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杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」

第23回鬱陵島友会報は語る−(3)朝鮮人との交流−


『鬱陵島友会報』第5号は、副題に「日韓親善特別号」とあります。日韓基本条約も締結した直後であり、思い出と共に両国の新しい絆に期待する気持ちが横溢した文章が並びます。「鬱陵島友会に寄す」という一文を書いた駐日神戸大韓民国領事李源達氏は、朝鮮本土の中学校で鬱陵島から来た日本人の知人たちと学んだことにふれています。

この度6冊の『鬱陵島友会会報』をご提供いただいた奥村平治氏は、父親が経営する朝鮮本土の馬山市(慶尚南道)の缶詰工場に朝鮮の学生も含む数多くの若者達が動員され、戦下の工場は軍需工場化していた、と語ってくださいました。

隠岐郡西ノ島町にご健在のKさんは、鬱陵島で義父と夫が経営する鉄工所で2人の朝鮮の人を雇っていたこと、終戦で引揚げる時、このまま島で一緒に暮らそうと朝鮮の人達は嘆願するし、私達は日本人が残ったら皆さんに迷惑がかかるからと答え、共に涙々の別れでしたと話されました。

「会報」の第1号の名簿の中に、明らかに朝鮮人と思える名と、沙洞出身2名、錐山洞出身1名の人が鳥取県境港在住として載っています。それぞれ明治32(1899)年、大正3(1915)年、大正11年生まれとありますから、終戦時に日本での飛躍を期待して来日した人と思われます。

「会報」第3号は昭和40(1965)年11月に発行されていますが、この年の8月に、鬱陵島友会はK会長の外78名の連名で佐藤総理大臣、椎名外務大臣等に竹島(ランコ島)が日本領であることを明確にするよう請願書を提出しています。この年の6月22日に日韓両国が日韓基本条約を締結しますが、竹島の領有問題は解決しなかったのです。決議文は「竹島は日本領土なり。われらは古きは父祖の代より明治大正昭和に亘って問題の竹島に最も近い韓国慶尚北道蔚陵島に在住せし者である。(中略)同島は島根県の管轄下に在り、魚介海草の漁獲採取はすべて島根県の許可を得るに非ざれば不可能であり、蔚陵島よりアワビ、サザエ、テングサ、ワカメ等の採取に行く者すべて島根県の許可所有者に入漁料を支払って行ったものである。(以下略)」と述べています。

親子2代が鬱陵島で生活した境港市在住のKさんは、新聞記者の質問に「長年いっしょに暮らした韓国人も竹島は日本領土だといった。自分が生き証人になって竹島の日本領を訴えたい」と語っています。

「会報」第5号には元島司のSさんが、昔鬱陵島では「欝陵島、島の面積せまけれど、陸に千古の密林を、海に無限の大宝庫、そして又日韓融和の理想郷」と、鴨緑江節でうたったことを回想しています。また、この5号や昭和43(1968)年11月発行の第6号には韓国人からのなつかしさを語る手紙、はがきも掲載されています。

昭和44(1969)年発行の第7号にも「韓国よりの通信」として、戦前鬱陵島で一緒だった4人から便りがあったことが報告されています。

昭和46(1971)年5月発行の第8号では、鬱陵島にその後も在住の朝鮮の人達が「欝陵郡繁栄会」という組織をつくり、その会長の李永官氏が「最近の鬱陵島」という一文を載せておられます。李氏は昭和48(1973)年5月発行の第9号にも近況を報告されています。

なお、この第9号にはK氏が「鬱陵島に行って参りました」と題して、35年ぶりに訪れた鬱陵島のことを報告されています。道洞港が拡張工事の最中であること、島の人口は約25,000人で、1人あたりの所得は韓国内で一番高額である等の記録や、すでにかつての墓地の場所に住宅が建っている様子など数多くの写真も掲載されています。

この戦後竹島問題に関心をもちつつ、鬱陵島で一緒に生活した韓国人も含む島友との絆を大切にして生きられた人達の鬱陵島友会は、現在は存続していません。いつ解散となったのか、会報は何号まで発行されたのかも目下不明です。

鬱陵島友会報第5号
『鬱陵島友会報』第5号

(主な参考文献)

・『鬱陵島友会報』第1号昭和39(1964)年10月

・『鬱陵島友会報』第3号昭和40(1965)年11月

・『鬱陵島友会報』第5号昭和42(1967)年11月

・『鬱陵島友会報』第6号昭和43(1968)年11月

・『鬱陵島友会報』第8号昭和46(1971)年5月

・『鬱陵島友会報』第9号昭和48(1973)年5月


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