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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第3回

韓国の10万ウォン紙幣「于山島は独島(竹島)ではなかった」

 

 2005年3月、島根県議会による「竹島の日」条例の制定は、埋もれていた竹島問題を蘇らせることになった。その翌月、盧武鉉大統領の指示で「東北アジアの平和のための正しい歴史定立企画団」(現、「東北アジア歴史財団」)が設立されると、竹島関連のインターネットサイトも数多く開設され、日韓双方の関心を集めたからだ。

 だが竹島問題のような歴史問題の場合、客観的事実に基づいた情報発信がなされるべきであった。特に昨年暮れ、崔書勉氏が「これからは独島が我が国の領土であることを証明しなければならない」としたように、韓国側では今日に至るまで、竹島を韓国領とする歴史的根拠を示せずにいるからだ。その状況の中で韓国側が論拠としたのが、1694年、欝陵島に渡った張漢相の『欝陵島事蹟』である。そこには「東方五里(約二キロ)ばかりに、一小島あり。(中略)東、海中を望めば一島あり。はるか辰方(東南東)に在り。しかしてその大きさ未だ欝島の三分の一に満たずして、三百里に過ぎず」とあるため、檀国大学の宋炳基氏等は、張漢相が欝陵島に渡った際、今日の竹島を遠望した証拠としてきた。

 だがその30年近くも前の1667年、『隠州視聴合記』では齋藤豊仙が欝陵島と松島(現、竹島)を日本領の北西限と認識していた。従って張漢相が竹島を目撃していたとしても、それを根拠に竹島が朝鮮領であったとは言えない。それに張漢相が報告した欝陵島は、朝鮮政府から「真の欝陵島に非ず」とされ、信憑性が疑われていた。『粛宗実録』の粛宗20年8月己酉条によると、『東国輿地勝覧』が伝える欝陵島像と違ったことが理由であった。

 ところが日本に批判的なサイトの半月城通信を主宰し、韓国側の主張を代弁する朴炳渉氏は、宋炳基氏の説に従って、「張漢相が目視した竹島=独島は于山島に違いない」と拡大解釈し、于山島を竹島とする論拠にしてしまった。これは明らかに牽強付会である。

 張漢相の後、朝鮮政府は欝陵島捜討を実施し、欝陵島図には于山島が描かれるが、それは張漢相が「東方五里ばかりに一小島あり」としたチクトウ(竹嶼)だったからである。そのチクトウは、越松萬戸の田会一や三陟営将の李浚明が提出した『欝陵島図形』では大于島とされ、1711年、道洞に石碑を建て、『欝陵島図形』に「刻石立標所」と注記した朴錫昌が「所謂于山島」として以来、金正浩の『青邱図』等でも于山島として描かれている。

 そしてそれを文献上で示しているのが、『日省録』の正祖7年5月12日条である。そこでは「于山島あり。周回二・三里(一周、800から1200m)ばかりとなす。南、都庄仇味に至る」とするように、于山島を欝陵島の東側にある一島としているからだ。だが竹島は、江戸時代中期の「竹嶋松島之図」にも描かれているように、二島からなっている。

 これまで韓国側では、于山島を竹島とする前提で文献を解釈してきた。だが『日省録』や『欝陵島図形』を見ても、于山島は今日の竹島(独島)とは無関係であった。にもかかわらず韓国側では于山島を独島とし、事実無根の歴史を捏造しては、誤った情報発信を続けている。そればかりか韓国政府は2009年、高額紙幣の10万ウォン券を発行し、その裏面には金正浩の『大東輿地図』を印刷するという。だが『大東輿地図』には、竹島が描かれていないため、そこに竹島を描くのだという。これは明らかに歴史の偽造である。

(下條正男)


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