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杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」

第13回松浦武四郎について


今回は江戸時代の終わりから明治初期にかけて、鬱陵島、竹島等の重要性を人々に訴えた松浦武四郎(まつうらたけしろう)という人物のことをお話します。

武四郎は伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松坂市)で、文政元(1818)年に生まれました。家が伊勢神宮に続く街道沿いにあったので、全国からのお伊勢参りの人々に接する機会も幼少期からたびたびありました。当時、日本の人口が3000万人程度であるのに対し、500万人が伊勢神宮に参拝したという、天保元(1830)年頃からの「おかげ参り」という旅ブームが起こりました。このことは少年期の彼に全国各地に好奇心をもたせることになり、携帯する愛読書は「日本名所図会」だったそうです。

行動力もあり、16歳になると家出同然の形で全国を行脚し始めました。特に北海道へは6回出向き、「北海道」や、その他現在の地名のかなりのところが彼の命名によることがわかっているそうです。

天保7(1836)年に彼は山陰地方にも姿を見せ、出雲大社や益田の柿本人麿神社を詣で、山口県の萩まで足を延ばしています。山陰の石見地方の宿屋の主人から、享保期に鬱陵島へたびたび渡った浜田の船頭長兵衛のことを聞いたと自伝で語っています。なお、彼が山陰へ来る直前、鬱陵島への渡海が発覚して逮捕、処刑される今津屋八右衛門の事件が起こっていますので、八右衛門のことも聞いた可能性があります。

その後九州を一周し、対馬へも渡っています。その彼が大変驚いた出来事が、イギリスが清を武力行使で多くの港を開かせた天保11年からのアヘン戦争です。また、日本周辺への外国船の出現も彼に危機感をもたせました。

武四郎は安政元(1854)年「他計甚麼雑誌」(たけしまざっし)という冊子を作り、人々に配布しました。そこには「去夏外国船(墨夷赤狄)、東西に滞船し国事が杞憂すべき状態にある」、「竹島は朝鮮と我が国の間にあり人が居住していないので、ここに外国船が集まり、山陰の諸港に出没すればその害は少なくない」と書かれています。

彼は元治2(1862)年には書名の字を変えて「多気甚麼雑誌」(たけしまざっし)、明治3(1870)年には「竹島雑誌」(たけしまざっし)を書きました。そこには「日本の有志の士がかの地(竹島・鬱陵島のこと)に渡り、外国船と誠信を通じ、世界の情勢を探知すれば得策となることこの上ない」、「蝦夷、樺太、伊豆七島等に比して竹島はあまりにも知られていない」等と自分が考える竹島への思いを記しています。

武四郎の訴えに反応したのが、長州藩(現在の山口県北部の藩)の吉田松陰等でした。松蔭の松下村塾(しょうかそんじゅく)の塾生桂小五郎(のち木戸孝允と改名)は代表して、藩主に「竹島開拓願い」を提出しますが、これは実現しませんでした。

武四郎は3回にわたり、共通して「たけしまざっし」と読める冊子を刊行しました。彼は引用文献を記していますが、その中に松江藩の蘭学者であった金森建策(かねもりけんさく)の「竹島図説」や「金森建策筆記」、鳥取藩の「伯耆民談」(ほうきみんだん)もあります。武四郎の3冊の冊子には、それぞれ形状を少し変えた竹島の図が載っていますが、地勢を表現する書き込み等から金森建策が嘉永2(1849)年に藩主松平斉貴(なりたけ)に提出した竹島の図を原図としていることがわかります。

一方、金森建策の竹島の図も、14年前に逮捕、処刑された浜田の今津屋八右衛門が作成した図を利用していることが判明しています。結局、天保7年の19歳の時、浜田方面を旅した松浦武四郎が、直前に処刑された浜田の八右衛門の図を松江藩の金森建策を介して受け継いだことになり、ある種の因縁を感じます。

また、武四郎は晩年、自分が旅した全国各地に依頼して集めた木材で書斎を作り、そこで過ごすのを日課にしました。山陰地方で彼の求めに応じて古い神棚の板材を提供したのは、出雲大社の千家(せんげ)家でした。

 松浦武四郎肖像

 松浦武四郎肖像写真(松浦武四郎記念館所蔵)


(主な参考文献)

・『竹島関係文書集成国立公文書館内閣文庫所蔵「外務省記録」』エムティ出版1996年

・『人物叢書142松浦武四郎』吉田武三(日本歴史学会編)吉川弘文館1967年


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