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後鳥羽上皇(ごとばんさん)と隠岐

暖流のもたらす海の幸と、豊かなわき水に恵まれた隠岐諸島・中ノ島。

自給自足の穏やかな暮らしが営々と続くこの島は、承久の乱に敗れた後鳥羽上皇が送られ、その生涯を閉じた島でもあります。

亡くなられてから780年が過ぎた今でも、島の人々は親しみを込めて「ごとばんさん」と呼んでいます。


隠岐に昇る朝日の写真
隠岐に昇る朝日


後鳥羽天皇御火葬塚の写真
後鳥羽天皇御火葬塚


隠岐神社の夜祈願の様子
隠岐神社の夜祈願


海士町を見守るように広がる鎮守の森。日暮れの参道を星明かりと竹灯籠が照らします。その先に煌々(こうこう)と浮かび上がるのは、後鳥羽上皇を祭る隠岐神社です。

上皇の治世は、社会の中心が貴族から武士へと移っていく転換期でした。台頭する鎌倉幕府から権力を取り戻そうと、上皇は兵を挙げます。しかしあえなく敗れ、隠岐へ送られたのです。

新古今和歌集をつくらせ、自らも優れた歌人であった上皇にとって、都のようには歌を詠み交わす相手のいない暮らしは寂しさが募ったことでしょう。隠岐での御製をつづった「遠島百首」には、望郷の思いを詠んだ歌がいくつも収められています。

とはいえ、島での日々は不自由ばかりだったわけではありません。都の知人に手紙を送ったり、九州から刀匠を呼び寄せたりと、島外との交流も続いたといいます。

ときには、島の人々の気持ちにも心が慰められたかもしれません。角を突き合わせて遊ぶ子牛を上皇が面白がったことから、島民たちは御前で牛を戦わせて喜ばせようとしました。それが隠岐の牛突(うしづ)きのルーツになったとも。

上皇は、そうした島民の暮らしにまなざしを向けたかのような歌も詠みました。


たをやめのそでうちはらふむら雨に

とるやさなへのこゑいそぐらむ

(早乙女姿の袖を吹き払うような通り雨に、田植え歌も急いでいるようだ)


都への帰還がかなわぬまま19年を数え、60歳で上皇が亡くなられると、島の人々はほこらを建てて祭りました。火葬を行った場所には後に御火葬塚がつくられています。上皇を「ごとばんさん」と慕った島民。その気持ちは時代を経ても海士の人々に受け継がれ、御火葬塚の隣に隠岐神社が創建されました。


我こそは新島守よおきの海の

あらきなみ風心して吹け


かつて詠んだ歌に、いまも島を見守る上皇の姿が重なります。


海士町後鳥羽院資料館の展示室の写真
海士町後鳥羽院資料館の展示室


「承久楽」を踊る様子
後鳥羽上皇の和歌に踊りをつけた「承久楽」。
隠岐神社で奉納される


中ノ島(海士町)の地図


●お問い合わせ

隠岐神社(TEL:08514・2・0464)

海士町後鳥羽院資料館(TEL:08514・2・1470)

海士町観光協会(TEL:08514・2・0101)




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