今までにいただいたご質問と回答
2009年 5月分
【質問1】
平凡社『世界大百科事典』17巻(2007.9改訂新版)の竹島の項目に「1881年に朝鮮で独島の呼称ができたといわれ」とある。平凡社発行の『朝鮮を知る事典』(2000.1新訂増補版)にも同様の記述がある。1881年に独島の呼称ができたというのは本当だろうか。
<回答>
御指摘の記述について出版元に尋ねたことがあります。調べたがこの記述の根拠・出典は分からなかったとのことでした。「独島」の呼称は韓国の記録では1906年の鬱島郡守沈興澤報告、日本の記録では1904年の軍艦新高の日誌(堀和生「一九〇五年日本竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』24 (1987.3) が初めて紹介)が最も古いとされていますので、1881年というのは何かの間違いだろうと思われます。出典(韓国のこの本でそう主張されているなど)が分かれば検証も可能ですが、それも不明とあっては反論のしようがありません。世界大百科事典の竹島の項目には、竹島問題という小見出しの下に「1618年伯耆国の大谷・村川両家が江戸幕府から竹島を拝領し漁場を開拓した.92−93年ころ,朝鮮からの出漁が盛んになったため,幕府は対馬藩主の宗氏を通じて出漁禁止を申し入れた.これに対し朝鮮では竹島は自国の領土であると主張し交渉は決裂した.」という記述もあります(執筆者は別の人)。この記事では、「竹島」が鬱陵島のことであることを断っていないので、江戸時代に、現在の竹島(韓国でいう独島)に朝鮮から出漁し日朝交渉が行われたように見えます。竹島に関する正しい知識の普及のため、いっそうの啓発活動が必要だということでしょう。(事務局:総務課)
【質問2】
竹島問題は鬱陵島が昔は竹島といい、その時は今の竹島は松島といったなど煩雑だ。古文書がでてくると更に理解するのに難しさを覚える。そこで年表を作ってもらえたらもっとはやく理解が進むのではないか。日韓比較年表があればもっとよい。
<回答>
竹島問題は、島名の変遷もあり歴史的な経過が分かりにくいこと御指摘のとおりです。日韓比較年表を作成するという御提案ですが、どのような形でまとめれば正確でしかも分かりやすいかなど、検討してみたいと思います。(事務局:総務課)
【質問3】
韓国の独島学会編「独島に対する日本の領有権主張が誤りである理由」http://www.korea.or.jp/hot_view_a.asp?seq=318 のPDF版10に、SCAPIN 677 で独島が「日本領土から除外され韓国に返還された」、GHQが独島を「現住人である韓国(当時は米軍政庁)に返還」したとある。日本政府の行政権が制限されただけなので、それを領土から除外されたとするのは不当だ。しかし、後半のことは見逃せない。なにか米軍政庁に移管したというような証拠はあるのだろうか。
<回答>
竹島を含むいくつかの地域に対して日本政府が権力行使をしてはならないとしたGHQの指令「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」(SCAPIN 677)ですが、この覚書が第6項で「この指令中の条項はいずれもポツダム宣言第8項にある諸小島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈してはならない」と断っていたこと、領土の決定は平和条約によるのが国際法の通則であり、平和条約では竹島の日本保持が確定したことは、2008年9月分の質問2への回答で説明したとおりです。SCAPIN 677 が領土の決定と無関係であることは、最近ブログ上でも採り上げられている外務省の記録「行政の分離に関する指令部側との会談」(A'3.0.0.6, リール番号A'-0121, コマ0154-0161)においてもGHQ当局者の言として確認されています(「...従ツテ本指令ニ依ル日本ノ範囲ノ決定ハ何等領土問題トハ関係ヲ有セス 之ハ他日媾和会議ニテ決定サルヘキ問題ナリ」)。
ところで、この1946年2月13日の会談記録には、ご質問に係る「米軍政庁への移管」と関係のある記述があります。引用したGHQ当局者の発言の前段(「したがって」という理由の部分)に、「本指令ハ単ナル聯合国側の行政的便宜ヨリ出テタルニ過キス ...SSAP(ママ)ノ行政ノ及フ範囲ハ本指令ニ示セル日本内ニ限ラレ其ノ他ハSCAPノ所管スルトコロニアラス 例ヘハ大島ハCINPAC(ママ)ノ所管、鬱陵島ハ第二十四軍団ノ指揮下ニ在リ」とあります。終戦当時の日本の領域のうちある部分は連合国間の事前の取り決めによって米軍以外の占領するところとなり(朝鮮北半、千島をソ連が占領など)、米軍の占領地においても米軍内の組織により所轄が分かれました。ここでは鬱陵島が例に上がっていますが、竹島も朝鮮南半の占領行政を担った米軍の部隊の所轄となったのかどうかという問題はあろうと思います。他方、爆撃訓練用地としての竹島使用の関係では朝鮮の米軍当局ではなくSCAPが権限を行使したと考えられる例もあり、無人の孤島である竹島には占領行政上明確な所轄の定めがなかった可能性もあります。しかし、仮に朝鮮を担当する米軍部隊の管轄下に置かれたことが資料的に裏付けられたとしても、SCAPIN 677 に規定があるとおり、またSCAPIN 677 指令当時にGHQ当局者が言明しているとおり、日本の領土的範囲の決定は別問題であり、それは平和条約で決定されるべきことであったわけです。(事務局:総務課)
【質問4】
『竹島密約』という本が出された。1965年、日本は韓国の竹島の現状維持を認め、韓国は警備隊等の増強を行わないという密約を締結し、これによって日韓基本条約を締結することが出来た、それを金泳三政権が破ったなどと書いてあるが、これについての意見をお聞かせ願いたい。
<回答>
"密約"のことについては、雑誌に記事が出た時点で簡単に、政府の説明とWeb竹島問題研究所関係者のコメントが掲載された資料名を紹介しております。2007年9・10月分の質問回答(最後から二番目)をご覧ください。
ご指摘の本(ロー・ダニエル著『竹島密約』草思社2008.11)を見ると、「解決せざるをもって解決」とし、両国とも自国の領土であると主張することを認め同時にそれに反論することに異論はない、韓国は現状を維持し警備員の増強や施設の新設増設を行わない等のことを合意したという話のようです(p.208)。質問文にあるような、日本が韓国の竹島占拠を容認するという"合意"はありえませんし、その後の展開がそれを否定しています。現時点で日韓国交正常化当時の状況を見ると、日本政府は、当初「請求権の問題のみならず、漁業問題をはじめ、在日韓国人の法的地位、竹島等の全懸案を一括して同時に解決することにより国交正常化をはかる」(1963年1月23日衆議院本会議における大平正芳外相の外交演説)としていたものが、最終的には、竹島問題について「紛争の解決に関する交換公文」で解決方法を取り決めることにより先に進むことになりました。この交換公文では、両国間の紛争は、まず外交交渉により、外交交渉で解決できなかった場合は両国が合意する手続に従い調停によって解決を図るとされました。それは、他の懸案がおおむね解決されるに至って、日韓両国間の国交を正常化するという大目標のために両国政府が編み出した妥協点だったと思われます。ただし、この条約(交換公文)に「竹島」の文字はありません。日本政府は国内的にこの条約が竹島問題のためのものだと説明し、韓国政府は国内に向けて竹島問題とは関係がないと説明しました。もし"密約"の要点が解決せざるをもって解決とする、つまり日本が竹島を自国の領土だと主張し、韓国も自国領だと主張する、相手国が領有権主張すれば反論する、相手国が領土主張をし、反論すること自体にもう一方の国は異存がない、ということであれば、表の舞台すなわち締結された条約とそれの国民への説明において、("密約"の存否とは関係なく、)実際にそのような取扱が行われたと言えるかもしれません。いずれにせよ、このようにして日韓間の国交が正常化され、その後善隣関係が深まったわけですから、今では、両国の政府と国民が竹島問題にきちんと向き合い、互いの主張に耳を傾け、歴史的事実を明らかにし、未解決の解決という便法ではなく真の解決に向けた取組が行えるのではないかと思われます。(事務局:総務課)

