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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第5回

韓国側による「竹島外一島、本邦関係無之」の解釈の誤り

 

 2月22日、「竹島の日」式典が島根県民会館で挙行された。韓国側でも関心があったようで、韓国の独島本部は20日、竹島の由来を次のように解説し、危機感を煽っていた。

 「日本人は独島を竹島と呼ぶ。竹が一本もない島を竹の島と呼ぶ理由は、韓国の全羅道の地方言葉である独(=石)島が独島→とくしま(=島)→竹島に変わった為である。日本では2005年から「竹島の日」を定め、独島を日本領土に強奪するための強盗の術策を拡げて来た」

 さらに式典当日は、韓国の聯合ニュースが「独島=朝鮮領と彩色された日本の地図発見」と報ずると京郷新聞、東亜日報、世界日報、コーニュース等が追随した。世宗大学の保坂祐二氏が「新撰朝鮮全図」外一点の地図を根拠に、日本の地図が竹島を韓国領としていた、と公表したからだ。だが独島本部の声明や保坂祐二氏の見解は、いずれも韓国側の文献解釈の限界を示すもので、逆に竹島が韓国領でなかったことを証明する結果となった。

 それは太政官指令の「竹島外一島、本邦関係無之」が読めていれば、外一島に当たる松島を今日の竹島と誤解することはなく、竹島を「全羅道の地方言葉」に帰することもないからだ。竹島問題で重要なのは文献批判と客観的な歴史事実である。

 韓国側では「竹島外一島、本邦関係無之」に、今日の竹島が含まれているとするが、それは字面だけである。『公文録』には1876年、欝陵島と竹島を島根県に貫付すべく伺いを立てた際、島根県提出の「磯竹島略図」と文書が収録されているが、その文面には混乱があるからだ。島根県作成の文書では、磯竹島を欝陵島のこととし、松島についても鳥取藩米子の大谷村川両家が渡った欝陵島のこととして、二つの欝陵島が記述されている。

 だがこれには、理由があった。当時、西洋の海図等には実在しない竹島が描かれ、それが日本でも踏襲されたからだ。その原因は、林子平の『三国接壌図』(1785年)に二つの欝陵島が描かれ、西洋に伝わったシーボルトの『日本図』(1840年)では東経129度50分の竹島(アルゴノート島)と東経130度56分の松島(ダジュレー島)が描かれていることによる。この時の竹島は、実在しないアルゴノート島で、今日の竹島(東経131度55分)が海図に登場するのは、フランスの捕鯨船リアクール号によって発見された1849年以後である。保坂祐二氏が、新発見とする地図には、いずれも今日の竹島は描かれていない。

 その後、1880年には天城艦の測量によって松島が欝陵島であったことが判明し、朴錫昌が1711年に「所謂于山島」とした小島は竹嶼(竹島)とされ、1882年、欝陵島を踏査した李奎遠の『欝陵島外図』でも、竹嶼は竹島と表記されるのである。

 1904年、無主の地であったリャンコ島が竹島と命名されたのは、隠岐島庁の所管とする際、鬱陵島を松島としたので、隠岐島司の東文輔が残った竹島を島名にした(「乙庶第一五二号」)ためである。竹島を「全羅道の地方言葉」とする独島本部の解説は、癖説である。

 また今回は、韓国側から独島守護隊が太政官指令の写しを印刷した小冊子を持参したので、早速、文献が読めない実例として「竹島の日」の講演でも使わせてもらった。韓国側が歴史攻勢を掛ければ掛けるほど、竹島は韓国領でなかった事実が明らかになるのである。

(下條正男)


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