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韓国が知らない10の独島の虚偽

第2回

「韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません。」の正当性

東北アジア歴史財団は、日本の外務省が刊行した「竹島問題を理解するための10のポイント」の内、「2.韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はありません。」を以下のように要約し、次の1〜4を根拠に「日本の主張はこれだから誤りだ」とした。

【要約】
「韓国が昔から独島を認識していたという根拠はない、韓国側は于山島が独島と主張しているが、于山島は欝陵島と同じ島か実在しない島だ。」

【韓国側の批判1】

独島は欝陵島で肉眼でも眺めることができる。その結果、『世宗実録』「地理志」(1454年)には、「于山(独島)と武陵(欝陵島)二島が県の正東の海中にある。二島は互いに遠くなく、天気がよければ眺めることができる」と記録されている。

【東北アジア歴史財団による歴史の捏造】

 これは反論ではない。日本の外務省では「于山島は欝陵島と同じ島か、実在しない島」とし、于山島は竹島ではないとしたはずだ。反論をするなら、于山島が今日の竹島であったことの証明である。それを東北アジア歴史財団では、『世宗実録地理志』の「于山、武陵二島在縣正東海中」を「于山(独島)と武陵(欝陵島)二島が県の正東の海中にある」と読み、論証もせずに于山島を独島と決め付けているからだ。

 それに『世宗実録地理志』の「蔚珍県條」(于山・武陵二島。在県正東海中。二島相去不遠。風日清明則可望見)を解釈し、欝陵島から于山島を「眺めることができる」とした読み方も正しくない。『世宗実録地理志』は地誌編纂の方針に従って記述されており、欝陵島を管轄する蔚珍県から欝陵島が「眺めることができる」、と解釈しなければならないからだ。そのため『世宗実録地理志』を踏襲した『新増東国輿地勝覧』では、当該部分を詳述して「風日清明なれば則ち峯頭の樹木及び山根の沙渚を、眺めることができる」とし、蔚珍県からは、管轄する欝陵島の峯頭の樹木及び山根の沙渚が見える、としたのである。

 その読解が正しいことは、『新増東国輿地勝覧』の文言を継承し、本文から于山島を削除した『輿地図書』(英祖40年代成立)が、「欝陵島。一羽陵。島在府東南海中。三峯岌●(山へんに業)●(手へんに掌)空、南峯稍卑。風日清明則峯頭樹木山根沙渚歴々可見」としたことが証左となる。

 その上、『世宗実録地理志』の「蔚珍県條」には、于山島と武陵島が記載されたヒントが記されている。それが「蔚珍県條」の「我太祖(註1)時、聞流民逃入其島者甚多、再命三陟人金麟雨爲按撫使、刷出空其地。麟雨言土地沃饒、竹大如柱、鼠大如猫、桃核大於升。他物稱是」の部分である。これは「金麟雨を以って于山武陵等処按撫使と為す」とした『世宗実録』の世宗7年(1425年)8月甲戌条に関連する記事である。金麟雨が于山武陵等処按撫使として、新たに于山島の按撫使を命じられたのは、太宗16年(1416年)9月、武陵等処按撫使の金麟雨が、欝陵島から帰還した際に「于山島より還る」と復命し、于山島の「土産の大竹、水牛皮、生苧、綿子、検樸木等の物を献」じて、「其の島、戸凡そ十五、口男女併せて八十六」と報告したことによる。そのため『東国輿地勝覧』は「于山欝陵本一島」とし、一説として于山島を欝陵島と同じ島としているのである。

 東北アジア歴史財団は、「独島は欝陵島で肉眼でも眺めることができる」ことから『世宗実録地理志』の于山島を竹島と解釈したが、それは文献批判を無視した詭弁である。

 (註1)太宗の誤り。『東国輿地勝覧』では「我太宗の時」と正しく引用されている。

 

【韓国側の批判2】

『新増東国輿地勝覧』(1530年),『東国文献備考』(1770年),『萬機要覧』(1808年),『増補文献備考』(1908年)等、韓国の数多くの官撰文書に独島の昔の地名である于山島が明確に表記されている。

【東北アジア歴史財団による歴史の捏造】

 東北アジア歴史財団は、『新増東国輿地勝覧』『東国文献備考』『萬機要覧』『増補文献備考』等に記された于山島を、今日の竹島として疑わない。だが韓国側に求められているのは、于山島が竹島であったことの実証である。なぜなら朝鮮時代の文献に記録された于山島には、二つの于山島があったからだ。『世宗実録地理志』や『東国輿地勝覧』に由来する于山島と、後述する『東国文献備考』の分註で「于山は倭の所謂松島なり」とされた于山島で、前者の于山島は、既述のように欝陵島であった。

一方、『東国文献備考』の分註に記載された于山島は1696年、日本に密航し、鳥取藩によって追放された安龍福の帰還後の証言に始まる。だが安龍福が「松島は于山島だ。これも我朝鮮の地だ」とした于山島は、欝陵島の東約2キロに位置する竹嶼であった。1711年、欝陵島捜討に赴いた三陟営将の朴錫昌が『欝陵島図形』を作成し、その中で竹嶼に「所謂于山島」と注記したことから、竹嶼が于山島と称されることになったからだ。その地理的認識は、後世、『廣輿図』『海東地図』『青邱図』『大韓全図』等に踏襲されている。

 

鬱陵島図形 拡大図

 (写真1)朴錫昌『欝陵島図形』右:同図拡大

 

広輿図 広輿図拡大

 (写真2)『廣輿図』右:同図拡大

 

「韓国の数多くの官撰文書に独島の昔の地名である于山島が明確に表記されている」と主張した東北アジア歴史財団の反論には、根拠がないのである。それは次に述べるように、韓国側が論拠とする『東国文献備考』の分註そのものが、改竄されていたからである。

【韓国側の批判3】

『東国文献備考』『萬機要覧』『増補文献備考』等には、「欝陵島と于山島は皆、于山国の地であり、于山島は日本人が言う松島」と記録されている。松島は当時、日本人が呼ぶ独島の名称で、于山島がきっと独島であるという事実を語っている。

【東北アジア歴史財団による歴史の捏造】

 韓国側には、文献を恣意的に解釈する傾向がある。『東国文献備考』の分註「輿地志云、欝陵于山皆于山国地。于山則倭所謂松島也」も、無批判に「于山島は日本人が言う松島(現在の竹島)」と解釈し、竹島の領有権を主張する論拠としてきた。

だが『東国文献備考』の分註は、「輿地志云」とあるように、柳馨遠の『東国輿地志』(1656年)からの引用文である。当然、『東国輿地志』の記述がどうなっていたのか、検証は欠かせない。そこで『東国輿地志』を確認すると、于山島に関しては「一説于山鬱陵本一島」とあるが、「欝陵于山皆于山国地。于山則倭所謂松島也」の文言はないのである。

これは『東国輿地志』から引用された文言が、『東国文献備考』が編纂される過程で書き換えられていた、と見るべきである。そこで『東国文献備考』の底本となった申景濬の『疆界誌』を見ると、そこには「愚按、輿地志云、一説、于山欝陵本一島。而考諸図志、二島也。一則倭所謂松島而二島倶是于山国也」と記されており、柳馨遠の『東国輿地志』とは明らかに文意が異なっている。柳馨遠の『東国輿地志』から「一説于山鬱陵本一島」(一説に、于山島と欝陵島は同じ島である)と引用されていた文言が、『疆界誌』では「欝陵島と于山島は皆、于山国の地であり、于山島は日本人が言う松島」を導くための叩き台に使われ、于山島は「倭の所謂松島」にされているからである。

ではなぜ、引用文は改竄されたのであろうか。そのヒントは、申景濬の按記の中にある。申景濬は自説を述べ、「柳馨遠の『東国輿地志』には『一説、于山欝陵本一島』と記されているが、各地図や地志を考えると二島である。一つは所謂倭の松島で、おそらく二島はともに于山国であろう」としている。申景濬は欝陵島の他に于山島が存在し、それを倭の松島と認識していたのである。この「于山は倭の所謂松島」とする地理的理解は、1696年に鳥取藩に密航した安龍福の証言から始まる。朝鮮ではその安龍福の密航事件を機に、「欝陵島図形」(写真1)が作成され、欝陵島と于山島(竹嶼)の二島が描かれた『廣輿図』(写真2)『海東地図』等が流布していたからだ。申景濬は、その「欝陵島図形」から始まる諸図を参考に、欝陵島と于山島(竹嶼)の二島の存在を認識したのであろう。

だが申景濬が『疆界誌』に引用した柳馨遠の『東国輿地志』の于山島は、「一説于山鬱陵本一島」とした欝陵島であった。それが『東国文献備考』の編纂過程で申景濬の按記が潤色され、申景濬の見解も『東国輿地志』からの引用文として、改竄されたのである。

それ故、『東国文献備考』の分註に記された于山島は、二重の意味で竹島とは無縁であった。柳馨遠の『東国輿地志』に登場する于山島は欝陵島であったが、申景濬の『疆界誌』に由来する于山島は、「欝陵島図形」以来の竹嶼を指していたからである。

東北アジア歴史財団が反論するように、「松島は当時、日本人が呼ぶ独島の名称で、于山島がきっと独島である」といった事実は、なかったのである。東北アジア歴史財団では、『東国文献備考』の外にも『萬機要覧』と『増補文献備考』を根拠として挙げているが、何れも『東国文献備考』の孫引きで、于山島が竹島であったことの根拠にはならない。

【韓国側の批判4】

韓国の古地図では官撰地図であれ、私撰地図であれ、東海の二つの島、すなわち欝陵島と独島をともに描いている。当時の地図の製作技術の不足で、独島の位置や大きさを誤って描いているが、それによって独島の存在を認識することができなかったという証拠にはならない。

【東北アジア歴史財団による歴史の捏造】

 東北アジア歴史財団は、「韓国の古地図では官撰地図であれ、私撰地図であれ、東海の二つの島、すなわち欝陵島と独島をともに描いている」と反論するが、それは根拠薄弱な主張である。于山島に関する朝鮮時代の地図には二つの系統があり、『東国輿地勝覧』の「八道総図」に由来する地図と、安龍福の密航事件を契機に作成された「欝陵島図形」の系譜である。「欝陵島図形」の于山島は1711年、欝陵島捜討に赴いた三陟営将の朴錫昌が提出した「欝陵島図形」に由来し、「所謂于山島」と注記がなされた欝陵島の東2キロの竹嶼のことである。『東国輿地勝覧』の「八道総図」には于山島と欝陵島の二つの欝陵島が描かれ、何れにも今日の竹島は描かれていないのである。

それを東北アジア歴史財団では、「当時の地図の製作技術の不足で、独島の位置や大きさを誤って描いているが、それによって独島の存在を認識することができなかったという証拠にはならない」と反論するが、それは無理な主張である。「当時の地図の製作技術の不足」を根拠とする東北アジア歴史財団には、文献批判が不足しているのである。


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