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宍道尾道街道

宍道尾道街道とは

宍道尾道往還について
戦国時代から使われた広島〜松江を結ぶ重要ルート
 古くは戦国時代、出雲に拠点を構える尼子氏を攻める際の進攻ルートとして安芸(現在の広島県)の毛利氏が使ったのが、宍道尾道街道です。総距離18里8丁(約71.6km)のこの街道は、松江市宍道町を起点として現在の国道54号にほぼ並行するかたちで雲南市を通り、飯南町の赤名峠まで続きます。江戸時代に入って寛文6年(1666)、松江藩は支藩として広瀬藩3万石、母里藩1万石を置きましたが、広瀬藩の半分1万5000石の領地は雲南市の一部と飯南町だったため、安来市広瀬町から雲南市木次町を経て飯南町の郡本(こおりもと)という役所への役人の往来は、一部この街道を通って行われました。近世中期から盛んになる出雲巡礼も、一部この街道を通っていました。仁多−飯石で産出される鉄・木綿・紙などを木次、宍道へ運ぶのにも、この街道が大きな役割を果たしました。明治時代に入ると、山陰・山陽を結ぶ軍用道路になります。野砲を引いた軍馬が通れるよう坂の傾斜をゆるやかに整備し、名前も宍道広島街道に変わります。山陰で士族の反乱が起こったりすると、広島鎮台の軍隊が来て鎮めるのが狙いでした。日清戦争の時は、山陰から兵を広島へ招集するのに使われました。道路の整備によって荷馬車が通れるようになったため輸送力は飛躍的に上がり、明治中期以降の産業の発展に大きな役割を果たしたことは言うまでもありません。大正に入るとバスも通りはじめます。昭和38年には建設省直轄の改修工事が始まり、蛇行していた道も多くのトンネルで直行するようになります。40年には国道54号に指定され、現在は国道9号に次ぐ交通量をもつ道路として陰陽の連絡に重要な役割を果たしています。

歴史の道イメージイラスト

歴史の道探索上の注意
  1.サンダル、スカートなどの軽装は控えましょう。
2.道路や線路などの横断には充分注意しましょう。
3.公道や民家などに駐車しないようにしましょう。

 


 

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文化財課

〒690-8502 島根県松江市殿町1番地(県庁分庁舎)
島根県教育庁文化財課
TEL 0852-22-5880 FAX 0852-22-5794 
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