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港湾の集落調査

鞆ヶ浦

 この調査では、平成14・15年度に行った石見銀山街道調査の成果を踏まえながら、銀及び銀鉱石の積出港であった「鞆ヶ浦」と「沖泊」という二つの港の、集落も含めた港湾全体の土地利用のあり方やその歴史的特色を明らかにするために、地質・地形、民俗、石造物、古文書・文献、発掘、建造物などの総合的な調査を実施しました。

 

 

 

二つの港湾の特徴

 鞆ヶ浦は、石見銀山遺跡の銀山柵内から北西に約6km、沖泊は西方に約9kmほどの位置にあり、ともに両岸に急崖が迫った幅の狭い湾です。仁摩から温泉津にかけては、海岸線が複雑に入り組んだリアス式海岸で、海浜はあまり発達していません。両港は形状・規模がよく似ており、いずれも西に向けて日本海に細長く開き、鞆ヶ浦には鵜島、沖泊には櫛島が湾口の北にあって自然の防波堤の役目をし、北〜北西の波浪を受けにくくなっています。

鞆ヶ浦の集落鞆ヶ浦の集落(狭い家々を挟んで家屋が建ち並ぶ

 

 

 

 

鞆ヶ浦集落

 鞆ヶ浦は、慶長5年(1600)の史料に「ともがいわや・まじ・古龍釣役(漁業への課税のこと)」とあって、このころまでにすでに漁村化していることが分かります。近代の開発の影響も受けなかったことから、大きな地割りの変更は近世初頭以降行われなかったものと考えられています。
集落は水路に沿って傾斜のある街路とその両側の階段状の屋敷地からなっています。
その多くは前庭と作業土間、納屋を作業空間として持っており、土蔵のある沖泊とは異なっています。これは鞆ヶ浦が漁業と農業を主たる生業とした集落へと変遷したためと考えられます。狭隘な谷間に狭小な敷地という空間利用がこの集落の最大の特徴です。

 

鞆ヶ浦の港
鞆ヶ浦の湾 鞆ヶ浦の湾(正面にある島が鵜島)
鞆ヶ浦の湾 鞆ヶ浦の湾(正面にある島が鵜島)

 

沖泊集落

 沖泊の集落は史料によると、慶長10年(1605)には20筆の宅地が、元禄5年(1692)には26筆の宅地が記録されています。この間の6筆の増加は分筆によるものであり、基本的な地割りは慶長期と変わっていないことが分かります。その後、明治9年(1876)には99筆となり、2倍以上になりましたが、発掘調査などによってこの造成は幕末ごろのことと推定され、近世初頭以来の地割りの変遷を読み取ることができました。現在の地割りは幕末の造成を最期としつつ、およそ戦国期から現在まで踏襲されていると考えられています。
集落は水路と2本の街路によって区分された3列の屋敷地からなっています。崖を切り出して地割りを整え、石列や石積みによって建物の敷地を区画しています。
屋敷地には主屋に土蔵を併設するものと、主屋のみのものとがみられます。また、建物を詳しくみると、農家型の特徴を備えながらも、町屋の特徴も併せ持っていることが分かります。かつてこの集落は、廻船業や廻船問屋を営むなど、海運業を主要な生業としていたことが知られており、土蔵の併設などがこのことと関係していると考えられます。

沖泊
沖泊の集落1 沖泊の集落2
沖泊の集落(水路・街路を挟んで家屋が建ち並ぶ) 沖泊の集落

 

沖泊
集落の奥にある共同井戸 両岸に船を繋留するための鼻ぐり岩が多く見られる
集落の奥にある共同井戸 両岸に船を繋留するための鼻ぐり岩が多く見られる

 



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