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遷宮の源流

「平成の大遷宮」として保存修復工事が進められている出雲大社(出雲市大社町杵築東)。
国宝に指定されている本殿などの修造が終了し、5月10日に本殿遷座祭が執り行われます。
出雲大社の遷宮はおよそ60年ごとに行われていますが、今の姿になったのは、江戸時代前期の寛文7(1667)年に遷宮が行われた造営からと言われています。
それまでは、神仏習合の影響で境内に鐘楼や三重塔という仏教施設がありました。

寛文の造営後に描かれた「杵築大社境内絵図」の写真(千家尊祐氏所蔵)
寛文の造営後に描かれた「杵築大社境内絵図」(千家尊祐氏所蔵)
 

本殿は平安時代、45メートルあった東大寺大仏殿より高く、48メートル(16丈)あったと言い伝えられています。
かつての設計図とみられる「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」通りに、3本の柱材を束ねて一つの柱にした「心御柱(しんのみはしら)」や「宇豆柱(うづばしら)」が、
平成12年に境内遺跡から出土し、巨大神殿だったことが裏付けられました。
しかし、あまりにも巨大だったために倒壊も起き、頻繁に遷宮造営する必要がありました。
巨大建築を維持する資材、資金の関係で、規模は次第に縮小し、さらに戦乱もあって中世末期には約15メートルにまで低くなりました。
豊臣秀頼が願主となった慶長14(1609)年の造営で、本殿の高さは20メートルほどに復活しました。
寛文の造営直前に制作された「紙本著色杵築大社近郷絵図」には、鐘楼と三重塔が描かれています。
一般に神仏習合は奈良時代から始まったといいますが、出雲大社では戦国時代に進み、年中行事に鰐淵寺(がくえんじ)(出雲市別所町)の僧が参加しています。
鐘楼は永正7(1510)年、三重塔は大永7(1527)年に、それぞれ戦国武将尼子経久(あまごつねひさ)が建立。
慶長の造営でも仏教建築はそのまま残されたのです。
寛文の造営は、徳川幕府の威信をかけて行われました。
当時、出雲大社では24メートル以上の神殿を正殿式、それ以下を仮殿式と位置付けており、24メートルの本殿を復活。境内も拡大し、仏教施設を境内の外に移しました。
中世の出雲大社の祭神はスサノオとなっていましたが、これもオオクニヌシに戻され、古代への回帰が実現しました。
寛文の造営は慶長の造営から58年後に行われており、この時から遷宮はほぼ60年が目安となりました。
現在の本殿は、延享元(1744)年の造営。それ以後、今回で4度目の修造遷宮となります。

 

遷宮を記念して4月12日から「出雲大社展」開催

「平成の大遷宮」を記念し、4月12日から6月16日まで、出雲大社東隣の県立古代出雲歴史博物館で特別展「出雲大社展」が開催されます。
出雲大社所蔵の秋野鹿蒔絵(まきえ)手箱や、現在は福岡市の西光寺(さいこうじ)にある尼子経久寄進の梵鐘(ぼんしょう)など国宝6件、重要文化財32件をはじめ、昨年初公開された「金輪御造営差図」の原本など、
出雲大社や県内外に伝えられた数々の文化財、未公開資料などが一堂に展示されます。
但馬の妙見山(みょうけんさん)(兵庫県養父(やぶ)市・香美(かみ)町)に移築された、経久建立の三重塔(養父市・名草(なぐさ)神社所蔵、重要文化財)の部材の一部は、常設展で見ることができます。


古本殿などの修造が終了した出雲大社
本殿などの修造が終了した出雲大社

寛文の造営直前に描かれた「紙本著色杵築大社近郷絵図」の写真(北島建孝氏所蔵)
寛文の造営直前に描かれた「紙本著色杵築大社近郷絵図」(北島建孝氏所蔵)

寛文期の出雲大社境内模型の写真(古代出雲歴史博物館所蔵)
寛文期の出雲大社境内模型(古代出雲歴史博物館所蔵)

慶長期の出雲大社境内模型の写真(古代出雲歴史博物館所蔵)
慶長期の出雲大社境内模型(古代出雲歴史博物館所蔵)

尼子経久が建立した三重塔の写真(兵庫県養父市・名草神社)
尼子経久が建立した三重塔(兵庫県養父市・名草神社)

尼子経久が寄進した梵鐘の写真(福岡市・西光寺)
尼子経久が寄進した梵鐘(福岡市・西光寺)

○お問い合わせ
県立古代出雲歴史博物館
(TEL0853・53・8600)
 

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