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朝鮮から日本海の水産を見守った男達

ー川合村の庵原文一、松江の西田敬三、隠岐の中井甚二郎についてー


 

はじめに

 過年東京海洋大学海洋学部図書館で所蔵書籍を調査させてもらった時、同大学の長い歴史につながる水産伝習所、水産講習所の卒業生に関する資料を発見した。その中に明治23年卒業した水産伝習所1回生の全員の名前があったが、島根県を本籍地とする者は安濃郡川合村の庵原文一、美濃郡鎌手村の寺戸誠之、那賀郡浅利村の佐々木荘二郎のいずれも石見地方からの3人だけであった。そしてその内、島根県竹島問題研究顧問の藤井賢二氏から折々いただく資料には庵原文一の名がかなり登場することに気がついた。また平成27年藤井氏から戦前朝鮮総督府水産試験場で活躍した西田敬三という人物が、島根県出身とあるがどういう人物か知らないかとの質問を受けたが知らなかったので、県内の人名関係の書籍で調べてみた。その結果旧制松江中学校の教諭で来松したラフカディオ・ヘルンと深い交友関係を持った西田千太郎の次男であることがわかった。平成27年10月島根県竹島資料室に、中井養三郎の長男中井養一の娘で東京在住の女性と養一や次男甚二郎の妹ミツの娘で滋賀県在住の女性が訪れられた。そして、二人の口から中井甚二郎は戦後東海大学の教授や名誉教授を務め、東海大学海洋学部のある清水キャンパスには中井文庫として整理されている文献があるから一度見て欲しいとの話があった。

 この3人を意識して種々の資料を調べていると、意外にも3人はソウルにあった韓国統監府や朝鮮総督府、釜山にあった朝鮮総督府水産試験場に勤務した経験があり、西田と中井は同僚としてかなりの期間一緒だったこともわかった。藤井賢二氏が庵原文一にふれて最近島根大学の伊藤康宏教授等を編者とする『帝国日本の漁業と漁業政策』(北斗書房)に「日本統治期の水産開発構想」ー庵原文一を中心にー」と題する論文を発表された。この本は水産史研究会の研究者による漁業史的視点での論考になっており、藤井氏もそれに沿って執筆されているので、私は島根県関係の埋もれていた人物史を発掘するという観点で庵原とそれ以外の西田、中井も紹介してみたい。

ソウルの総監府

庵原文一が勤務したソウルの統監府

 

ソウルの総督府

庵原文一が勤務したソウルの総督府

 

釜山の総督府立水産試験場

西田敬三、中井甚二郎が勤務した釜山の総督府立水産試験場(ネット上の資料)

 

1.庵原文一(いはらぶんいち)について

 庵原文一の本籍は石見一宮の物部神社のある島根県安濃郡川合村、現在の大田市川合町であるが、生まれは徳島県であることが2001年発行の『日本人物情報体系第72巻』所収の「海外邦人の事業及人物」(大正11年刊)でわかった。さらに『朝鮮之水産』という雑誌には徳島県の守野家から当時の物部神社の宮司金子家の分家である庵原家へ養子として入ったことが記されている。『石見一宮物部神社由緒』(昭和42年刊)には宮司金子家に続く序列の神職に庵原家が掲載されている。

 しかし庵原文一は目下理由は不明であるが、神職に就かず水産伝習所へ進んでいる。水産伝習所は日本の水産業の発展を目指して品川弥二郎等が結成した大日本水産会が、明治22年若い水産者育成を目指して設立したものである。水産伝習所の具体像については明治25年刊の『大日本水産会水産伝習所沿革』で理解できる。庵原は水産伝習所を卒業すると、自らが生まれた徳島県の水産技手になった。徳島県では潜水器漁業の普及、改良に尽力した。徳島県の潜水器漁業は現在の阿南市に属する伊島で粟田徳蔵等によって開始されていた。明治38年3月1日付けの釜山で発行された日本人向け日刊紙「朝鮮日報」に、徳島県伊島漁業組合の理事である川西太吉が「潜水器漁業の概況」という当時の朝鮮海域での実情を報告しているが、伊島の漁師達は明治22年10月から朝鮮海域に進出し毎年20台内外の潜水器を用いて操業し、以降1年も休止せず現在まで継続している。当初の漁場は釜山浦沿岸から西南木浦沿岸だったが、日露戦争後は韓海全域で可能になったので欲知島を拠点に広範囲に漁撈を展開している。漁獲物は海鼠(なまこ)、鮑(あわび)、瀬戸貝(貽貝・いがい)が主で、漁場で煮乾した製品を帆船で対馬へ送り、そこからは汽船で長崎へ運び清国へ売る等の行程も記されている。

 徳島県の潜水器漁業の研究者磯本宏紀氏は、「潜水器漁業の導入と朝鮮海出漁 ー伊島漁民の植民地漁業経営と技術伝播をめぐってー」なる論文(『徳島県立博物館研究報告』)で、より専門的に分析されている。庵原の名は昭和18(1943)年伊島に建立された「粟田徳蔵翁頌徳碑」にも粟田と共に刻まれているし、田所市太が執筆した粟田の出身村史である『椿村史』の「韓海漁業の鼻祖粟田徳蔵氏の事蹟」の項にもその名が登場している。

 明治30年代前半には、朝鮮の『日本人物情報体系』に載る庵原の履歴に短期間の農商務省水産調査所員としての活動を経て石川県の水産技手になったとある。まず石川県水産会が主催した「第二回日本海方面府県聯合水産業大会」では大会幹事として運営の中心となり、大会終了後同大会の『報告書』を書いたのが当時石川県水産技師兼水産講習所長の庵原文一であった。日本海方面府県聯合水産業大会は「日本海方面各地方水産業団体ノ気脈ヲ通シ衆議ヲ交換シ及水産制度上ニ於ケル利害得失ヲ講究シ一致提携シテ斯業ノ発達ヲ目的トシ」を設立理由として大日本水産会兵庫支会が建議し、明治32年9月に島根県松江市で島根県外海水産業組合聯合会議所主催の第一回大会がすでに開かれていた。その時の内容は、明治32年9月16日付けの「山陰新聞」に「水産業大會」と題する記事で載っており、山口県を除く石川県以西の日本海沿岸府県が参加したことや、開会式では島根県知事河野忠三、大日本水産会幹事長田中芳男、農商務省技師岸上謙吉、大日本水産会京都水産支会長冷泉為野紀等が祝辞を述べている。各氏の祝辞には未発達の部分が多い日本海漁業を共同して発展させなければならないことや進出してきつつあるロシアへの対応等が述べられている。この時の開会式では来賓として農商務省水産講習所技手松原新之助が祝辞を述べている。松原は島根県松江市の出身者であった。彼は当初医学を学ぼうと東京医学校に入学したが、そこでドイツ人ヒルゲンドルフに生物学を学びこの分野に関心を持った。明治11年駒場農学校の教授となり、3年間のドイツ留学の後、農商務省技手兼一高教授となり明治23年からは水産講習所の所長となって長らく日本の水産業界の発展に尽力した。

 第二回の石川県金沢市での大会は、石川県知事野村政明が大会委員長、副委員長は石川県書記官俵孫一が主催した。俵孫一は庵原と同郷、浜田市出身の島根県人であった。俵は明治28年に帝国大学法科大学(現東京大学法学部)を卒業し官吏となり、石川県書記官から以降朝鮮総督府臨時調査局副総裁、三重・宮城県知事、北海道庁長官を歴任し、その後政界に入り衆議院議員に6回当選して浜口内閣の商工大臣にも就任した人物である。この大会に参加したのは主催県の石川を始め、青森、秋田、山形、富山、福井、兵庫、鳥取、島根の各県と京都府であった。庵原は開会式から大会中も説明員として活躍した。その他庵原については「石川県巡回教師、石川県水産講習所庵原文一氏は、三戸郡長谷川藤次郎氏の繰り網の調査のため、昨日来青森、県庁に出頭、直ちに同地に赴きたり」(「東奥日報にみる明治32年の八戸及び八戸人」)のように石川県のみならず東北地方全体の水産業の指導にあたっている。なお庵原が石川県巡回教師という職務に任命されたことを示す公文書の控えが宮内庁公文書館に所蔵されている。

 明治39年庵原は韓国統監府の水産技手に転勤した。この年の10月母満壽子、妻國子、長男文雄、次男文二、長女文子、次女勝子を伴って朝鮮の地に降り立った。

 明治43年に統監府は総督府に変わり、庵原は農商工部課長になったと『東洋文化研究』第12号(2010年3月刊)は記すが、韓国の歴史雑誌『史海』創刊号(1948年12月刊)に申●(ソク:大と百百を合わせた漢字)鎬氏も「独島所属について」という論文を載せ、『韓国水産誌』について「日本が独島を強奪してから3年後の隆煕2(西暦1908・明治41)年韓国政府農商工部水産課長庵原文一以下日本人官吏を総動員して、朝鮮に属する島嶼を一つ残らず実地調査した後に、その位置と産物その他を明記して編纂出版した本であり」と紹介している。また実物の『韓国水産誌』第1輯は1908(隆煕2・明治41)年に印刷されているが、農商工部水産局長鄭鎮弘が書いた序文には水産課長庵原文一の名を挙げ編集への尽力を讃えているし、本書の由来の部分は庵原文一自身が執筆している。この時期庵原は『韓国水産誌』以外にも「韓国の水産業」(1907年・『経済評論』)、「朝鮮海水産組合改革の趣旨」(1907年・『大日本水産会報』314号)、「水産と山林の関係、韓国沿海に魚附林を設くべし」(1909年・『朝鮮』)、「西朝鮮湾の漁利」(1909年・『大日本水産会報』316、317、318号)、「東海岸のにしん漁業と迎日湾」(1911年・『朝鮮』)、「朝鮮海に於ける日鮮漁民の関係」(1911年・『大日本水産会報』340号)、「朝鮮海の水産に就いて」(1911年・『大日本水産会報』351号)、「朝鮮漁業の概況」)(1913年・『朝鮮及満州』)、「朝鮮水産の発達と将来」(1913年・『朝鮮及満州』)、「水産奨励施行の一斑」(1913年・『朝鮮及満州』)、「朝鮮の重要水産物」(1916年・『朝鮮彙報』)、「朝鮮に於ける漁業の発達」等の論文で朝鮮の漁業の現状を紹介し、望ましい未来像を語っている。

 また日本各地から朝鮮海域に進出している各都道府県が連合して設立した朝鮮水産組合の本部が発行する『朝鮮水産組合報』に「朝鮮今後の水産」(大正4年2月20日・第48号)、「有望なる欧米向鯖鱈輸出」(大正6年3月31日・第57号)、「時局の影響と朝鮮水産界」(大正7年7月5日・第63号)が朝鮮総督府技手庵原文一の講話として掲載されているし、第51号付録に載る組合結成5周年記念として京城の朝鮮総督府中央試験場講堂で大正4年10月に開催された「水産懇話会」では、寺内総督が祝辞を述べ、4人が壇上で講演をしている。その一人が庵原で、演題は「水産の蕃殖保護に就き當業者の反省を促す」であった。この会には日本本土からも多数の参加者があり、島根県からは椋木六之丞(簸川)、安達和太郎(隠岐)、和田幾太郎(島根県水産組合連合会代表)の3名が参加している。

 明治42年島根県内務部長事務官藤本充安、島根県水産試験場長面高慶之助等が訪韓した。明治22年11月から長期にわたって施行存在した「日韓両国通漁規則」が明治41年11月に改変されたのは、新しい「日韓両国漁業協定」が締結され島根県の韓国での通漁根拠地等を新しく決定するためであった。この時4月27日、釜山で農商工部大臣趙重應、統監府水産局長鄭鎮弘、学部次官俵孫一、警視総監若林賚蔵等との懇話会があり、庵原も同席している。石川県で同郷の先輩として同県の行政の発展に共に尽力した俵と10年後には朝鮮の統監府でまた共に働く立場であった。懇話会の冒頭の挨拶で趙大臣は「(前略)俵次官及庵原技手は共ニ島根県ニ籍ヲ有セラルル等本夕御来臨ヲ辱フセシ閣下及各位ハ韓国大政ノ機務ヲ掌握セラルルノ要路ニ在テ實ニ島根県ノ出身又ハ島根県ニ深キ縁故ヲ有セラル何ソ其ノ関係深キヤ」と述べている。若林警視総監も前任は島根県知事であり、逆に韓国の警視総監であった丸山重俊が代わって島根県知事になっていた。なお島根県からの訪韓一行は4月28日には在京城島根県人会により歓迎会に招待され、俵と庵原も同席している。なおこれらの具体的な内容は、明治42年5月島根県内務部が刊行した『韓国漁場調査記要』に載っている。

 徳島県、石川県、朝鮮の統監府、総督府で水産に関する専門家、指導者として活躍した庵原は、その間本籍地の島根県に指導者として帰郷したことが何度かあった。たとえば明治42年新しい日韓両国漁業協定を島根県水産業関係者に理解させるため、丸山島根県知事の依頼を受けて松江に来ている。庵原は韓国漁業法発布以降、日本人による漁業免許の申請は数千件に及ぶが、一個人のもの、任意の組合名義のもの等同じ県の者が同じ漁場を競願する例もあるが、島根県民は島根県水産組合連合会の名のもとで漁業権を要求した方が良い等具体的に指導している。「山陰新聞」の明治42年3月4、5日の紙面には「庵原水産技師講話」と題して具体的内容が掲載されているし、前述の『韓国漁場調査記要』の付録には日韓両国漁業協定、漁業施行細則等全文が掲載されている。

 朝鮮の統監府、総督府で活躍した庵原が病気の為に辞職願を提出し、日本へ帰国する決意をしたことが、朝鮮総督伯爵長谷川好道から内閣総理大臣原敬宛の10月30日付け公文書でわかる。下啓助氏の『明治大正水産回顧録』には「朝鮮総督府にて水産事務に尽力したるは先に庵原文一氏があり其後樫谷政鶴氏にして何れも篤実有意の人物で」と2人だけの人名を挙げている。日本に帰った庵原は川合村での休養からか体調も回復し、大正11年から昭和5年まで同村の村長を務めている。現在川合村が所属する島根県大田市役所に保存される「川合村村会会議録」、「川合村村会議事録」の大正11、12、13、14、昭和2、5年度分には村長、議長として庵原の名がある。村長としての庵原のことは『川合教育百年史』(昭和48年刊)に、大正13年9月20日落成した川合小学校講堂の落成式での彼が壇上で述べた「式辞」と彼が中央に写る記念写真で確認できる。

 私は昭和53年4月から昭和57年3月まで4年間、島根県立大田高校で教員生活をおくった。その間に同校の卒業生でもある故白石昭臣先生と2人で『大田高校60史』を書いた。旧制大田中学校時代は私が担当したが、その一つの項目に「朝鮮からの中学生」がある。昭和7年の第10期生の襄鐘奎、襄鎮奎等10年間に庵原の居住する川合村と隣接する大田町にある日本の旧制中学校に、朝鮮からの留学生が13名入学している。具体的な理由は今でも不明であるが庵原の支援も考えられる。庵原は昭和10年6月20日に死去している。昭和10年6月21日付けの「松陽新聞」は腎臓病が原因での死去と報じ、大日本水産会刊行の機関誌『水産界』第632号(1935年7月刊)は、「庵原文一氏逝去本会員庵原文一氏は六月二十日病の為め逝去せられたり茲に謹みて哀悼を表す」と訃報を記している。彼が人生の最後を過ごした川合村1560番地の地籍は、昭和17年度の『川合村家屋台帳』によると彼の長男文雄の名に変更されている。

庵原文一(総督府勤務時代)

総督府勤務時代の庵原文一

 

水産技手の辞令(石川県)

石川県水産技手の辞令

 

決裁文書

川合村長庵原文一の決裁文書

 

2.西田敬三について

 藤井賢二氏から調査の依頼を受けた西田敬三については意外な人物であることがわかった。明治23(1890)年8月松江中学・島根県尋常中学校(現在の松江北高等学校)に外国語教師として招かれたラフカディオ・へルン(小泉八雲)を、同僚としてまた校長代理の立場からも心を開いて交流を続けた人物に西田千太郎がいるが、敬三は千太郎の次男であった。西田千太郎については、彼が明治12年5月から明治15年8月の間は「特号」として断片的だがその他は明治30年1月まで長期間克明に日々の出来事を日記に残している。それを昭和51(1975)年松江北高等学校の教師であった池橋達雄氏と当時島根県立図書館の職員で現在八雲会の事務局長である内田融氏等が編集し『西田千太郎日記』として刊行され、八雲研究には欠かせない資料となっている。同『日記』を見ると、明治24年4月に「九日(快晴)未明(五時十五分頃)二男安産」、「十一日(少雨)幼児敬三ト命名ス」、「廿日(一時雨、快晴)へルン氏、敬三ノ為メ大鯛及び絹地三尋ヲ贈ラル」と西田敬三の誕生とそれをヘルンが祝ってくれた事が書かれている。

 敬三の母はクラといい、父千太郎が23才の時18才で明治17年に結婚し、翌年には長女キン、明治21年には長男哲二を生んでいる。西田家の住居は現在の松江市新雑賀町にあった。

 敬三が誕生した年の10月、ラフカディオ・ヘルンは熊本の第五高等中学校講師に招かれ松江を去ることが決まった。西田千太郎は肺結核を病み、同じ月から病床に臥す身となった。へルンが去った日の日記に千太郎は「予ガ病気ノ為メニ、氏ノ世話ヲナシ得ザリシハ氏ノ最モ哀シミシ処ニシテ、予ノ最モ遺憾トセル所ナリ」と記している。

 その後千太郎は学校へ出勤する日もあったが病床にあることが多く、ついに明治30年3月15日に36才の若さで逝去した。長女キン13才、長男哲二10才、次男敬三7才、三男兵四郎4才が遺児となった。現在の松江北高等学校の同窓会名簿『双松』は、長男哲二、次男敬三、三男兵四郎共に父千太郎が教員を務めた松江中学・島根県尋常中学校を卒業したことを記録している。長男哲二はその後東京帝国大学工学部に進学しているが、父同様に30才の若さで夭折している。次男敬三は東京大学農学部水産学科を卒業し農商務省水産局、同水産講習所に勤務した後、大正11年7月から朝鮮総督府水産試験場技手として昭和20年敗戦で日本本土へ帰国するまで長らく朝鮮の地に滞在している。

 西田は朝鮮総督府水産試験場技手から、後には試験場長になっている。技手時代の西田は海洋気象学会の機関誌『海と空』に精力的に論文を発表している。昭和3年「外洋に於ける海洋観測」、「播磨灘に於ける碇置観測の海上気温並びに湿度、表面水温の日変化に就いて」、昭和4年「海水温度及塩分の一日変化に就いての一観測例」、昭和5年「対馬海峡東水道海潮流観測成績」、昭和6年「海流調査二機同時観測例」、「黄海沿岸潮流観測成績」、昭和10年「黄海の霧と対馬海峡の霧に就いて」、「日本海深層観測成績」、「海流瓶漂流成績」等がそれである。試験場長時代の西田については『朝鮮の工業と資源』(1937年)に「朝鮮の水産資源について」と題する論文を書くし、『地学雑誌』(東京地学協会・2001年)が「場長西田敬三等の努力で精度の高い観測の蓄積がなされた」、「西田敬三は早い時期から総督府の調査船「鶚(みさご)丸」によって質の高い海洋調査を押し進めていた。その成果は総督府の『海洋調査報告』等に発表され、日本海や黄海の海況を明らかにするのに貢献した」と活躍を評価し賛辞をおくっている。

 日本の敗戦により朝鮮より帰国した西田は広島大学水畜産学部の教授に招へいされた。

 朝鮮から日本本土へ引き揚げた水産関係者達は「朝水会」を組織し、会誌『朝水』を1947年から刊行しているが、その2号に西田は「将来における水産業の提携に就いて」と題して日本人と朝鮮人のこれまでの水産業の発展への協調を振り返りながら、今後も提携の必要を力説している。また1958年の『広島大学水畜産学部紀要』第2巻第1号に「日本海下層冷水の性状について」と題する論文を発表している。その中には朝鮮総督府の鶚丸で自ら調査した資料も活用されている。1962年には『日本海洋学会20年の歩み』に「朝鮮の海洋調査」を執筆している。ご健在のご子息西田志朗氏によると「父は自分は研究者としては二流だったが、行政面の責任者としては頑張ったつもりだと言っていた。」とのことであるが朝鮮総督府水産試験場長と共に広島大学でも長らく水畜産学部長も務め退職した。昭和55(1980)年12月13日89才で永眠し、松江市寺町の長満寺にある西田家の墓地に埋葬された。地元紙「山陰中央新報」の12月24日付けには小泉八雲を顕彰する八雲会の当時の会長梶谷泰之京都外国語大学名誉教授が「西田敬三氏をしのんで」という哀悼文を寄稿している。梶谷氏は父西田千太郎の日記を所蔵する西田敬三とも長期間親交があった。

晩年の西田敬三

晩年の西田敬三(西田志朗氏提供)

 

父千太郎と小泉八雲の写真

西田敬三が所持していた父千太郎と小泉八雲の写真

 

『海洋の科学』

西田の論文が載る『海洋の科学』

 

3.中井甚二郎について

 鳥取県人であり潜水器を用いて海鼠(なまこ)や鮑(あわび)等を捕獲する水産業の事業化を目指して隠岐に現れたのが中井養三郎である。彼は隠岐の漁民がリャンコールド(リヤンコ)島等でアシカ猟をしている状況を知り、それに参入た。独占化を目指して明治37年9月に上京し明治政府の内務、外務、農商務の3大臣に「りやんこ島領土編入並ニ貸下願」を提出した。この願書は翌年内閣の閣議で認められた。りやんこ島は竹島と命名され島は隠岐島司の所属となり、中井養三郎は島根県から許可を受け竹島漁猟合資会社の代表としてアシカ猟に乗り出した。中井養三郎には後アシカ猟の漁業権を譲渡する長男養一と後マイワシの研究者として日本の水産業界に名を残す次男甚二郎の2人の男児がいた。現在の隠岐の島町の西郷小学校に残る『卒業生名簿』には、卒業証書番号第22号、明治42年3月25日卒として養一、第339号、大正3年3月24日卒として甚二郎の名前がある。

 中井甚二郎は明治34(1901)年隠岐の西郷町に生まれた。西郷尋常小学校を卒業後大正3年4月松江の旧制松江中学校に進学した。前述の西田敬三は明治43年に同校を卒業している。しかし水産業に従事する父や兄の影響からか、2年終了時福井の小浜水産学校へ転校し、さらに東京の水産講習所で水産に関する専門的知識、技術を習得した後、昭和3(1928)年朝鮮総督府水産試験場の技手となり朝鮮に渡った。現在の東京海洋大学水産学部図書館に残る水産伝習所、水産講習所等の卒業生名簿『楽水會會員名簿』(昭和8年刊)には養殖専修科30回生に甚二郎の名前があり、現職は朝鮮水産試験場技手とある。

 西田敬三は大正11年から同試験場にいたから、勤務も年齢も西田を先輩として甚二郎は西田と長期の交流を持つことになった。甚二郎は戦後日本本土に帰国し、昭和59(1984)年1月27日82才で逝去している。教え子達はその直後の昭和61年12月『中井甚二郎先生業績目録』を刊行しているが、その冒頭の論文は西田敬三、中井甚二郎の2人の名前で1931年「水産物理談話会会報」32号に発表された「赤沼式比重計に関する二三の実験」である。また中井甚二郎が書いた「私のマイワシ産卵調査暦抄」(「さかな」27号、中央水産研究所同窓会)には1936年正月、水産試験場長の西田が中井の研究室を訪れ2人で談笑していた時、当時明確でなかったマイワシの産卵場所について、西田は「冬季の日本海中央域の下層部」と考えていること、中井は「冬季の九州西部沿岸」と考えていることがわかった。西田はすぐこの問題解決を水産試験場の研究テーマとするように指示し、1936、1937年朝鮮総督府水産試験場試験船「鶚丸」で大規模な調査がなされたという。

 1936年2月9日から隠岐近海も含めて、冬季日本海中央部76点の地点で調査がなされた。この年日本では2・26事件が勃発しており、試験船が2月28日石川県の輪島港に入港した時は軍による厳しい臨検が行われたという。日本海でのイワシの産卵場所の確認は結果的に認知出来なかったので、翌1937年には九州西部から対馬海峡の93の地点で調査が行われた。その結果北緯32度以南の薩南海域が2月から3月にかけて最も高密度の卵が確認されたという。その直後の1937年7月から中井に赤紙が届き、二等兵として歩兵30連隊に応召するが短期間で軍勤務から解除され、西田と共に総督府での研究を許された。毎年発行される『朝鮮総督府官署職員録』の水産試験場の部には2人の名前が長期にわたって掲載されている。

 中井は終戦後1946(昭和21)年1月に釜山から帰国し、同年7月から農林省水産試験場勤務となったが、昭和24年の組織改正により水産庁東海区水産研究所勤務となった。この時期の彼の研究成果は『東海区水産研究所資料』や大日本水産会の機関誌『水産界』に数多く発表されている。彼はその後1963(昭和38)年東海大学教授に迎えられ名誉教授にもなり同大学の海洋学部の発展に努めた。この間の彼の論文は『中井甚二郎先生業績目録』に収録されているが、数多くの国際会議にも参加したので英文の論文も多い。

 

中井甚二郎(総督府水産試験場にて)

総督府水産試験場での中井甚二郎

 

業績目録

中井甚二郎の業績目録

 

東海大学教授時代の中井甚二郎

東海大学教授時代の中井甚二郎(最前列中央)

 

おわりに

 庵原文一は明治39年韓国統監府勤務となり、昭和10年本籍地の島根県川合村で死去しているから日本と韓国が合邦期だった時期を生きた人物である。彼の論文を読むと一貫して日本人と朝鮮人が同胞として日本海、朝鮮海の水産業を発展させていく道筋、未来が語られている。彼が統監府農商工部水産局水産課長時代、編集責任者として『韓国水産誌』が刊行されているが、朝鮮漁業史としてだけでなく、当時の朝鮮を理解する上で幅広く、現在でも必読の著作としての意義を持ち続けている。竹島についても同誌は「日本本州北西岸、隠岐列島北西方」や緯度・経度での表示で記述している。

 西田敬三が昭和10年発表した「日本海深層観測成績」や戦後広島大学水産学部教授として書いた「日本海下層冷水の性状について」等の論文は、鬱陵島や竹島の存在を意識した地点も含む調査結果が含まれており、マイワシの産卵場所を日本海と主張した時代には自らも朝鮮水産試験場の調査船での調査に参加していたと思われる。

 中井甚二郎は戦後国内外で父養三郎の竹島でのアシカ猟が動物愛護の観点から批判を受けたこと等から、自らが朝鮮で水産関係の研究者として長期間滞在したことについては語ることは少なかったといわれている。しかし竹島の領土問題が日本、韓国の政府間で激しく論争された昭和28年に、明治39年島根県の調査員の一員として竹島の島上にいる父の写真を大日本水産会の会報『水産界』等に公表して日本政府の主張を支援した。

 庵原文一、西田敬三、中井甚二郎は朝鮮に居て竹島を見たり意識したりして、日本海の水産を見守った島根県人である。


参考文献

  1. 『楽水會會員名簿』(東京海洋大学海洋学部図書館所蔵)
  2. 『帝国日本の漁業と漁業政策』(北斗書房)
  3. 『朝鮮之水産』(朝鮮水産会)
  4. 『石見一宮物部神社由緒』(物部神社所蔵)
  5. 『徳島県立博物館研究報告』18号
  6. 『椿村史』(徳島県立図書館所蔵)
  7. 『韓国水産誌』(朝鮮総督府)
  8. 『韓国漁場調査記要』(島根県竹島資料室所蔵)
  9. 『明治大正水産回顧録』(東京水産新聞社)
  10. 『川合教育百年史』(大田市立図書館所蔵)
  11. 『大田高校60年史』(島根県立図書館所蔵)
  12. 「庵原文一に関する新聞記事」ー藤井賢二氏の提供
  13. 『西田千太郎日記』(島根県立図書館所蔵)
  14. 『海と空』(国立国会図書館所蔵)
  15. 『植民地と台湾』(第一書房)
  16. 『広島大学水畜産学部紀要』(広島大学中央図書館所蔵)
  17. 「りやんこ島領土編入並ニ貸下願」(島根県公文書センター所蔵)
  18. 「中井甚二郎先生業績目録」(写しを島根県竹島資料室所蔵)

杉原隆(前島根県竹島問題研究顧問)

 


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