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実事求是  〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜

第8回  歴史の事実

 外務省は2008年2月、竹島問題に関する小冊子「竹島問題を理解するための10のポイント」を刊行した。これに対し韓国の聯合通信は、総選挙の前日である4月8日になって俄かに「日韓新時代に竹島は日本領」と報じ、多くの韓国メディアも追随した。
 この小冊子に対しては、韓国の独島研究センターの諮問委員を務める半月城通信の朴炳渉氏が反論している。朴炳渉氏はその中で、一番の注目は1877年、太政官が「竹島外一島本邦関係之無し」とした太政官指令にあるとした。だが外務省の小冊子には、「その記述はなく、肩すかしに終わ」ったとし、その理由を「都合の悪い資料は公にしない方針なのか、それともその事実を内外にどう公表すべきかで結論が出なかったのか」と臆測している。
 そこで朴炳渉氏は、太政官指令は「竹島は日本の固有の領土」とする外務省にとって「アキレス腱的な存在」であると決め付け、その根拠として、島根県の『フォトしまね』の161号竹島特集で「外一島」を「現在の竹島とみられる」としたことを挙げている。だが太政官指令は、朴炳渉氏が理解するような「アキレス腱的な存在」ではない。それは『フォトしまね』で「現在の竹島とみられる」とし、断定を避けたことの中に理由がある。
 太政官指令の「外一島」にあたる松島は、その3年後(1880年)、欝陵島であったことが判明し、1881年には、竹島も欝陵島の東約二キロに位置する竹嶼とされていたからだ。それに太政官指令に関連する文書を収録する『公文録』には、島根県が提出した享保年間の大谷家の地図を縮写した「磯竹島略図」が所収され、そこでは磯竹島を欝陵島とし、松島を現在の竹島としているが、1870年代の地図には、実在しない竹島(アルゴノート島)とともに欝陵島が松島(ダジュレート島)として描かれ、錯綜としていたからである。
 その混乱が収拾し、「外一島」が欝陵島であったことが確認されたのは1881年、外務省の命で調査した北沢正誠の『竹島考証』と『竹島版図所属考』によってである。北沢正誠は1880年の天城艦の測量を根拠に、松島(欝陵島)を「古来我版図外の地」とし、竹島を欝陵島の東約二キロに位置する竹嶼として、「多年の疑義一朝氷解せり」としているからだ。
 この日本側の地理的理解は、1882年に欝陵島の現地踏査をした李奎遠の『欝陵島外図』にも踏襲され、1711年に捜討官の朴錫昌が作成した『欝陵島図形』で「所謂于山島」とされていた小島(竹嶼)には「竹島」と記され、今日も「チクトウ」として使われている。
 朴炳渉氏は、この歴史事実をどう理解するのだろうか。竹島問題を語る際、太政官指令そのものは「アキレス腱的な存在」ではない。一つの歴史事実が後世どのように変遷していったのか、そのプロセスを無視した批判こそが「アキレス腱的な存在」なのである。歴史の一部のみを見、文献を演繹的に解釈する限り、それは歴史研究に値しないからである。
 これと同じ現象は、「東北アジア歴史財団」が最近刊行した『19世紀東北アジア4カ国の島嶼紛争と海洋境界』、『国際法から見た日韓歴史問題』、『世界の領土紛争DBと植民侵奪の事例』にも見られる。ここでは日本による侵略という前提で、記述されているからだ。
 だが歴史の事実は、竹島の領有権を主張する歴史的根拠を持たない韓国側が竹島を不法に占拠し、事実無根の歴史を捏造しては、国際社会を欺瞞し続けているところにある。

 


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