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杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」

第12回天保竹島一件と八右衛門


朝鮮人安龍福が2度にわたり隠岐や鳥取藩に来たことにより、対馬藩が幕府の命令を受けて朝鮮王国と現在の鬱陵島(当時の呼称は竹島)の扱いについて3年にわたっての協議の末、幕府が話し合いが進展しないのをみて、この島への日本人の渡海を禁止したりしたのは元禄時代のことでした。これらの事件をまとめて元禄竹島一件というということは、すでに杉原通信第9回でお話しました。

今回は天保年間に起こったので「天保竹島一件」と呼ばれる出来事についてお話しましょう。

島根県の石見地方の浜田藩松原浦に廻船1艘を所有し、自らも船に乗り込むいわゆる直乗船頭とよばれる者に、八右衛門という人物がいました。屋号は従来会津屋(あいずや)とされていました。しかしながら、浜田市在住の研究者森須和男さんによる八右衛門が往来した港の「廻船控帳」を中心とする調査では、今津屋(いまずや)とする説が浮上しています。八右衛門はたびたび北海道の松前へ物資を運びましたが、その都度、緑豊かで魚影の濃い竹島(現在の鬱陵島)周辺を通りました。北前船の航路で北海道と下関を結ぶものに、竹島と松島(現在の竹島)の間を通るものがあったことは、浜田藩の記録「石見外記」(いわみがいき)や、蝦夷の探検家近藤重蔵が北海道の船乗りから聞いた記録、高田屋嘉平衛所有の地図等でわかります。

当時の浜田藩は財政がひっ迫していました。そのことを知った八右衛門は浜田藩勘定方橋本三兵衛に、「竹島に渡って自然のまま放置されている竹木を伐採し、海産物を持ちかえれば藩の利益になります」、「私が今まで見た地図には竹島は白のままで朝鮮国の色も塗ってないので、島の所属はないと思われます」、「お国のためと思ってした事で命がなくなるのなら、喜んで死にましょう」と語ったと、森須和男氏はその著『八右衛門とその時代』に書かれています。この計画には、さらに浜田藩家老岡田頼母(おかだたのも)や年寄役松井図書(まついずしょ)も加わり、最終的には藩主松平周防守康任(まつだいらすおうのかみやすとう)の決裁を仰ぐことになりました。康任は当時幕府の筆頭老中という要職にあり、江戸住まいでした。まもなく江戸屋敷から「竹島は日の出の土地(日本)とは定め難いが松島なら良い」、「持ち帰った物は大坂以東へ流出させてはならない」と渡海を許可しているともとれる含みのある回答がありました。

喜んだ八右衛門等は、松島へ行くという口実で実際には竹島へ行く計画を練り上げ、八右衛門と資金提供の淡路屋善兵衛、重助、新兵衛、久米蔵、音五郎、安吉、新作という水主の8人で、浜田を天保4(1833)年6月15日出港しました。直接竹島を目指しましたが、強風と悪天候で長州の見島へ流されてしまいました。やむを得ず海岸沿いに東上し、隠岐へ渡って大谷・村川家が70余年にわたって竹島渡海の基地にしていた福浦に到着しました。順風を待って7月17日福浦を出港、まず松島が見えてきましたが、岩礁だけの島であることを知っていましたので、上陸せず直接竹島を目指し同月21日到着しました。上陸してみますと海上にはトド(ニホンアシカ)の大群が泳いでいましたし、森にはいると大きな鳥が人間めがけて襲いかかりました。持参した鉄砲で撃ち落とすと共に、トドも1頭射殺して持ち帰ることにしました。

欅(けやき)や桐等の大木を4、50本伐採し、朝鮮ニンジンと思われる草根も採取しました。島での収穫と共に八右衛門はこの島の将来の開拓をめざして、持参した磁石を利用して、また島を何回も周回して緻密な竹島図を作りました。のち竹島渡海が発覚し、尋問を受けた際の口述書の抄録である「竹島渡海一件記全」(東京大学附属図書館所蔵)には、「嶋の四面をも一同船ニ而乗廻し、私所持之磁石を以って、方角を極細見および」、「嶋之次第私自筆ニ絵図ニ写取り」としています。この八右衛門の竹島図は目下発見されていませんが、写させてもらったと記した竹島図が2枚見つかっています。

まず彼らは8月23日に竹島を出発し直接浜田に向かいましたが海が荒れ、動物を殺した神の怒りかと大鳥やトド、せっかく伐採した木材の一部も海に捨て同月27日やっとのことで帰国しました。

八右衛門の竹島図の話にもどりますが、「天保4年11月19日の夜に写させてもらった、所有者権吉」と記載した図があります。また、「八右衛門が天保4、5、6年と隠岐経由で竹島に渡ったので、天保6年に写させてもらった」と隠岐の海士(あま)の渡部円太夫なる人物が記した竹島図があります。2006年に私達は鬱陵島を調査しましたが、この2枚の地図を持参して現地の地勢等と比較すると、現在の島やあちこちにある岩礁の形はまったく同じで、八右衛門の筆写の正確さに驚かされました。なお、従来八右衛門の渡海は天保4年の1回のみと考えられていましたが、この地図の発見ですくなくとも3回は渡海していることもわかりました。

さて、天保7年に八右衛門の竹島渡海を中央の幕府が知ることになりました。発覚については諸説ありますが、幕府の探索方で各地の状況を調べ歩いていた間宮林蔵が、浜田の下府(しもこう)でこのことを聞き報告したというのが有力です。八右衛門は浜田で大坂町奉行所が派遣した者達に逮捕され、同奉行所と江戸奉行所で尋問を受け「不届ニ付き死罪申付ル」として同年12月23日処刑されました。没年39歳でした。

八右衛門と深く関わった浜田藩勘定方橋本三兵衛も死罪に、二人が尋問を受けている間に浜田藩家老岡田頼母、年寄役松井図書は自害しました。また、浜田藩主で幕府の筆頭老中だった松平周防守は病気を理由にすでに藩主と職を天保6年辞していましたが、「隠居ならびにきっと慎み」と監督不行届の罪で蟄居を命じられます。さらに、浜田藩主になったばかりの松平周防主康爵(やすたか)は、陸奥国の棚倉(現在の福島県)へ国替えを命じられています。

この天保竹島一件に基づき、元禄9年の渡海禁止の再確認をすることという文書が松江藩では出されています。

竹島渡海一件方角図

方角図(「竹嶋渡海一件記全」所収)(出典:『八右衛門とその時代』森須和男※原本は東京大学総合図書館所蔵)


(主な参考文献)

・森須和男『石見学ブックレット3八右衛門とその時代−今津屋八右衛門の竹嶋一件と近世海運−』浜田市教育委員会2002年

・河田竹夫「橋本三平と会津屋八右衛門」『亀山』14号浜田市文化財愛護会1984年

・矢富巖夫「浜田藩竹島事件」『歴史読本スペシャル(特集御家騒動)』1989年2月特別増刊号新人物往来社

・杉原隆「八右衛門、金森建策、松浦武四郎の「竹嶋之図」について」『「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』島根県竹島問題研究会2007年


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