが、斉貴は藩主としての後半、松江藩へ西洋の軍艦買い入れと藩内に海軍の組織化を準備している。その折幕府はすでに海軍奉行であった勝や彼が指揮する海軍操練所の指導を受けるよう勧めたが、斉貴は「なぜ勝海舟などについて机上の講義を聴き畳の上で水練を学ぶ必要があるか」とそれを強く拒否したという。松江藩は結局次の藩主松平定安(さだやす)の治世に入った文久2年10月、長崎でイギリス製鉄艦ゲセール号とアメリカ製木艦タウタイ号を購入し、第一八雲丸、第二八雲丸と命名した。文久3年1月にこの両艦が品川港に運航した際、前藩主斉貴と現藩主定安は一緒に試乗している。斉貴はその2ケ月後の3月江戸青山邸で逝去した。享年49才だったという。斉貴に登用された金森建策は前年の文久2年に江戸で亡くなっている。文久3年12月将軍徳川家茂が上洛した際、松江藩の第一八雲丸は供俸船として勝海舟の指揮下に品川から大坂へ運航している。

金森の履歴を記す『松江藩列士録』

【写真1】金森の履歴を記す『松江藩列士録』(島根県立図書館所蔵)

 

竹島図説

【写真2】金森が書いた『竹島図説』(国立公文書館所蔵)

 

嘉永2年日本近海に現れた外国船

【写真3】金森の訳本『鉄熕鋳鑑図』(津山洋学資料館所蔵)

 

嘉永2年日本近海に現れた外国船

【写真4】嘉永2年日本近海に現れた外国船(出雲市個人所蔵)

 

3.金森の「竹島図」と勝の「大日本国沿海略図」

 金森建策は嘉永2(1849)年9月に「竹島図説一冊と同図面一枚」を松江藩主に差し上げた。『竹島図説』の序文の中に「島圖ハ別ニ一葉ヲ作リテ●(=ここ:玄を並べた字)ニ附ス」としているが、この図の原図は天保7年渡海禁止の竹島(鬱陵島)に渡島していたことが発覚して逮捕され、江戸で処刑された浜田藩浜田浦の今津屋八右衛門が描いた「竹嶋之図」によっていることがわかっている。八右衛門が描いた原図は現在見ることが出来ないが明治9年島根県士族の戸田敬義が提出した天保4年に写させてもらい、持主権吉と名を記す「竹島渡海願」に添付された「竹嶋之図」や天保6年隠岐の渡部円太夫が竹島渡海の途中で立ち寄った際に八右衛門から写させてもらったという「竹嶋之図」で確認できる。なお、前出の戸田敬義は「竹島渡海願」の文面に『竹島渡海記』を見、所持するが、今は「筐中之紙塵ニ過ズ」と書き、内務省記録局長渡辺洪基は公文書「松島之議二」に戸田敬義が蔵書として「金森謙ナル人ノ書」を所持するとしている。両者の言う書籍が同一なら『竹島図説』のことになる。

 八右衛門、金森建策、今回紹介した勝海舟の「竹島図」を比較してみると、島全体や岩礁の形状は類似するし、図内の書き込みも八右衛門の「此濱西請、長サ十五丁、谷合一ツ、川一ツ、平地有奥行相不分」を、金森は「濱十五丁、谷合アリ、流一、平地アルカ」とし、勝の写し図は「濱十五丁、谷合アリ、流一、平地有ルカ」となっている。後に苧洞と呼ばれる場所に、八右衛門のものは「岩組谷合四ツ、流三ツ、干川二ツ、此濱長サ二十丁余、卯受」、金森のものは「谷合四ツ、流川三ツ、干川二ツ、此濱長サ二十丁余、但石濱」、勝のものは「谷合四ツ、流川三ツ、干川二ツ、濱長サ二十丁余、但石濱」となっており、ほとんど同じである。

 金森建策の『竹島図説』と「竹島図」は別のルートで伊勢の松浦武四郎の手元にもわたっている。彼は折からのヨーロッパの勢力によるアジア進出に危機感をもち、国防の意味で竹島の領有、開拓の重要性を安政元(1854)年『他計甚麼雑誌』、元治2(1862)年『多気甚麼雑誌』、明治3(1870)年には『竹島雑誌』の表題で引用文献に金森建策の『竹島図説』等を明記した冊子を刊行している。なお三重県松阪市にある松浦武四郎記念館で確認したところ、同館所蔵の『竹島図説』は武四郎が「長崎みやげ」として写している書籍9冊の内の1冊であり、彼が書いた『竹島雑誌』は江戸の青山堂が版元だという。冊子内には「竹島大概図」や「竹島之図」が掲載されている。島の地勢等に関する書き込みは八右衛門、金森建策、勝海舟とほとんど変わらないが、元禄時代の大谷、村川家等の絵図にある浜田浦、大坂浦のような浦名の多くも書き込まれているのが大きな相違点である。なお東京大学史料編纂所に残る明治6年「採集図書目地誌課」という当時「皇国地誌」や『日本地誌提要』の編纂の為に全国から収集されていた資料の提供者を記した文書には、『竹島図説』と『竹島雑誌』は目賀田守蔭(めかだもりかげ)から提出となっている。目賀田は蝦夷御用出役、開拓使御用係等を務めた幕府の官吏で松浦武四郎とも親しかったし、「北海道歴検地図」、「明治改正大日本輿地全図」等の地図も制作している。

 さて、勝海舟は原田氏を介して金森建策の「竹島之図」を見ることが出来、自らそれを模写した。その後彼はすでに松島の呼称で知られるようになった鬱陵島の描かれた地図を監修する立場で見たはずである。その地図は慶応3(1867)年刊行の「大日本国沿海略図」である。図の中に自らの名前と共に書き込んでいるこの地図を発表する意味については「昨今航海術が日々発達して海航船の行き来が絶え間なくなっているが、暗礁や浅瀬に遭遇する危険も少なくない。それは地図等の正確さが精密でないことも原因している。たまたまイギリスで東洋の測量図として海湾の深さ、山岳の高低、海流島嶼の暗礁をことごとく記した図が作られていることを知った。この精緻なイギリスの地図は小図であるが用途は大なるものがあると思われるので、我が家塾で刻して航行の便に尽くしたい。」とある。現在の鬱陵島は勝によって模写されて以降、「大日本国沿海略図」に登場する間には地図上で変化があった。すなわち天明7(1787)年フランス海軍がこの島を発見し、最初に望見した人の名から「ダジュレー島」と命名したが寛政元(1789)年にはイギリス船アルゴノート号が立ち寄り「アルゴノート島」とした。両国の測量が緯度、経度上相違があった為にまもなくヨーロッパの海図に鬱陵島がダジュレー島、アルゴノート島の別の島と記載されることとなった。さらに日本の長崎に来ていたドイツ人医師シーボルトが帰国後、この2つの島に日本の地図にある竹島、松島の日本名を重ねた「日本図」を1840年刊行したので、より朝鮮本土側のアルゴノート島が竹島、正確な位置にあるダジュレー島が松島と表現されることとなった。嘉永2年、竹島として勝が模写した図が慶応3年には松島になっていたのである。慶応3年の「大日本国沿海略図」についてはすでに多くの研究者の研究により、伊能忠敬の小図を元にしてイギリスで1863年「日本・朝鮮図」なる表題で作成されたものが利用されていることがわかっている。イギリスの地図では唯一南側に「Seal Port」という地名か地勢かが記入され、勝海舟の「大日本国沿海略図」では「シェル崎」とされている。Sealは英語でアザラシ、オットセイ等を意味するから転じて「アシカのいる岬」の意味であろうか。また竹島に近い竹嶼は鬱陵島がフランス語のDageletになっているのに合わせてフランス語の羅針盤、コンパスを意味するBoussoleとなっており、勝の地図はボが濁点なしでホとなりホウリルロックとなっている。また実在しない竹島、アルゴノート島はすでに存在の確認が長期間なされていないことから両方の図とも点線で細長い島に描かれ、イギリスの地図にはP.D.すなわちPosition Dubtful、位置不詳と注記されている。嘉永2年フランス船リアンクール号が立ち寄り、今や鬱陵島に松島という島名を奪われていた島は、イギリスの方がLiancourt Rocksと東島、西島を意識してか複数の岩礁として島名で記され、「大日本国沿海略図」の方はリエンコラルトロックとなっている。また両方の図内に水深を示す同じ数字が書きこまれているが、「大日本国沿海略図」の注記の中に「ハアデムは日本の六尺一間なり、海中の深浅はハアデムで以て測量す」とある。勝監修の「大日本沿海略図」には以上のようにイギリスの地図に詳細に従う意図が見えるが、この地図に金森建策の「竹島図」の影響は特に見いだせない。

 さて、勝は自分が監修して作成した地図の説明文の中に「わが家塾で刻し」と自分の塾の者達が協力したと記している。その門弟の一人で坂本龍馬の兄弟子とされる佐藤政養が慶応3年「銅版大日本精図」なるものを刊行し、これも蘆田文庫に所蔵されていることがわかった。日本全体の図は長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」によっていることはわかるが、周囲に日本全国の藩名等を書き込み説明文には最近開国、鎖国の2論が国内に展開されていることを作図の理由としている。そして竹島、松島も書き込まれているが、その島の形は赤水図とは異なり、イギリスの地図や師の勝海舟が監修した「大日本沿海略図」と同じであり、勝の地図制作に深く関わったことを如実に物語るものとなっている、ただアルゴノート島を意味する竹島の文字の横に赤水図と同様に「一伝磯竹島見高麗…」の語句が記入されている。

松江藩主松平斉貴公像

【写真1】松江藩主松平斉貴公像(島根県立図書館所蔵)

 

イギリス製「日本・朝鮮図」の「松島」部分図

【写真2】イギリス製「日本・朝鮮図」(島根大学所蔵)の「松島」部分図

 

勝の「大日本沿海略図」の「松島」部分図

【写真3】勝の「大日本沿海略図」(蘆田文庫所蔵)の「松島」部分図

 

勝の門弟佐藤政養の「日本精図」

【写真4】勝の門弟佐藤政養の「日本精図」(蘆田文庫所蔵)

 

おわりに

 「大日本国沿海略図」は勝海舟が監修し、福田鳴鵞なる人物が編集して完成している。福田は『勝海舟日記』に度々一緒に行動する人物で、福田敬業とか福田鳴鵞と書かれている。文化14年生まれで江戸の薪炭商万屋兵四郎の娘婿としてその名を継ぎながら幕府の海防方兼蕃書調所御用係として外国語文献の翻訳や出版に協力している。「大日本国沿海略図」が桂、福田の名で刊行される頃には慶応元年5月23日「鳴鵞より『経世文編』十一冊来る。」、6月2日「鳴鵞来る。聞く、上納金の事にて小吏賄賂を貪り下々難儀候よし。」、慶応2年2月5日「鳴鵞来る。」等接触が多くなったことを日記はうかがわせる。また明治期の日記にも明治16、17年を中心に福田の名が敬業か鳴鵞で多数記録されている。

 その福田は松浦武四郎とも交流があった。松浦武四郎記念館所蔵の書簡の中には、福田敬業を「福敬業」、「福業」とした書簡が複数ある。同館には吉田松陰や大村益次郎、木戸孝允と武四郎との間の個々の書簡もある。吉田松陰は直接武四郎とも会い、嘉永6年には「此の人足跡天下に遍く、殊に北蝦夷の事に至って精しく、近藤拾蔵以来の一人に御座候。(中略)此の度松浦竹四郎と申す一奇人上国罷り登り候間、此の人海防向の事付き心懸之れあるものなり」と書いた書状を武四郎自身に持たせ知人に紹介するとともに自分も竹島開拓論を松下村塾で展開した。門下生の大村益次郎と木戸孝允は松陰の死後、連名で「竹島開拓建言書草案」を閣老久世広周に提出している。大村は原田一道とも深い交流があったことはすでに記したが、木戸も明治4年岩倉具視遣欧使節団の副使だったので、長期間原田と一緒だった。なお後に戸田敬義が「金森謙ノ書」を持っていると公文書に記した渡辺洪基も書記官として木戸、原田と同道している。木戸は松下村塾から江戸へ遊学した高杉晋作や斎藤栄蔵の世話を生前の松陰に依頼されたことがある。その内の斎藤栄蔵は明治維新後、境二郎の名で国の官吏として島根県の参事、県令となり、松江に長く滞在した。そして参事時代の明治9年、内務省から竹島の地籍を問われた際、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」という伺いの形で竹島の地籍を「山陰一帯之西部ニ貫附スヘキ哉ニ相見候」と回答し、「磯竹島略図」なる図を添付している。竹島の地籍を問われているため、竹島(別名磯竹島)だけの図で良かったが、直接松江で問い合わせた内務省地理寮の田尻賢信や杉山栄蔵から「旧鳥取藩商船往復之線路」を書き込むことと、「旧記古図等御取調」といった具体的指示があったので「磯竹島略図」は隠岐や現在の竹島、江戸時代前期松島と呼ばれていた島も入れた「小谷伊兵衛殿ニ所持被成候絵図之写」を簡略化して図を作成し、その図の説明として「原由之大略」という文章もつけている。

 このように「竹島図」は八右衛門の原図が金森建策、勝海舟、松浦武四郎等の加筆や模写を受けながら、幕末から明治初期の学者や明治維新に関わった志士達が見つめ、新しい時代を模索する材料の一つとなった意義も持つように思われる。

 なお私は平293月、竹島問題資料調査隊の一員に加わり長崎を訪れた。県立長崎図書館、長崎大学中央図書館、長崎歴史文化博物館等が所蔵される文献を閲覧させてもらいながら、少年時代長崎に遊学した金森建策の当地での足跡と長崎に立ち寄った松浦武四郎が長崎みやげとして写し取って持ち帰ったという『竹島図説』が現在も長崎に残存しないかを意識して数日を過ごしたが、共に確認できる資料には出会えなかった。

海舟勝、鳴鵞福田と英語風の名が入った説明文

【写真1】海舟勝、鳴鵞福田と英語風の名が入った説明文

 

松浦武四郎

【写真2】松浦武四郎(松浦武四郎記念館所蔵)

 

松浦武四郎の「竹島之図」

【写真3】松浦武四郎の「竹島之図」(『竹島雑誌』)


参考文献

・『勝海舟全集』頸草書房

・『外務省記録竹島関係文書集成』(エムティ出版1996年)

・『竹島考証』(エムティ出版)

・『松平家家譜』(島根県立図書館蔵)

・桃裕行『松江藩と洋学の研究』(思文閣出版1989)

・梶谷光弘『松江藩校の変遷と役割』(松江ふるさと文庫11)

・鈴木濮實「松江藩海軍歴史年譜」(『山陰史談』19号昭和58年)

・正井儀之丞「雲州軍艦八雲丸」(『島根評論』第9巻2号昭和7年)

・宮永孝『日本洋学史』(三修社2004年)

・倉沢剛『幕末教育史の研究』(吉川弘文館1983年)

・中原健次『松江藩格式と職制』(松江今井書店平成9年)

・県史32『島根県の歴史』(山川出版社2005年)

・杉原隆「八右衛門、金森建策、松浦武四郎の「竹嶋之図」について」(「竹島問題に関する調査研究」平成19年)

・石井悠『シリーズ藩物語松江藩』(現代書館2012年)

 

杉原隆(前島根県竹島問題研究顧問)


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