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韓国が知らない10の独島の虚偽

第5回

「韓国が自国の主張の根拠…供述には、多くの疑問があります。」の正当性

 東北アジア歴史財団は、日本の外務省が刊行した『竹島問題を理解するための10のポイント』の内、「5.韓国が自国の主張の根拠として用いている安龍福の供述には、多くの疑問があります」を以下のように要約し、次の1〜3を根拠として、「日本の主張はこれだから誤りだ」と批判した。


【要約】

「韓国が自国の主張の根拠として引用する安龍福の陳述内容は、自身の不法渡日に対する取調べの時に行なったもので、事実と符合しないことが多く、日本の記録にない内容もある。」


 

【韓国側の批判1】

安龍福の渡日活動に関しては、朝鮮の備辺司でも徹底した調査がなされたもので、それを記録した朝鮮の官撰書の記録が真実でないとする日本側の主張は受け容れ難い。また、朝鮮の記録に在ることが日本の記録にないと言う理由だけで、朝鮮の記録は信憑性がないと言うのは不当だ。
※安龍福の渡日活動は、『粛宗実録』、『承政院日記』、『東国文献備考』など、韓国の官撰書と『竹嶋記事』、『竹嶋渡海由来記抜書控』、『因府年表』、『竹島考』など日本の文献に記録されている。

【東北アジア歴史財団による歴史の捏造】

 竹島問題で最大の争点となるのは、朝鮮時代の安龍福が供述した証言の信憑性である。それは元禄九年(1696年)5月、隠岐島に密航した安龍福が、鳥取藩によって加露灘から追放されていたにもかかわらず、朝鮮に帰還後、鳥取藩主から「欝陵島と于山島はすでに朝鮮領となった」と言われたと証言し、「松島は于山島だ。これも我が朝鮮の地だ」と供述していたことを指す。

 この安龍福の供述は、『粛宗実録』、『東国文献備考』等に収載され、『東国文献備考』の分註(「輿地志に云う、欝陵・于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島(現在の竹島)なり」)の成立にも影響を与え、独島を韓国領とする韓国側の文献的根拠とされてきた。

 だが『東国文献備考』に引用された『東国輿地志』の原文には、「一説、于山、欝陵本一島(于山島と欝陵島は同一の島である)」とあって、「松島は于山島だ」とした安龍福の供述はその信憑性を失った。そこで外務省の『竹島問題を理解するための10のポイント』では、安龍福の供述には「多くの疑問」があるとしたのである。

 これに対して東北アジア歴史財団は、「朝鮮の備辺司でも徹底した調査がなされたもので、それを記録した朝鮮の官撰書の記録が真実でないとする日本側の主張は受け容れ難い」と反発した。だが「朝鮮の官撰書」に収録されているのは、犯境罪人安龍福の供述調書である。被疑者の供述を検証することもなく、「真実」とする独断は「受け容れ難い」。

 現にその供述調書は、安龍福の密航事件が朝鮮の廟堂で議論された際に検討され、重臣等は供述の信憑性を疑っていた。領議政の柳尚運は、安龍福を「法禁を畏れず、他国に事を生ずる乱民」とし、「龍福、彼の所(鳥取藩)に到り之を為すこと」、「尽く信ずるべからざるものあり」とした。朝鮮の粛宗も、安龍福の言動を、「奸民」(注1)の所作と見なしている。それを東北アジア歴史財団は、「朝鮮の官撰書の記録が真実でないとする日本側の主張は受け容れ難い」とするが、それは朝鮮史を無視した主張である。朝鮮政府の危惧は、安龍福の行動に倣い、「末世の奸民、必ず事を他国に生ず」(注2)ることにあった。朝鮮の廟議は、供述だけでなく、安龍福の「渡日活動」そのものを重罪としていたのである。では鳥取藩主から「欝陵島と于山島はすでに朝鮮領となった」と言われたとし、「松島は于山島だ。これも我が朝鮮の地だ」とした安龍福の供述には、歴史的根拠があるのだろうか。日本側の文献で検証すると、次の三点から偽証であったことは明白である。

  1. 安龍福は鳥取藩主と直談判し、「欝陵島と竹島が朝鮮領になった」と言われたと供述した。だがこの時、鳥取藩主は参勤交代のため江戸在府中で、直接、安龍福に「欝陵島と于山島はすでに朝鮮領となった」と語ることは、物理的に不可能である。
  2. 江戸幕府が欝陵島への渡海を禁じたのは、元禄九年(1696年)1月28日。安龍福が密航する半年程前である。それに幕府が渡海禁止を決定した島嶼には、現在の竹島は含まれていない(注3)。安龍福の密航事件が、幕府の欝陵島への渡海禁止措置に影響を与えたとする韓国側の主張は本末転倒で、歴史の捏造である。
  3. 安龍福が「松島は于山島だ」とした于山島は、1711年、欝陵島の現地調査をした朴錫昌の『欝陵島図形』以来、欝陵島の東側に「所謂于山島」と附記された竹嶼を指すことになった(注4)。「松島は于山島だ」とした安龍福も、対馬藩での取調べでは、于山島を欝陵島の東北にある島と供述していたからだ(注5)。安龍福が「松島は于山島だ」とした于山島は、欝陵島の苧洞から東北に見える竹嶼で、欝陵島の東南に位置する松島(竹島)ではなかったのである。

 これら1〜3から言えることは、安龍福の供述は事実無根、偽証であったと言うことである。安龍福は鳥取藩主と談判した事実もなく、鳥取藩に密航する半年前に決定していた欝陵島への渡海禁止措置を、自らの手柄として供述していたのである。東北アジア歴史財団は、「朝鮮の記録に在ることが日本の記録にないと言う理由だけで、朝鮮の記録は信憑性がないと言うのは不当だ」と反論するが、それは犯境罪人安龍福の供述を「真実」とする先入見で文献を解釈しているからで、およそ歴史研究とは無縁である。

 残念なことに、東北アジア歴史財団には、「朝鮮の記録に在ることが日本の記録にない」事実がどのような意味を持つのか、理解ができていないようである。安龍福の供述を収めた『粛宗実録』は、正史ではない実録である。『粛宗実録』の場合、粛宗一代の歴史が編年体で編纂されている。その中には、対馬藩と朝鮮政府が争った欝陵島の帰属問題も含まれ、備辺司が訊問した安龍福の供述調書もその一部をなしている。だがそれは、実録の特徴として、対馬藩と朝鮮政府の外交交渉や供述調書が収載されているだけで、安龍福の供述内容が歴史の事実であったからではない。安龍福の供述を「真実」とするには関連する文献を精査し、論証する必要がある。その結果、安龍福が朝鮮側で供述した証言を日本側の文献で実証できず、逆に供述内容が否定されれば、安龍福の供述は嘘偽りだったのである。
東北アジア歴史財団が想像するような、「安龍福の渡日活動」は実在しないのである。安龍福は元禄六年(1693年)、竹島(欝陵島)に越境侵犯した生き証人として捕まり、元禄九年(1696年)、自ら鳥取藩に密入国した。その密航の事実は、日本側の『竹嶋紀事』、『因府年表』、『竹島考』等にも記録が残されているが、そこには安龍福が供述した事柄を実証できる記録は存在せず、逆に安龍福の供述が偽証であった「真実」を証明している。それを東北アジア歴史財団は、歴史的根拠を示すことなく、「朝鮮の記録は信憑性がないと言うのは不当だ」と強弁するが、その反論こそ不当なのである。


(注1)『漂人領来謄録』第六冊、丙子十月十五日條。
(注2)『粛宗実録』粛宗二十二年丙子十月丙申條。『漂人領来謄録』第六冊、丙子十月十五日條。
(注3)「韓国が知らない10の独島の虚偽」第4回

(注4)于山島を描いた地図には、『東国輿地勝覧』に由来するものと、朴錫昌の『欝陵島図形』に由来する二つの系統がある。『東国輿地勝覧』の于山島は、『太宗実録』の記述に従って欝陵島が描かれており、『欝陵島図形』の于山島は竹嶼である。『輿地図』、『八道輿地図』、金正浩の『青邱図』等は、朴錫昌の『欝陵島図形』の系譜に属している。
(注5)『竹嶋紀事』巻一、「元禄六年十二月五日付、高勢八右衛門より多田與左衛門宛て」返書


 

【韓国側の批判2】

安龍福の活動により欝陵島・独島に関する議論が日本で行なわれ、結果的に二島を朝鮮の領土と認定することになった。安龍福事件により朝鮮と日本両国間に領土問題が台頭すると、1695年、欝陵島・独島が鳥取藩に帰属した時期を問い合わせる江戸幕府の質問に対して、鳥取藩は「鳥取藩に属していない」と回答した。

【東北アジア歴史財団による歴史の捏造】

 東北アジア歴史財団は、「安龍福の活動により欝陵島・独島に関する議論が日本で行なわれ、結果的に二島を朝鮮の領土と認定することになった」とした。だがそれは何を根拠としての反論なのだろうか。安龍福が「欝陵島と于山島はすでに朝鮮領となった」。「松島は于山島だ。これも我が朝鮮の地だ」と供述したのは、幕府が欝陵島への渡海禁止を鳥取藩に通達した後である。それも「安龍福の活動により欝陵島・独島に関する議論が日本で行なわれ」たのではなく、幕府が欝陵島への渡海を禁じた後、安龍福が「欝陵島と于山島はすでに朝鮮領となった」と供述したのである。東北アジア歴史財団は、歴史の前後を入れ換え、虚構の歴史を捏造したのである。それに幕府は欝陵島への渡海を禁じたが、「結果的に二島(欝陵島・独島)を朝鮮の領土と認定」した事実もない。幕府の渡海禁止の対象に、現在の竹島が含まれていないことは、前回、明らかにした通りだからである。

 それを東北アジア歴史財団は史実を歪曲し、歴史までも捏造するのは何故だろうか。それは東北アジア歴史財団が、「安龍福事件」(「安龍福の渡日活動」)なるものを虚構し、安龍福の供述を前提にして、文献を演繹的に解釈するからである。

 では東北アジア歴史財団が描く「安龍福の渡日活動」(「安龍福事件」)とは、どのようなものなのか。東北アジア歴史財団としては、「安龍福の渡日活動」によって対馬藩と朝鮮政府の間に欝陵島と独島の帰属問題が起き、1695年、幕府が鳥取藩に対し、欝陵島と独島が鳥取藩に属した時期を確認した際に、鳥取藩が「(欝陵島と独島は)鳥取藩に属していない」と回答したのは、「安龍福の渡日活動」の結果と言いたいのであろう。
だがそれは東北アジア歴史財団による、歴史の捏造である。史実としての「安龍福の渡日活動」は二つあり、一つは元禄六年(1693年)、竹島(欝陵島)を侵犯した安龍福が、鳥取藩米子の大谷家の漁師達に生き証人として捕捉された事件を指す。その時、争点となったのは欝陵島の帰属問題で、「安龍福の活動により欝陵島・独島に関する議論」が行なわれた事実はない。安龍福は、越境侵犯の生き証人だったからだ。従って元禄九年(1696年)、安龍福が備辺司で供述(注6)したように、元禄六年(1693年)の時点で、鳥取藩から「欝陵島を永く朝鮮に属す」とする書契(書付)を与えられ、それを元禄九年、鳥取藩主に確認したとする事実もなかった。元禄六年の鳥取藩は、朝鮮漁民の欝陵島侵犯を幕府に訴え、幕府の命で罪人安龍福を長崎奉行所に移送する立場にあったからだ。
それに元禄八年(1695年)12月、幕府が「欝陵島・独島が鳥取藩に帰属した時期を問い合わせ」たのは、前回も述べたように、対馬藩が幕府に欝陵島は朝鮮領であると上申したため、鳥取藩に事実関係を確認しただけである。

 東北アジア歴史財団が「安龍福事件」とする第二の事件が起こるのは、幕府が鳥取藩に対し、「欝陵島・独島が鳥取藩に帰属した時期を問い合わせ」た半年後。そこに安龍福が密航して来るのは翌年6月である。密航の半年も前に鳥取藩が回答した内容に、「安龍福の渡日活動」がどうやって影響を与えるというのだろうか。東北アジア歴史財団が描く「安龍福の渡日活動」は、荒唐無稽である。「安龍福事件」によって、江戸幕府が「結果的に二島(欝陵島・独島)を朝鮮の領土と認定すること」はなかったのである。


(注6)『粛宗実録』粛宗二十二年丙子九月戊寅條。『粛宗実録』粛宗二十二年丙子十月丙申條。


 

【韓国側の批判3】

1696年1月に下った幕府の渡海禁止令は、同じ年の8月、米子の住民に伝えられたので、米子の住民の場合、それ以前に欝陵島に行くことができた。したがって同じ年の5月、欝陵島で日本人に会ったという安龍福の陳述を偽りと見る日本側の主張は妥当ではない。
また、2005年、日本の隠岐島で発見された安龍福の渡日活動に関する日本側の調査報告書の『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』によれば、安龍福は八道の名前と共に欝陵島と独島が朝鮮の江原道の所属であることを明記した文書を所持していた。

【東北アジア歴史財団による歴史の捏造】

 隠岐島に密航した安龍福は帰還後、その理由を、欝陵島で遭遇した日本漁民を追い、隠岐島に漂着した、と供述している。だが朝鮮の廟議は、その供述を安龍福の偽証とした。
それを東北アジア歴史財団は、「1696年1月に下った幕府の渡海禁止令は、同じ年の8月、米子の住民に伝えられたので」、「欝陵島に行くことができた」とし、「欝陵島で日本人に会ったという安龍福の陳述を偽りと見る日本側の主張は妥当ではない」と反論したのである。
しかし、鳥取藩米子の大谷・村川両家の「渡海免許」は、1696年1月、幕府の命で鳥取藩に「差出」され、2月、幕府に返納されていた。その際、大谷・村川両家に対しても、「竹嶋江渡海無用」と伝えられていた。従って「同じ年の8月、米子の住民」が、「欝陵島に行くことができた」とする東北アジア歴史財団の主張は、全くの虚構なのである。安龍福の供述に信憑性がない事実は、安龍福が隠岐島に密航した際、事情聴取をした日本側の『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』でも確認ができる。備辺司の取り調べに対し、漂着したと供述した安龍福は、隠岐島では「伯耆様江御断之儀」があるとし、鳥取藩で訴訟するためとしていたからだ。そこで安龍福は予め「朝鮮八道之図」を所持し、「朝欝両島監税総将臣安同知騎」とした旗印を準備するなど、周到な用意をしていたのである。
それを東北アジア歴史財団では、「朝鮮八道之図」を「八道の名前と共に欝陵島と独島が朝鮮の江原道の所属であることを明記した文書」とするが、それは文献を読んでいない証である。「朝鮮八道之図」は文書ではなく、『新増東国輿地勝覧』に由来する朝鮮八道の地図である。安龍福はその地図を持参して、「松嶋は右同道の内、子山島」と供述し、それが『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』に記録されたのである。安龍福は「欝陵島と独島が朝鮮の江原道の所属であることを明記した文書」など、所持していなかったのである。
それは安龍福が所持していたのが、「朝鮮八道之図」だからである。従って、安龍福が「松嶋は右同道の内、子山島」とした子山島は、『新増東国輿地勝覧』に由来する子山島(于山島)を指していたことになる。なぜなら『新増東国輿地勝覧』の于山島は、『太宗実録』(注7)の記事に由来し、分註にも「一説、于山、欝陵本一島」と注記されているように、欝陵島の別称だったからである。従って『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」と「江原道図」には、二つの欝陵島が描かれているが、現在の竹島は描かれていないのである。
事実、「八道総図」と「江原道図」の于山島は、その後、竹嶼に「所謂于山島」と付記した朴錫昌の『欝陵島図形』や金正浩の『大東地志』・『青邱図』等で修正がなされ、欝陵島の東二キロの竹嶼となるのである。「朝鮮八道之図」を根拠に、「松嶋は右同道の内、子山島」とした安龍福は、隠岐島と朝鮮の備辺司で、後世をも惑わす供述をしていたのである。


(注7)『太宗実録』太宗十七年丁酉二月壬戌條。


 


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