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島根の歴史・文化

島根の歴史・文化をご紹介します。

島根県誕生までのあらまし

島根誕生までのあらましを紹介します。


豊かな古代文化

 島根県は出雲・石見・隠岐の三国から成りたっています。神話の舞台となった出雲は、出雲大社をはじめ数多くの古社があり、太古の神々の歌が聞こえてくるようです。また、出雲国風土記(いずものくにふどき)の巻頭を飾る「国引き」の神話は古代出雲びとの壮大なロマンを語っています。
石見には万葉の歌人柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が国司として赴任し、石見の美しい情景を妻への想いとともに情熱的にうたいあげました。
日本海に浮かぶ隠岐には、都びとの流人とともに中央文化が流入し、数々の貴重な伝統文化を残しています。このように古代の島根は、豊かな文化に彩られています。

尼子氏の出現

尼子(あまこ)氏肖像画

 鎌倉幕府が成立すると、全国に守護が置かれましたが、出雲、石見、隠岐の守護はいずれも近江の佐々木氏でした。彼らとその一族の多くは、それぞれ土着して有力在地領主となりましたが、石見守護は承久(じょうきゅう)の乱に京方となって敗れたため、以後は在地土豪の益田氏が実質的な守護となりました。
室町時代になると、出雲、隠岐守護には京極(きょうごく)氏、石見には大内氏が任じられましたが、応仁の乱後、下剋上(げこくじょう)の風潮が一段と強まり、富田(とだ)城(広瀬町)を拠点とする京極氏の守護代尼子(あまこ)氏が急速に強大化し、奥出雲の砂鉄や石見銀山を手に入れて、16世紀初めの最盛期には山陰、山陽にまたがる大戦国大名に成長しました。しかし、間もなく衰退の色を強め、永禄9年(1566)安芸(あき)の毛利元就(もうりもとなり)によって滅ぼされました。




 


近世の状況

石見(いわみ)銀山(大田市)

 関ヶ原の合戦後、出雲、隠岐の太守として入国した堀尾吉晴は、富田城を廃して松江に築城しました。その後、寛永15年(1638)徳川家康の孫、松平直政が入城して親藩松江藩が誕生し、明治維新まで続きました。その間、広瀬、母里(もり)の2支藩が成立しています。茶人大名で有名な7代藩主治郷(はるさと)(不昧)(ふまい)のとき、藩政改革に一応成功しましたが、幕末の激動期にはその対応に苦しみ、維新政府による鎮撫使(ちんぷし)の派遣を受けました。
石見は銀山領(天領)、浜田藩、津和野藩から成っていますが、石見銀山は17世紀前半最盛期を迎え、わが国最大の産出量を誇りました。浜田藩主は複雑に代わりましたが、幕末には親藩松平家となり、そのため、第2次長州征伐に際し、長州の攻撃を受け、浜田城は炎上しました。津和野藩は坂崎出羽守に次いで亀井氏が藩主となりましたが、幕末には長州と結んで倒幕運動に参加しました。
隠岐は天領に編入されましたが、松江藩預かり地の時代が長く、藩代官の支配を受けました。そのため維新期には島民の不満から隠岐騒動が起こりました。

 


島根県の誕生

 明治維新期の行政区域は、複雑に変わりました。まず明治2年(1869)2月隠岐県が成立、8月には浜田藩と隠岐県を含めた大森県が生まれましたが、翌3年2月浜田県と改称され、4年(1871)6月には津和野藩も浜田県に編入されました。
一方、出雲では明治4年の廃藩置県により、7月に松江、広瀬、母里の3県が成立しましたが、11月には3県合併して島根県が生まれました。この年12月には、いったん島根県に編入されていた隠岐が鳥取県に移りました。明治9年(1876)4月には浜田県が島根県に編入、次いで8月には鳥取県も合併され、ここに出雲、石見、隠岐、伯耆、因幡5カ国をあわせた大島根県が誕生しましたが、5年後の明治14年(1881)9月、鳥取県が再置されて、現在の島根県が誕生しました。
島根県の県名は、明治4年(1871年)11月に名付けられました。県庁所在地(松江市)が古くは島根郡(出雲国の東北部、島根半島の東部)に属していたためだとされています。島根郡という地名は、『出雲国風土記』に「島根と号くる所以は、国引き坐しし八束水臣津野命の詔りたまひて、名を負せ給へるなり、故、島根と云ふ」とあり、八束水臣津野命によって名付けられたとされています。また、それまでの県名(松江県)が使われなかったのは、明治維新の際に松江藩が倒幕に消極的な立場をとったためであると言われています。なお、島根という言葉は島または島国の意味で、根は島に付く接尾語です。

藩県変遷表1藩県変遷表2

 


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