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実事求是〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第51回

慶尚北道独島史料研究会編『竹島問題100問100答批判2』に対する批判

批判(1)

 朝鮮史研究会の「朝鮮史研究会会報」(209号)に、池内敏氏の『竹島‐もう一つの日韓関係史』(2016年刊)に対する朴柄渉氏の書評が載せられていた。だが朴柄渉氏は、池内敏氏の著書には致命的な瑕疵がある事実には触れていない。池内敏氏が同書の中で下條批判をした論理が、根拠のない韓国側の論理を自説のように装ったものだった事実や、池内敏氏が下條批判の際に使った『世宗実録』「地理志」には、証拠能力がない事実等である。

 『世宗実録』のような実録は、朝鮮時代を通じて春秋館と各地の史庫に収蔵され、曝書の時以外は、人目に触れることは稀であった。それに『世宗実録』(1454年)の「地理志」は、地理志としては未完に属した。そのような文献を敢えて使い、下條批判をした池内敏氏の真意はどこにあったのか。朴柄渉氏の書評は、それを明らかにしていない。

  朝鮮時代の地誌は、官撰の『東国輿地勝覧』(1481年)で定本となり、『新増東国輿地勝覧』(1530年)で増補されて、『輿地図書』(1756年~1765年)で改訂がなされた。その官撰の『輿地図書』を見ると、『世宗実録』「地理志」の「蔚珍県条」以来の于山島は抹消され、于山島を独島とする証拠もなくなっている。

 だが池内敏氏は、その事実には言及せず、未定稿の『世宗実録』「地理志」を用いて下條批判をしたのである。それは為にする論議である。

 今回、独島史料研究会編『竹島問題100問100答批判2』所収の柳美林氏の論稿(「歴史的争点を中心に‐『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』の内容は文脈が違う」)を俎上に載せるのは、その池内敏氏の論理を踏襲して、下條批判をしているからである。

 そこで「実事求是」では、三回に亘って柳美林氏の下條批判の誤謬を指摘し、韓国側の竹島研究の課題にも触れることにした。今回はその第一回目である。

柳美林氏に対する批判

 柳美林氏が反論したとする拙稿は、島根県竹島問題研究会編『第三期最終報告書付録』所収の「慶尚北道独島史料研究会の『竹島問題100問100答(ワック出版)に対する批判』の客観的検証」である。

 柳美林氏はその冒頭で拙稿の一部を要約し、「日本は『竹島問題100問100答』で、『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』の蔚珍県条に現われた于山島は、竹島ではなく欝陵島の他の名称である」としたと批判した。韓国側の竹島研究では、『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』の「蔚珍県条」にある于山島を独島(竹島)として、それを根拠に独島は15世紀以来、韓国領だとしてきたからだ。そこで拙稿では、慶尚北道独島史料研究会の『竹島問題100問100答批判』(2014年刊)を論駁して、改めて『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』の于山島が独島でなかった事実を明らかにした。

 これに対して柳美林氏は、「文献に現われた于山島は、すなわち独島を示しているということを論証」したと主張するが、論稿の所在を示していない。おそらくそれは『領土海洋研究』(1巻7号)所収の「『竹島問題100問100答』に対する批判的検討、そして我々の対応」と思われるが、そこでも于山島を独島とする論証はできていない。

 今回と同様、于山島を独島とする前提で『世宗実録』(「地理志」)「蔚珍県条」の「于山武陵二島。在縣正東海中。〔分註〕「二島相去不遠。風日清明則可望見」を読み、于山島を独島としているからだ。それもその論拠は、武陵島(欝陵島)から「見える」島は独島以外にないので、その于山島は独島だとする地理的与件である。文献批判を通じての論証ではなく、見えるという地理的与件だけで文献を解釈していたのである。

 そのため柳美林氏は、分註の「二島相去不遠。風日清明則可望見」を二文ではなく、于山島と武陵島の「二つの島は、距離が互いに遠くなく、晴れた日には望み見ることができる」と一文で読み、晴れた日には欝陵島から独島が「見える」と解釈した。

 だが後世の地誌では、「于山武陵二島」の于山島は実在しない島とされ、「二島相去不遠。風日清明則可望見」の内、「二島相去不遠」の文言が消えている。これは「風日清明則可望見」の「見える」は、于山島とは関係のない記述だったからである。その事実は、次の『東国輿地勝覧』の「蔚珍県条」で確認ができる。

 「二島在縣正東海中。三峯岌業●(手へんに掌)空南峯稍卑。風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見。風便則二日可到。一説于山、鬱陵本一島。地方百里」

 冒頭の「二島在縣正東海中」は、『世宗実録』「地理志」の「于山武陵二島。在縣正東海中」と同じだが、ここには「二島相去不遠」の文言も、于山島に関する記述もない。「三峯岌業●(手へんに掌)空南峯稍卑」から「地方百里」まで、全てが欝陵島の記事である。従って、「歴歴可見」(歴々見える)は、次のように読むことができる。

 「欝陵島の三峯の内、南峯がやや低く、よく晴れた日には欝陵島の峯頭の樹木や山根の沙渚が蔚珍県から歴歴と見える。朝鮮半島から欝陵島までは風の状態が良ければ二日で到る。一説では于山島と欝陵島は同じ島としており、欝陵島の広さは地方百里である」

 この解釈に対して、柳美林氏は、「三峯以下の内容はどの島を指しているのか明らかでない」と論難した。欝陵島から于山島が「見える」とし、その于山島を独島とする柳美林氏にとって、『東国輿地勝覧』は不都合な存在だからである。そこで『東国輿地勝覧』の解釈を封印するために選ばれたのが、池内敏氏が下條批判の際に使った「後世の解釈を前代に持ち込んでいるという点で誤りである」(注1)という論理である。

 池内敏氏が異論を唱えたのは、拙稿では『東国輿地勝覧』の「見える」の読み方について、朝鮮時代の読み方に倣い、蔚珍県から欝陵島が「見える」と解釈すべきだとし、『世宗実録』「地理志」の「見える」も同様に解釈すべきだとしたからである。

 だがそれは根拠があってのことである。『東国輿地勝覧』や『世宗実録』「地理志」は、編纂方針である「規式」に従って編纂されていたからである。そのため許穆は、『東国輿地勝覧』の「蔚珍県条」を「于山欝陵一島。望三峯岌業。海晴則山木可見。山下白沙甚遠」(注2)と読み、対馬藩が朝鮮政府と欝陵島の領有権を争った時も、朝鮮政府は蔚珍県から欝陵島が「見える」と読んで、欝陵島を朝鮮領とする論拠としている。

 それを嫌った柳美林氏は、池内敏氏の下條批判を奇貨として、蔚珍県から欝陵島が「見える」とした『東国輿地勝覧』の解釈を、封印しようとしたのであろう。

 だが歴史的事実として、朝鮮時代の地志は、原則的に編纂方針の「規式」に準拠して編修されたため、管轄する蔚珍県から所管の欝陵島が「見える」と読むことになっている。この「規式」についても池内敏氏は「例外がある」と下條批判をしたが、それは文献が読めていない韓国側の論理を借用したもので、池内氏の批判には説得力がない(注3)。

 『世宗実録』「地理志」(蔚珍県条)に記載された于山島は、後世の『輿地図書』や『大東地志』では削除され、欝陵島捜討使の朴錫昌が、『欝陵島図形』(1711年)で于山島を欝陵島傍近の竹嶼としてからは、竹嶼とされたからだ。これは『世宗実録』(1454年)の編纂当時、所在不明だった于山島が後に修正されて、竹嶼として定着したということである。

 だが于山島が所在不明だったという状況は、『世宗実録』の三年前に編修された『高麗史』「地理志」(1451年)でも同じであった。本文には欝陵島のみが記載され、分註では「一云、于山、武陵本二島」として、于山島と欝陵島を二島とするからだ。『高麗史』「地理志」の編纂当時も、于山島を特定できなかったのである。柳美林氏は「文献に現われた于山島は、すなわち独島を示している」とするが、その事実はない。『高麗史』から三十年後の『東国輿地勝覧』(1481年)でも、于山島の所在を特定することができなかったからだ。『世宗実録』「地理志」では、于山島と欝陵島を「二島相去不遠」として二島とし、『東国輿地勝覧』の分註では「一説于山、鬱陵本一島」として、于山島と欝陵島を同島異名としている。

 それも『東国輿地勝覧』の編纂には、『高麗史』と『世宗実録』の編修に関与した梁誠之が関わっていた。同じ梁誠之が関係した文献では、何れも于山島の特定ができていなかった。それは『東国輿地勝覧』所収の「八道総図」と「江原道」地図で、確認ができる。「八道総図」と「江原道」地図では、欝陵島とほぼ同じ大きさの于山島が朝鮮半島と欝陵島の間に描かれているが、そのような島は実在しないからだ。

 それに「八道総図」は、徐居正が『東国輿地勝覧』の序で「戊戌春正月、臣梁誠之、八道地誌を進め、臣等東文選を進む」と記すように、梁誠之の『八道地誌』とは密接な関係にあった。その『八道地誌』に、『東文選』の「詩文を以て地誌に添入」したのが『東国輿地勝覧』だからである。『東国輿地勝覧』の「八道総図」と「江原道」地図で、于山島が朝鮮半島と欝陵島の間に描かれたのは、于山島の所在が特定できなかったからである。

 それを柳美林氏と池内敏氏は、『世宗実録』(「地理志」)「蔚珍県条」の「見える」を解釈する際、当然のように欝陵島から于山島が「見える」と解釈した。だが「八道総図」に従って「蔚珍県条」を解釈すれば、于山島から欝陵島が「見える」と読まねばならない。この事実は、『世宗実録』「地理志」の「蔚珍県条」の「二島相去不遠。風日清明則可望見」だけを論じても、于山島については明らかにできない、ということである。

 それは漢籍の場合、本文に于山島の記載があれば、その典拠となる記事が分註の中に引用されているからである。その記事が、「太祖時、聞流民逃入其島者甚多」である。これは『太宗実録』の「太宗十六年九月庚寅条」に由来する記事で、『太宗実録』の「太宗十七年二月壬戌条」には、「于山島より還る」とした記述がある。同条によると、その于山島には「男女併せて八十六」名がいた。八十六名もの人が住む于山島は、独島ではない。拙稿では、この八十六名が住む于山島を、本文の于山島としたのである。

 これに対して柳美林氏は、分註の「一部の記事を取り出し、それを全体的な本旨と強調して、塗糊してはならない」と批判した。だがそれは反論のための反論である。漢籍の場合、本文と分註は密接に関係しているからだ。それには証拠がある。『新増東国輿地勝覧』を底本とし、本文から于山島の記述を消した『輿地図書』では、分註にあった引用文の「太祖時、聞流民逃入其島者甚多」を「太宗時、流民多在海島」と書き換え、金正浩の『大東地志』では「太宗朝聞流民逃于欝陵島者甚多」として、「其島」を欝陵島に修正しているからだ。これは分註と本文が連係していることを示す証左である。

 それを分註の「一部の記事を取り出」したと批判する柳美林氏は、朝鮮史研究の基本を逸脱していたのである。これは「後世の解釈を前代に持ち込んでいるという点で誤り」とした池内敏氏も、同じである。『東国輿地勝覧』の底本の一部となった『慶尚道続撰地理誌』の序文では、「前志を続撰して、以て闕略を補う」として、前志(『世宗実録』「地理志」)を底本に、闕略を補ったとしているからだ。これは『世宗実録』「地理志」を底本に『慶尚道続撰地理誌』が編纂され、定本としての『東国輿地勝覧』の編纂に繋がったということである。池内敏氏は、「後世の解釈を前代に持ち込んでいるという点で誤り」と批判するが、それは一般論である。『東国輿地勝覧』と『世宗実録』「地理志」の「見える」は、いずれも蔚珍県から欝陵島が「見える」と解釈ができ、于山島についても、その所在を明らかにしていない。これは「後世の解釈を前代に持ち込んでいる」のではない。後世の解釈も前代の解釈も同じ解釈をしているからである。

 それを池内敏氏が「後世の解釈を前代に持ち込んでいるという点で誤り」とするのは、于山島を実在する島とする前提で、『世宗実録』「地理志」の「蔚珍県条」を解釈するからである。下條批判をするのであれば、『世宗実録』「地理志」の于山島がどこの島だったのか、その実証から始めなければならないのである。

 だが下條批判のための批判をする限り、韓国側の竹島研究こそ「後世の解釈を前代に持ち込んでいる」事実には気づかないであろう。韓国側が竹島は6世紀から韓国領だったとし、15世紀の『世宗実録』「地理志」や『新増東国輿地勝覧』を根拠に、竹島は歴史的に韓国領だとする論理こそが、「後世の解釈を前代に」持ち込んだものだからである。

 その論拠となっているのが、1770年に編纂された『東国文献備考』(「輿地考」)の分註(「于山は倭の所謂松島なり」)である。韓国側の竹島研究では、その後世の解釈に依拠して、前代の文献や古地図にある于山島を独島と読み換え、独島は韓国領だとしてきた。「後世の解釈を前代に持ち込んでいるという点で誤り」とする池内敏氏は何故、この事実を指摘しないのか。韓国側では池内敏氏の論理を奇貨とし、池内敏氏は文献が読めていない韓国側の主張を自説のように装って、下條批判の論拠としている。韓国側の竹島研究が堂々巡りの主張を繰り返す理由がここにある。

 次回、二回目は、その『東国文献備考』について、柳美林氏の文献解釈の誤りを指摘することにする。

 慶尚北道の独島史料研究会会長の金柄烈氏は、島根県竹島問題研究会の『竹島問題100問100答』(2014年刊)と関連して、『竹島問題百問百答批判2』の巻頭で不満を漏らしている。独島史料研究会ではその『竹島問題100問100答』を全文韓国語訳し、『竹島問題百問百答批判』としてネット上に公開したが、それを削除した理由についてである。金柄烈氏は、日本の出版社には書簡で問い合わせたが、返事がなかった。それが「日本側から無断で翻訳し、掲載したとして言いがかりをつけられた」ので、掲載を中止したのだという。

 そこで当時の出版関係者に確認すると、「そのような連絡はあったが、ただ翻訳してもよいか、という問い合わせ程度だったので対応しなかった」とのことである。

 金柄烈氏はこの件で批判めいたことを記しているが、金氏自身、他人を責めることはできない。金柄烈氏は、『独島か竹島か』(1997年)と『独島論争』(2001年)を刊行する際、韓国の『韓国論談』誌上で金柄烈氏と論争した時の拙稿「竹島が韓国領とする根拠は歪曲している」(1996年5月号)、「証拠を示して実証せよ」(1996年8月号)、「竹島問題の問題点」(1998年8月号)を全文、無断で転載しているからだ。

 それに島根県の『第3期「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』(2015年8月)では、慶尚北道独島史料研究会の『竹島問題百問百答批判』をネット上に再掲載することを求めている。『竹島問題百問百答』を韓国語に全訳し、独島史料研究会の反論を併記した『竹島問題百問百答批判』は画期的な業績だからだ。独島史料研究会が再度公開するというのであれば歓迎である。それは今回、下條批判をした柳美林氏の論稿を読めば納得がいく。韓国側の竹島研究では、自説にとって不都合な事実には触れず、文献を恣意的に解釈する傾向があるからだ。全文公開なら、その不都合な部分も覆い隠せないからである。

 だが隠れた韓国側の宣伝工作だけは、巧みに行われている。書評を書いた朴炳渉氏は、朝鮮史研究会の5月例会(2017年5月20日)で、池内敏氏に「勅令第41号の石島はどの島である可能性が最も高いか?」と質問すると、池内氏は「勅令の石島は竹島=独島であると答えざるを得ないと回答した」と、書評の最後に特記した。だがその回答は池内氏だからで、石島は島項(観音島)であって独島ではない。朴炳渉氏は『朝鮮史研究会会報』の書評欄を利用し、「勅令の石島は竹島=独島である」とするプロパガンダをしたのである。

 

(下條正男)

 

 

(注1)中央公論新書版『竹島‐もう一つの日韓関係史』14ページ

(注2)許穆『記言』巻二十八所収、「東界」。「于山欝陵一島、望めば三峯岌業とし、海晴なれば則ち山木見るべく、山下の白沙甚だ遠し」

(注3)実事求是、第47回「池内敏氏の中公新書版『竹島』について」

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